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媚びる、盛る、噓つく情報は2000年以上前から。「異なる角度」で見破ろう

一方向からの「言葉」だけを鵜吞みにして、怒ったり吠えたりする人が苦手です。コロナの状況で気が立っていたのでしょう、ちゃんとした確認もなしに一方的にキレてきた友達がいました。

私はここ10年を振り返ると、「多角的にものを見ること」にこだわろうとしてきた気がします。そうでないと、この情報時代、見誤りませんか、判断を? あと、さっきの友人じゃないですが、相手を誤って断罪し、傷つけちゃうと思うんです。

クリティカル・シンキングは日本語でいうと「批判的思考」。なんか自分にはしっくりこないというか、いまいち使いづらいなと思っていたら、教育実践家の藤原和博さんが「複眼思考」と表現していて、そっちの方が断然わかりやすいと納得しました。さまざまな立場からのぞくと、見える景色が変わります。思い込みからも脱せられます、最適解も見いだしやすくなります。

でも、こういった見方はなかなか難しいです。自分だって、気付かずに視野が狭くなっているときがあります。

トゥキュディデスの『戦史』(「世界の名著5」)を読んでみました。2000年以上前の歴史の本です。同じ頃のヘロドトス『歴史』もあわせて今読んでますが、ヘロドトスのは最初からおもしろエピソード満載で読みやすい。「物語風の歴史」といわれるわけが分かりました。一方、トゥキュディデス『戦史』は、事実の客観的な正確さをあくまでも尊重していたようです。

「この記述は、今日の読者に媚(こ)びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべくつづられた」と本人がつづっています。未来を見ています、大局観に恐れ入りました。彼の情報を見る目は鋭いです。私は読んでいてトゥキュ(好き)になりました。

彼いはく、人間の世界は――

「誤伝はじつに多く……現在の出来事についてすら誤報がひんぱんに生ずる」「大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳をかたむける」
「個々の事件にさいしてその場にいあわせたものたちは、一つの事件についても、敵味方の感情に支配され、ことの半面しか記憶にとどめないことがおおく、そのためにかれらの供述はつねに食いちがいを生じた」

というのです。2000年以上たってもドキリとする言葉ばかりで驚かされました。これぞ古典パワーか…。

きょうの朝、テレビアニメの「はなかっぱ」を子どもたちと見ました。友達みんなでやまびこ村のスタンプラリーをしていて楽しそうです。途中、「てつがくのわきみち」を通りました。左右の壁面全てがガラス張り。自分の心を見直そう、という意図で張られているようです。いつも脳天気なはなかっぱも神妙な面持ちでした。

立場を変えて別の視点でものを見たり、自分を省みるのって、なかなかムズいんですよね。自分も省みつつ、友にも促していければと思います! いつか「てつがくのわきみち」を一緒に通れる日を信じつつ。


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