NABOの窓

未来を見つめる焦り人 未来に見られる興味人

どんどん予測がたつようになっていく、世界。

予知能力、というと、なんだか単なる憧れとか、オカルティックな響きがあるけれど、世界の発展って終極は、予測レベルが上がっていくこと。

漠然と生き、死んでいた類人猿は、記憶力がアップしたことで、人生の現在の、その前後に、たしかに時間が存在することを、まず知った。

それから、自身のだいたいの寿命だとか、比較的、習得しやすい能力だとか、適した生活習慣だとかを、先祖の例から予測していく。自分ひとりで探しだすより、効率的に、適した環境を見つけだす。

多数の実例を書物にのこし、それを読むことで、世情のながれの大枠を理解し、このあと事態がどう転ぶか予測する。それに合わせて、転居や、所属する主義えらびや、投資活動なんかをおこなう。

天気を予測する集団があらわれる。その情報を活用して、農業活動をおこなう者があらわれる。彼らは、より生産性を上げる。農家全体が、生産性を上げていく。

自身のDNAを解析し、寿命だとか病などを、先祖の例を引くよりも正確に、予測する。病を予測し、事前に対応したりする。余計な費用や、心配から、逃れられる。

予測の技術は、もともとは、その目的にむけて作られた技術でないものも、あるだろう。天気を観察するのが好きな人がいて、それがたまたま人々の生活に役立つ、といったような流れ。

けれど、いざ「これは予測がたつぞ」となれば、それを利用する人々が群がる。予測は、利害に直結するからだ。

予測すると、煩雑な事態を、整理することができる。これから起こりうる事態を整理するということは、複数の事態を同時に処理するなどして、より効率的に行動できる。

二度手間だったものを、いっぺんにやる。すると、時間や費用があまる。すると、その分、豊かになる。

そうやって、人生の手間をどんどん省いて、省いて、省ききったさきにあるのは

生→死

あれ?

どこで区切るか。それが問題だ。

人生には、行き当たりばったりが、価値をもつこともある。むしろ、予測された感動は、感動ではない。量産の旅行雑誌のルートをなぞる、ようなこと。たどって、現実、感動することもあるだろう。本物に対峙することと、雑誌にかかれたルートの1ステージに対峙することとは、まったく別。

効率化、したいけど。

とくに「働き方改革」において効率化は、花の隆盛期。

しかしなあ。終極「生→死」になるのだったら、初めから生きなければいい、という話に、どうしてもつながる。人間なんて、地球を汚していくだけなんだから、とか、言い古されて。

そうじゃないんだよなあ。

目にみえない法則を見つけだすのが、自然科学。水は、水素と酸素でできている、みたいな。人間や、そもそも生命がうまれる前から存在していた、絶対的なルール。

ルールを見つけると、すごくうれしい。予測がたつ。この物質は、こう動くだろう。そしてそれが現実になる。

ルールは、シンプルなほどいい。シンプルの反対は、複雑。いろいろな例外がある、という意味だ。例外が少ないほど、そのルールは世界に普遍的。

ルールは、シンプルなほうがいい。

ただし、人生にとっての効率化は、「効率化すれば、豊かになれる」とシンプルなルールでいける感じではないらしい。

シンプルか複雑か、という相反する事柄ですらない。効率化すべき時と、効率化すべきでない時、正反対のふたつの瞬間が、人生にはある。

ある技術が、予測に役立つとわかったとたん、飛びつこうとする人々。その人々の心のなかには、喜び、期待、焦り、様々な感情があるだろう。

けれど、どうせ味わうんだったら、わたしは、天気を研究しつづけて予測に役立つまでにしたその人の、興味や、感動のほうに、興味がある。その感情はたぶん、一瞬一瞬、足踏みすることが価値なのであって、そこを一足飛びに効率化しようとは、彼は夢にも思わないだろう。



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