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人間とはKindle Unlimitedの中のユリシーズである

文学の価値は、集合無意識の存在を受け入れることなしにはありえない。
集合無意識の本質をつかんだ時、文学こそ至高の価値である。

私はつい最近まで、愚かにもその文学を無価値だと思い込んでいた。インターネットの世界にあまりにもなじんでいたからだ。その固有の時空間では、20世紀最高峰の文学としてそびえたつ「ユリシーズ」すらもたった数100MBのデータの塊に過ぎない。近いうちにゼタバイトの情報の洪水に押し流される運命に違いない、と浅はかにも考えていた。現代社会特有の世界観に裏打ちされた幼稚な終末論から目を覚ますには、独特の体験を必要とした。

インターネットとは、ホモ・サピエンスに別様の身体を提供する一つの「時空間」である。重要なのは、それが「時」空間であり、没入する主体に固有の時間経験を与えるということだ。そこでは一切の事象が早送りで流れ、刹那的な流行が現れては消えていく。ペルーの山麓に佇む老翁が経験する時間と、先進国日本のネット民が経験する時間は全く違う。それは単なる主観で片づけられるものではない。そもそも我々が暮らすこの宇宙は環世界のパラレルワールドである。虫は虫の環世界に住み、犬は犬の環世界に住むように、メキシコのシャーマンは彼女の環世界に、ネット民はネット民の環世界に住む。そこに展開するものを「リアルだ」と信じ込む人が増えれば増えただけ、その時空間の存在感は増す。

インターネットという時空間において人間は「コンテンツ的動物」として受肉する。それはコンテンツを消費し、排泄する。メタバースのアバターを纏うより以前にこれは起こっている。彼らが時折見せる異常なまでの非人間的属性あるいは「動物性」は、この「コンテンツ的動物」の生態学の1ページに加えられるべき項目である。虎の身体に宿った「山月記」の李徴がもはや人間ではいられないように、「コンテンツ的動物」として受肉した人間は、その時点において本質的にホモ・サピエンスではなくなる。嗅覚を失い、平面的な視力と圧縮された聴覚、および打鍵の際のキーボードの触覚のみに支配される。この「コンテンツ的動物」のホムンクルスを仮に描けたとしたら、ホモ・サピエンスのそれとどれほど乖離していることだろう! 

だがここで重要なのは、現実の時空間とネットの時空間が絶えず干渉しているがゆえに、その時空間の異質性があいまいにしか認識されないことだ。「ネット民」とひとくくりに言っても、それは「人間」と「コンテンツ的動物」の間に渡された橋のような存在であり、どちらの属性を強く帯びるかはその人次第なのである。よってこの言説は、ネット上において日々生み出されるすべての言説を否定するものではまったくない。ただ、インターネットという時空間においては、人間の叡智が凝縮された文学作品と、コンテンツ的動物の腐臭を放つ排泄物が同じKindleUnlimitedの本棚において同列に存在する。それらは、これらの世界が相互に交流しているがゆえであるが、本来それらは異質な時空間に属するものなのだ。片方は人間の時間に属し、もう片方はコンテンツ的動物の時間に属する。後者の排泄物としてのコンテンツが、文学作品に昇華されることはない。それが経済原理の歯車にたまたま乗っかって紙に印刷されようが、それは人間の精神の糧にはならない。

では、同じ「活字」という媒体を介した「文学」は、インターネットと比べてどう違うのか。もちろん、文学と一口に言っても、そこには無限のスペクトルが存在する。ここでは文学を、ウンベルト・エーコのいう「開かれたテクスト」として定義したい。作者の作為を超えた地平を切り開く「開かれたテクスト」は、インターネットと同様、活字と活字の間に浮かび上がる意味の次元に、固有の時空間を編み出す。その空間では死者が生きており、読者とのコミュニケーションの対象として現前する。これは決して比喩ではない。インターネット掲示板で他者と対話することをコミュニケーションと呼ぶならば、読書におけるコミュニケーションも同様にリアルである。

それを可能にするのがユングの発見した「集合無意識」、井筒俊彦のいう「言語阿頼耶識」だ。そもそも言葉とは、集合無意識がある対象に意味づけを欲し、ある特定の個人の発話に出現した恣意的な記号を多くの人々が熱に浮かされたように発話し、語り継ぐことを通して、世代を経て辞書に載る言葉にまで成長する。こうした、集合と個人の啐啄同時的なプロセスで、言葉は創造される。真の文学作品、「開かれたテクスト」とは、こうした言葉によって編まれた文章を指す。それは時代や地域性を帯びた織物として不断に編まれなおしては、人々を寒さから守る衣服となり、雨風から守るテントの帆布となる。

この「開かれたテクスト」が生み出す「文学空間」において、人間は「コンテンツ的動物」としてではなく、精妙な精神としての生命を与えられる。その経験はもはや、動物的な快不快の原則に縛られないがゆえに受肉ではない。仮に受肉であるとしても、きわめて精妙な波動を帯びた身体を与えられるのは、至福の体験にほかならない。肉体とは本質的に桎梏であるが、文学が与える精神的身体は、ホモサピエンスに限りない自由を与える。

文学空間において、人は不死となる。ボルヘスが言ったように、シェイクスピアの詩を読むその瞬間、人はその詩を創造した瞬間のシェイクスピアになるのである。それは人が隣人愛を実行したとき、キリストの不死性がよみがえるのと同じ原理である、とボルヘスは続ける。

もちろん、こうした価値、無限の空間としての広がりを持つ文学作品も、インターネット世界におけるデータ容量という尺度に射影すれば、たかが数百MBの情報量を持つに過ぎない。それは、無限の精神を持つ人間が、四次元物理空間における物理的身体という桎梏に自らを限定しているのと同じである。しかしその無限のひだに入り込むとき、人はそこに無限の時空間の広がりを見る。

いうなれば、人間とはKindle Unlimitedの中のユリシーズである。

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