昔のテレビ2

つれづれ こころ 随筆

感動するということは、たんなる、衝撃を受けることとは、ちがう。

大きくても小さくても、衝撃はたしかに、ある。そこに加えて「いいなあ」という気持ちが、うまれる。

映画や本で得られる「いいなあ」は、かならずしも「いいこと」とは限らない。楽しいことや安らぐこともあれば、切ないことや、たしかに孤独であると知ることすら、ある。

懐かしいことも「いいなあ」となる。「懐かしい」という感覚それ自体は、いいも悪いもなく、その実体は「感じたことがある」でしかない。

ここらへんに、「感動」という、心の機能の秘密の、カギがあるように思う。

「衝撃」には、大小さまざまある。より大きい衝撃に、わたしたちはよりビックリするわけだけれど、それは「事実の大小」にビックリするというよりは「その衝撃が初めてかどうか」によってビックリしていることが多い。

大人になるにつれて、驚くことが少なくなっていく。それは、驚くような現象が起きなくなったというよりは、たいていのことを経験したので、二度目以降はあまり驚かない、というだけのことだ。

衝撃を受けるかどうかは、初めてかどうかに、大きくかかわる。だから、感動するような映画や本には、初めて見知る状況が、描かれている。

同じような記憶があったら、「このパターンね」と思うだけ。

感動には、衝撃と同時に、「いいなあ」と思うことが必要。けれど、ほんとうに経験も知識もないような状況にいる主人公を見ても、感情移入はできない。「いいなあ」と感じるには、似たような経験が必要なのだ。

初めて出会う状況 + 見たことある「いいなあ」

この二つは、経験したことない + 経験したことある とまったく背反な状況が同時に生じている状態。ありえない。

おなじ記憶はもたない。けれど、おなじ感覚は、もつ。記憶がないながら、感覚は、ある。感覚的に経験したことのある「いいなあ」に、再度出会う。

非常に不思議だけれど、阿久悠さんの歌詞創作スタンス「時代の飢餓感をキャッチ」をきけば、そっくりだなと思う。

おなじ時代や国に生きていて、なにかを感じながら、人々は生きている。感じてはいるものの、あえて口にしたり、言葉にしたりはしない感情がある。一度も見たことがないし、だれも言いださないから、それを言葉にしようなんて思わない。言葉にできないものだ、と無意識に思いこんでいる。

それでも、なにかを感じている。

だから、だれか一人がそれを直球で言葉にしたとき、「私も、それを感じて生きていた」と叫びたくなる。その言葉を求める。

記憶はない。けれど、感覚を持ったことは、ある。

おなじ感覚を持った人が、自分以外にもいた、というとき、人は高揚する。多数決への第一歩。ただし、おなじ感覚を持っているのかどうかは証明不可なので、錯覚かもしれない。

感動したって、テストの点も、給料も、名誉も名声も上がらないけれど、感動したことを満足しない人はあまりいない。感動している人を非難する人もいない。感動したことだけで犯罪になる国もない(そもそも、心の内部では証明しようがないけれど)。

感動を求めてレジャーにむかう人はいても、感動を得られなかったといって返金を求める人はいない(と思う)。

あっても有害ではなく、求める人もいて、でも、人によって得られるかどうかには差がある、雲をつかませるような所業、「感動」

やっぱり幻想なのかな。でも、「幻想だよね」「ねー」っていうのすら感動。

『ホモ・サピエンス全史』という本には、そんな幻想の共有について紐解いてあるとか。この春の課題図書としよう。


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