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バイオダイナミック農法のアルケミー(聖なる農業 第一章)

バイオダイナミック農法について学びたくても、どうしたらいいのかわからない人がたくさんいると思います。簡単なノウハウとして、種まきカレンダーに合わせたり、調合剤を撒いたりは出来るかも知れませんが、それでバイオダイナミック農法を実践していると言えるのでしょうか?

このような疑問は、シュタイナー教育についても、オイリュトミーについても、すべての人智学的実践においてあると思います。

ルドルフシュタイナーの農業講義は、錬金術の言葉で話されており、そのバックグラウンドを知らないとなかなか理解できません。

僕の師、デニスクロセック(Dennis Klocek)の本 ”Sacred Agriculture --Alchemy of Biodynamics” を少しずつ和訳して提供して行きたいと思います。彼は長年アメリカの人智学(Anthroposophy)運動に命を吹き込んできた第一人者です。現代における、真のアルケミストと呼べると思います。なお、彼のウェブサイト Soil, Soul, and Spirit はさらに学びを深めるための宝庫です。

”Sacred Agriculture(聖なる農業)” は7章からなります。

  • 第一章 序

  • 第二章 物質の変容

  • 第三章 マクロとミクロ

  • 第四章 錬金術と化学

  • 第五章 粘土

  • 第六章 シリカ

  • 第七章 バレリアン



第一章 序-先史時代から現代までの農の変遷

人の意識の進化と大地との関わり

 バイオダイナミック農法と有機農法の違いについて私の考えを訊かれることがあります。「まあ、惑星とか錬金術的な諸々のことと関係があります。」などと答える時もあるのですが、結局のところ私が思うのは、ルドルフ・シュタイナーによって齎された認識である、人類の未来は、人の意識の進化とそれに応じた大地との関わり方に懸かっているということに関係しています。

人の意識というのは、単に直線的だったり、ぐるぐる循環し続けるものではないのです。今持ってる意識に飽きるから、単に以前の段階の意識に帰っていくというような考えをしがちなのですが、人間は意識を発達させていくことで、宇宙の中の霊体としての地球の運命と一つになっていくことができるということを、シュタイナーは示してくれているのです。
秘教的、またシュタイナーによる観点からいうと、地球の進化は人類の意識の進化に依存しています。分かつことはできないのです。古代の人々はこのことを解っていました。だから、敬虔なあり方で生きていたのです。大地を母,天を父と観ることで、人間と聖なるものとの関係を理解し、謂わば、祭司として毎日を送っていたのです。

彼らにとって、自然が霊的な存在たちで満ちているというのは、当たり前のことでした。ところが、この世界観は進化の結果、今私たちがいるところまで来てしまったのです。今日、ほとんどの人々は、霊的存在としての地球との繋がりを断ち切られています。地球というものは単に活用すべき資源であると考えられているのです。もしあなたのお母さんの所へ行って、「あなたは私が活用すべき資源に過ぎない」と言ったら、大変なことになりませんか? 私たちの意識のありようが、霊的存在としての地球の進化に影響していることを理解することが、意識の進化にとって不可欠なのです。

この影響は、外的に私たちがすることにとどまらず、内的に私たちの心の中にあるものにも拡がっていきます。地球が宇宙的に目指す進化を遂げるためには、私たちが心の中に霊的な存在としての地球を抱いていることが必要です。ルドルフ・シュタイナーによると、地球は太陽になることを目指していて、私たちはその太陽に住む霊的存在になるということです。ちょっと途方もない考えですが、これはシュタイナーが生涯を通じて齎そうとした、意識の進化についての観点なのです。そして、古代の人々はこのことを理解していました、なぜなら、人類は星々から地球にやって来たと知っていたのだからです。

彼らは、人はみな宇宙的存在で、分かち合いと慈悲を学ぶために地球にやってきたのだと知っていました。その上で、宇宙の存在だった時のことを思い出すための儀式を創り出したのです。その儀式を通して、制約というものを学ぶために星々からやって来た時、母なる地球がその子宮に彼らを受けとめてくれたことを理解したのです。ほとんどの先住民族の文化では、人間というものは実際、星々からやって来た全知全能の存在で、唯一欠けていた制約というものを学ぶために来たと信じられていました。その学びの成果は、命の有難みを感じることです。

その学びは、私たちのためだけでなく、地球のためでもあるのです。生命体としての地球には、その自分史と運命とがあるからです。あなたも私も何時迄も肉体を持っている訳ではないように、物質体の地球も何時迄も有りはしません。けれども、霊体としての人間たちと地球は一つです。地球の霊体も人々の霊体もずっと続いていきます。このようにして、私たちと地球は一つなのです。霊的に生き続けるためには、物質体を捨てなくてはならないのです。

宇宙存在である私たちは、一つの発達段階として、賢く制約に対処する方法を学びました。私たちはそれを技術(テクノロジー)と呼んでいます。そのおかげで地球にこう言うのです。「暗闇の必要性を共有してくれてありがとう。でも私は光が欲しい。あなたが太陽に背を向けているときも、私は新聞が読めるようにしたい。飛行機に乗って、飛び回れるようにしたい。森の薪が濡れている時でも、料理ができるようにしたい。」

私たちは、一つ進化した意識と共に、テクノロジーによって地球上の制約を克服することを学んだのです。過去には、みながお互いに頼りあうことで、制約を克服していました。種族意識と生きた伝統があって、それに頼ることができました。けれども、そこから離れて、テクノロジーで制約を克服する個人の段階に進んだのです。みんなそれぞれ家があり、食料と安息を確保します。自然のルールに逆らえない肉体を持つという制約から、テクノロジーによってある程度逃れることができたのです。こうして自然から切り離されることで、自然の制約から逃れることができた訳ですが、今度はまた自然と一つに帰りたいという願いが起こってきています。

つまり問題はこうです。「私たちはかつての伝統的な社会に帰っていくのか、それともそのドアはもう閉じられていて、先へ進んでいくしかないのか? 」 この難問に答えるための試みとして、ルドルフ・シュタイナーによる秘教的観点からの意識の進化の原則と概要を説明します。あるシンプルなイメージが助けになるでしょう。意識の進化は、人の一生の中にも表れます。幼稚園で 「フォロー、フォロー、フォロー、」と始まる歌があります。園児たちはこれを聞くと、一列に並んで手を繋ぎ、前の子に続いて歩き始めます。ところで、これを先生が9年生のクラスにしたらどうでしょう?まずいですよね。集合的から個人的への意識の進化が起きているので、前の人に続けというような社会衝動は働きません。個人においてはほんの数年で起こるこの進化の過程は、悠久の時間をまたがる人類の進化を映しだしています。ここに素晴らしい秘教的な存在の秘密があります。あなたが自分自身の進化のために学ぶことが、全人類の学びに集約していくのです。そしてこの時、何を学んだかよりも、あなたが学んでいるということ自体が重要です。

例えば、あなたが5人の子どもたちを支えるために大麻を売っているシングルファーザーであっても、あなたが学んでいることが人類の集合意識に加えられます。信じられなくてもいいし、あなたについて本が書かれなくてもいい、あなたの墓石に刻まれなくてもいいのです。キリストは一冊も本を書かなかったけれど、彼が地上にいた時何が起きたかを、私たちはよく知っています。本を書こうとする人たちも居る訳ですが、何を書き残すかではないのです。今この時代に地上にあるものとして、どう自分の人生を観るかということなのです。私の一生と地球の一生は密接に結びついているのです。

問題はこうです。“私の人生にとって地球は、ただ銀行口座のためにあるものか、それとももっと大切なものなのか?” 特に農を営む者にとってこの問いは特別な意味があります。だから、ルドルフ・シュタイナーが明らかにした意識の進化を描き出すことで、バイオダイナミック農法の役割が展望できるようにしたいのです。今日ただ今のバイオダイナミックの課題は、1924年にシュタイナーが述べたことに真直ぐ返ることです。彼は将来芽吹くことを描いて種を蒔いていた、良き農夫だったのでしょうか? それとも、彼が植えた種を掘り出して博物館に展示することを、私たちに望んでいたのでしょうか? 私はこの疑問に長い間取り組んできました。私自身は、彼は良き農夫であったのだと思います。つまり、私たちのやるべきことがあるということです。

何年も前ですが、メキシコシティーのソカロ広場にある人類学博物館に行ったことがあります。そこに、世界のすべての文明の歴史が、一つの年表に表わされていました。文明が進化して、特定の基準点に達していく波のような動きが見られて、とても興味深かったのです。基準点というのは、人類学で文明の発達段階を示す、建築様式やテクノロジーなどです。面白かったのは、同じような発達段階を経ていくのにも、それぞれの文化によって違ったリズムがあるということです。

特に興味深かったのは、日本の文明です。他のほとんどの文化が何かに向かってはるかに進歩していく中、日本はずっと後ろに残って居ます。そして突然、素晴らしい創造性の高まりと共に、他の全ての文化を飛び越えて先へ行ってしまうのです。しかも、次の発展段階への種を播きながら。そして他の文化たちが追い付いて、播かれた種を育てていくと、日本文化はまた後に取り残されていくのです。そんな色々なパターンのリズムが、それぞれの文化に見られ興味をそそります。どの文化もどこかの時点で同じような段階にあるし、ある萌芽が次々と段階を経て、また次の進化へ繋がっていくのです。
そういう観点から、人類と霊的存在としての地球との関係が、農を通していかに発展してきたかということを、四つの文化段階として示したいと思います。人類が地球の上で生きる最も有益なあり方とは何かについて、基本的に答えるのは農のあり方です。人と自然の関わり方に以下の四つの段階が見られます。1)自然の子ども、 2)自然の伴侶、3)自然の世話人 4)技術者です。

自然と関わる四つの段階

「自然の子ども」としての人類は、地球上のどの地域で発展したとしても、汎文化的に工芸や宗教を通して同じようなイメージで、人間と自然界の諸力との関りを描いています。その宗教的な衝動はアニミズムとして知られています。同じようなアニミズムの遺産が世界中で見られます。それは素晴らしいラスコーの野牛の壁画で有名になりました。フランスで新たに洞窟が発見された時のドキュメンタリーが、”Cave of Forgotten Dreams”という素晴らしい映画になっています。そのシャベー洞窟の壁画はまるでピカソが描いたようで、その美しさに吃驚します。3万2千年ほど昔に、何百もの動物たちが生き生きした配置で描かれていますが、人の姿は一つだけです。ここでの宗教的衝動は、「我こそは、イタリアのルネッサンスの輝くアーチストだ。」といったものではなく、「私は自然の子。私が似た動物たちの姿で、私の生きる意味は与えられている。」というものです。

アニミズムのアートに見られるのは、動物たちは賢く、気高く、パワフルなので、岩壁に描いて奉らなくてはならないという感覚です。これらの造形は、信じられないほど心を揺さぶります。学者はこれらのアートは直感像と呼ばれる人間の能力でなされたと説明しています。直感像(Eidentic image)という言葉は、ギリシャ語の「同等の」という意味の言葉から来ています。直感像を描く画家は、外的に感得したものと全く同じ心象を内的に見ているのです。子どもたちはよくこういう見方をします。壁の木目に人の顔を見たり、それをなぞったりするのです。

このような壁画を描いた古代の人々は、自分が属する世界と内的に非常に強く繋がっているため、細部にまで完全に実際に眼前に見えるのだと学者たちは信じています。あとは、それをなぞって岩壁に現れるようにするだけなのです。だからこれらの人々は自然の子どもたちで、自然の子宮に住む狩猟採集民です。群れを追って動き、採れるものを集めます。耕したりはしません。動き続ければ、なんでも与えられるのだから、耕す必要などないのです。

狩りをし、採集し、彼らは動物の動きの少しのニュアンスにも敏感です。彼らは動物たちの意識や、今開花している果実の意識に生きています。どのベリーが今生っているか、どの根っこが今ちょうどいいか、そういう認識は外から与えられます。ちょうど胎児や幼児がそうであるように。
幼い子どもたちは栄養を環境から受け取ります。彼らに銀行口座は必要ありません。だから、自然の子どもたちは汎文化的な意識を持っており、どこの文化もこの段階では、動物の姿を基にした同じようなアートがあるのです。自然と統合した状態、みんなが一体であるような意識と言えます。みんなが同じ理解の筋に繋がり、同じ意識状態から情報を得ます。「八百万が私に語りかけるので私は生きている」というアニミズムの意識が支配的な社会です。保育園や幼稚園の子どもたちの意識と同じで、心理学ではファンタジーと呼ばれます。世界の存在たちが私に語りかけ、私の中に表象を創り出し、私に行動させる。この意識からのイメージや、儀式的な行為は、みんなに共有されるイマジネーションです。

狩猟民として先住民たちは生き残るためのいろいろな方法を見つけ出しました。矢尻や槍の穂先、刃物などです。槍や矢を作るために石を砕いて矢尻を作ることを学んだ時、何かが変わりました。自然を制御する方法があることを知ったのです。人類学では石器時代革命と言われます。この矢尻が作られ始めた同じ頃(紀元前13000年頃の地層から)、周りの部族との交戦の傾向が世界中で広く認められ始めます。気候変動に伴い、人口の圧力が生活域をめぐる対立に人々を押しやったのだと言います。つまり、”われらはすべてと一つ、群れに従い、弱いものを捨てろ” という狩猟採集民の感覚から、もっと農耕定住的な段階へ、意識の進化が起きていたのです。

農耕定住民の意識は、焼き畑という農業形態の発展に伴って起こってきました。落ちてきたドングリを拾うだけじゃなくて、ある面積の草を倒して火をつけ、種を播くのです。これで、動物を追って移動し続けたり、採集できる植物の実りに合わせて標高を移動したりせずに済むようになったのです。焼き畑方式では、肥沃な畑地がやせるまで、2、3年留まり、少し移動してまた畑地を作って種を播くのです。こうして小さな定住地ができていったのです。農業革命と呼ばれるものの始まりです。

焼き畑農業は、動物を追ってただ自分たちが移動する意識から、囲いを作ってそれを守る意識への発展を示しています。これはまた、オオカミから囲いを守るよりも、オオカミに囲いを守らせることへ移っていった時です。鹿を追いかけるよりも、鹿と仲良くしたら、、、ラップランド人の始まりです。こうして、狩りと採集の生活から農業の始まりへ向かう人類の意識の進化は、石の鋤や、動物の家畜化、そして、人類学でいう自然宗教、あるいは新石器革命をもたらしました。水牛とその力を直感像として描くのではなく、何かを特別なものとして神格化して表し始めました。アニミズムから離れて、独自のスタイルを持った表現が現れてきました。儀式的な役割を持った造形であるのは変わらないのですが、もはや汎文化的な表象ではないのです。農業を始めた人類の造形物は、様々な種類に分かれていきました。色々なタイプのとうもろこし神が生まれました。一方にはトウモロコシに依拠する文化があり、一方には大麦に依拠する文化があります。地形の影響としては、たとえば大きな山の麓では、山の上に住む全能の神が表現されます。もうアニミズムではありません。人類の意識に何かが変わったのです。

最初は木製の鋤、次に石を先に付けました、遂には金属を製錬できることを発見しました。金属の製錬が始まった青銅器時代、農的生活形態は非常に発展しました。鹿を追っていた人々は大自然の子、囲いを作り穀物を得た人々は大自然の配偶者です。畑や家畜の群れを世話するのは、自然界と結婚したようなものなのです。昔から農民を ”Husbandmen” と呼ぶ通りです。
牛を飼っている人ならどういうことか分かりますが、旅行になんか行けません。好きなところへ狩りして回っているのと違って、その牛と結婚したようなものなのです。これは一つの意識の進化の過程です。

”The God Must Be Crazy?” という映画を観ましたか? アフリカの原住民の男がコカコーラの壜を神様に返そうとする話です。誰かが飛行機から投げ捨てたコカコーラの壜が、部族の渉猟地域に落ち、それを一人の子どもが拾ったら、突然みんなが欲しくなり、そのうち殴り合いはじめて大変なことになったので、一族の長の男がそのとんでもないものを神様に返しに、世界の果てに行くことにします。ある町の近郊にさしかかった時、お腹の空いていた彼は、ヤギを見つけて毒矢で倒します。それが誰かの所有物であるというのは彼には理解できません。

とうとう人々が警察を連れてきて、彼は牢屋に入れられます。「なんでこんなところに入れるんだ? いつものように獲物はみんなと分けるつもりなのに。」判事の前に出された彼は、にっこり微笑みかけるのですが、判事は眉をひそめて対応します。彼には理解できません。彼にとっては獲物をみんなと分けるのが当たり前のことなのです。彼に解らないのは、誰かがその獲物を既に自分のものだと思っているということです。

これは一つの意識の変化です。農業の意識が発達し、人々が特定の土地に結ばれるようになるとともに、人口の圧力が社会変化の要因になっていきます。人々がもっと洗練された道具を作り出し、実際に耕したり、選別したりして穀物を育てられるようになると、この圧力はますます増していきます。穀物倉を作り、穀物を毎年毎年貯蔵していくようになります。保存する方法などないから獲物はみんなに分けるしかないというのでなく、今や貯蔵庫があるというわけです。「実は、私はとてもうまくやっているので、三つ貯蔵庫を持っている。あなたが持ってないなら、私のを貸してあげる。だけどそれなら私のところで働かなきゃならない。私の穀物が欲しければ、私のために働けばいい。」という具合です。意識の変化はもう一歩進んだのです。土地と結ばれた配偶者のような農民から、自分の土地を管理する地主としての意識です。

これは、土地所有制度と呼ばれるものの始まりです。あるグループがどこかの土地に住みつき共同の牛の放牧地を囲ったとします。そこへ誰か隣人が来て、何頭か牛を連れていってもいいだろうと思ったとします。けれども、放牧地は共同ですが、牛たちは自分の所有物なのです。以前のように、「鹿を狩って切り分け、みんなで食べよう。食べれない分は残して、まずみんなに行き渡るように分けよう。」というのでなく、「ちょっと待ってください。この牛たちは私のです。仲間で囲いを作り、私が育てたのだから。それにあの穀物倉が見えるでしょう。冬の間、あなたが食べられる根っこを探して走り回っている間、私はあそこに蓄えたエサを牛に食べさせているのです。」
この大きな意識の相克は、ずっと後に北米でもカウボーイと開拓民の間で起こりました。カウボーイは「フェンスが邪魔だ。」と言い、開拓者は 「フェンスがなかったら、お前たちの馬鹿な牛たちが作物を台無しにしちまう。」と言います。これが放牧地争いと言われたものですが、今述べている”大地の配偶者”から”大地の管理人”への意識の進化と同じ構図です。これを引き起こした土地所有制度の問題は、青銅器時代から次の鉄器時代に移るにつれて、大問題になっていきます。土地の所有に共に、農奴や奴隷が生まれていったのです。

狩猟採集民や、定住して食料を育ててみんなで暮らしていた人々には、土地の所有の考えは出てきません。シアトル酋長の話を読んでください。白人がヨーロッパから来て、「そう、お前たちに自分の土地を持たせてやろう。」と言ったとき、原住民たちが思ったのは、「一体どうやって大地を持つと言うんだ? 大地は持つものじゃない。大地は先祖のスピリットなのだ。」ということです。しかし、意識の進化は進んでいきます。そして土地所有の問題は、人々が農業と農業者の社会での役割について考えていく契機になっていきました。

鉄器時代が始まると、元手を集めるために、人々の同盟ができていきました。土地所有の権利を持つ階級がその市民であり、そうでない人は非市民です。土地所有権というのは、あなたのためにあなたの土地でどう働くか、ほかの人たちはあなたの言うことを聞くということです。土地持ち階級は生活の指図ができたのです。一方、土地を持たない人々は、地主のために働かなくてはなりません。多くの場合、それは奴隷というべきもので、今でいう移動労働者たちです。このように中世の時代を通して、土地所有の問題に導かれて人類の進化は進んでいきました。また土地所有の問題を和らげるために、コモンズ(公共用地)という考えも現れてきました。

今日でもイギリスにはコモンズがあります。自分の牛たちをコモンズで放牧できるので、便利です。ただ、コモンズにはよくゴルフコースがあるのです。コモンズはよく尾根伝いの丘の上にあって、牛たちはゴルフコースを横切って構わないのです。だからイギリスでゴルフをする時は、牛糞を踏んづけないように気を付ける必要があります。尾根の上は風が強いので、作物は育てにくいのですが、牛の食べる牧草は生えます。コモンズに沿ってたいてい諸侯の領地があります。アメリカの西海岸の州では、これは連邦放牧地です。東海岸から西部開拓者たちが来て、放牧地を囲い始め、これが放牧地争いに発展していきました。

地球が“所有できる物”になり始めたことで、地球の個体としての尊厳が問われるようになっていきました。また、あるグループの人々が他のグループの上に立って権力をふるうということが、土地所有の権利と共に起こってきました。私がヨーロッパへ行ったとき驚いたのですが。どの農場にも牛は通れないけど人は通れる公共の小道が、垣を貫いて誰でも通れるようになっていました。“自分の土地に入ってくるな”などと誰にも言われないのです。カリフォルニアでは、みんな“所有”されていて、そんなところはほとんどありません。土地所有と公共地の考え方は中世では行き渡っていましたが、土地の価値が増し、また農業技術が発達し始めると次の変わり目が訪れます。

とても興味深い変化の構図です。何千年もの間、土地所有は諸侯や王や皇帝によってコントロールされていました。ところが、産業主義と機械化が始まると人々の意識が大きく変わり始めます。機械化は、農奴にはなかった巨大な能力を、個人にもたらします。例えばトラクターを考えてみてください。ジョンディア500は500馬力です。500頭の馬を一列に並べると、約1マイル。これはちょっと扱いづらいので、4頭ずつ並べると、4分の1マイル(400m)です。この馬たちに“進め”とか“止まれ”と言うのを想像してください。これがあなたのジョンディア500です。500頭の馬のキーがポケットにあるのです。多分これを買ったクレジットカードも一緒です。これが今日の個人に与えられた力なのです。もっとも、ジョンディア500を買ったために首が回らなくなっているかもしれませんが、それはまた別の話です。

産業主義の発展で重要なステップは、蒸気機関です。息子たちと一頭の馬では想像もできなかったことができるようになりました。一人で広大な土地をやりくり出来る様になったのです。けれどもこの技術革新はもっと早くから始まっていました。1700年代、鉄と木を組み合わせた様々な創意工夫が発明されました。1750年に一つの発明が3倍の穀物収穫を可能にしました。これが大地を揺るがすような出来事だと思う人は少ないのですが、その技術革新とは“Cradle Scythe(揺りかご大鎌)”の発明です。この大鎌には細長く湾曲した木製の熊手が付いていて、一振りで鎌が刈った穀物を同時に一束に集めるのです。これが3倍の収穫量を可能にしたのです。

その100年後、1850年には鉄道が走っていました。人々は100年でクレイドルサイズから鉄道まで来てしまったのです。蒸気機関という技術の力は、人々ができることを飛躍的に拡大しました。東海岸から西海岸への移動が容易になったことで、“新世界”での西部移住が始まり、1850年にはホームステッド法が施行されました。あなたはスエーデンかポーランドで行き詰まっていたとします。アメリカの鉄道王が大西洋を渡る蒸気船の切符をくれ、汽車に乗せて西部開拓地に送り出し、必要品もくれて、まだ誰も取っていない土地をその大平原で見つけなさいというわけです。そこで一日に回れる範囲に杭を打ちます。普通160エーカーぐらいです。その土地に2年以上留まって働けば、そこはあなたの土地になるのです。これがホームステッド(自給農場)法です。鉄道経営者たちが西部に開拓者を送り込みたかったのには理由があります。この頃東海岸の諸州ではたくさんの人々が食料を必要としていました。オハイオから西の開拓地に行って160エーカーの農場を始め、産み出した食料を鉄道で東へ送ってくれる人々がいれば、良いビジネスモデルです!人々は自分で西部へ行き、平原を切り開き、家を建て、何年か辛抱して頑張り、フェンスを張りまわして、牛か何か飼うなりし、自給しつつ、作物を産み出すようになります。これが、アメリカ独立戦争後100年経たずにあった西部開拓の歴史です。

ここに大変な意識の進化が起こっています。この法律で、膨大な数の人々が押し寄せていったところには、実は既に人びとが住んでいたのです。そしてこの人びとは大地に対して全く違った態度で接していました。この違った価値観の衝突がはじまると、新世界の開拓を巡って、奇妙な事態が起こります。先住民たちは彼らの土地から追い出され、奴隷、貧困、絶望のサイクルへと強いられます。けれども、実際は、家を追われ抑圧されていったのは先住民たちだけではなかったのです。技術の進歩がもたらした経済的格差の巨大な圧力は、先住民か移民かに関わらず、多くの人々を非人間的な状況に追い込みました。半世紀のうちに大多数の北米人は農業で食料を都市部へ供給していました。この頃、自殺者の大方は農場の主婦たちでした。“農夫は日暮れと共に休み、農婦の仕事は休みなし”です。

ホームステッド法施行の半世紀後、1900年代初頭、普通子どもは7才から他の子どもたちの群れに加わり野菜収穫などして働き始めます。そして10代の間は、20代半ばの男の監督下で働きます。30まではそのように働きますが、もし家族が充分大きくなっていたら、土地を借りて自分で農場をやり始めるかもしれません。何れにせよ、育てた作物は自分の家族のためではありません。農業の仕組みは、都市の労働者たちに食糧を供給する“Truck Farmer(市場作物栽培業者)”の組織に変わっていきました。家族農場として営む農業ではなく、都市の市場への作物を生産する仕事に変わってしまったのです。

独立戦争の後、トーマスジェファーソンは土地を所有し農園に情熱を注ぎました。奴隷も持っていましたが、彼には“Shirttail Farmer(余剰供給農家)”と彼が呼んだ夢がありました。“人に十分な土地を与えて、そこに落ち着かせたら、彼らは自分たちの生活を賄うことができ、余剰分を農業できない人や公共の世話役をする人々に供給できるだろう”と言うものです。開拓時代の初期、95%の人々は生産者で、あとの5%は教育や行政などのサービス業に携わる人々でした。今日、この割合は正反対です。人口の95%はサービス業で、5%が食料を生産しています。5%で食料生産ができるのは、500馬力のジョンディアがあるからです。大きな意識の変化です。

1905年は、95%が従事した合衆国の農業復興のピークでした。しかし、ほんの25年後、1930年には合衆国の農業は崩壊します。機械化が食料の価格構造を壊してしまったのです。機械化によって多すぎる食料が生産され、そのために価格が下がり、利益を生まない価格になってしまい、農業者はやって行けなくなったのです。食料流通には仲介業者や価格のつり上げなどが絡み、食料は商取引のための商品になってしまいました。農業の機械化は、より多くの食料生産を可能にすると同時に、人々を農業から追い出すような市場価値も生み出したのです。

このように二面性のある農業の機械化は“Grange Movement”のきっかけにもなりました。これは農業従事者を守る運動で、食料生産に携わる人々が結束することで、価格調整に加われるようにし、仲介業者によって市場が振り回されないようにするためでした。1930年までには、大多数の農業従事者は小作人になっていました。土を触ることもない少数の地主のために働く、農奴や、子どもたちや、犯罪人たちです。地主たちの興味は農産物価格と市場の動向にあって、神聖な存在としての地球や、天の恵みとしての食料とかではありません。

こうして先住民の強制移動や意気消沈で始まった筈のものが、結局は誰もがそうなってしまったのです。誰もが市場価値というものに押しつぶされていき、個人は抽象化してしまいました。そうでないのは、ことを進めている地主たちだけです。とうとう今では、農業は単に取引市場を操作して儲けを出すためのビジネスになっています。中西部の大豆農家たちは、ヘッジングによって大豆市場を操作します。生産者である彼らが、買い手としてもふるまい、損失を分散するテクニックで、変動する天候や収穫量の中でも、倒産を免れ、利益を出そうとするのです。

私たちは皆、この巨大な力に振り回されています。人類の進化とともにある、生命体としての地球の霊的な運命という考えとは結び付きません。トウモロコシのエタノール化の例をあげましょう。南米で、主食のトルティーヤを作るためのトウモロコシが手に入らなくなり、暴動が起きました。トウモロコシは燃料のエタノールにしたほうが利益が増すので、北米の農家は食用のトウモロコシを出荷しなくなったのです。

我々はどこへ向かうのか?

“私は大自然の子ども、周りの人々や宇宙の全てとひとつ”という感覚から徐々に離れていった意識の進化は、大地と、大地に働く人々を疎外していきました。非常にゆっくりとですが、個人が強くなるに連れて、人はその個人性を主張するようになります。根本的に、個を主張することと、全体の一部であることを感じる必要性は反しているのです。 

これは進化なのか、それとも逸脱なのかという疑問が湧くでしょう。多分どちらもイエスと言えるでしょう。この逸脱が進化の過程なのです。ルドルフ・シュタイナーにこの質問をすれば、1924年の農業コースの講義の後で彼がエレンフリード・ファイファーに話したように答えると思います。ファイファーは、「人智学運動に係わる人々は、高尚で宇宙論的に意義深い考えに精通しているのに、なぜお互いに上手くやっていくのが難しいのでしょうか?」と尋ねました。シュタイナーはそれは栄養の問題だと思うと答えたのです。そしてこう言いました。「将来、人々は山のように積まれた食べ物の前に座っている、けれども彼らが食べるものからは、実際に霊的な認識を得るための力を得ることができません。肉体を維持するためのある程度の栄養は得られても、人の意識を霊界に開くための力は得られません。」彼が予見した時代は、もう来ていると思います。

かつて、動物たちや肥沃な土壌と原始的なやり方を通して、自然が人を養っていた時は、食べものが人を大宇宙と結びつけていました。開拓者たちが来る前の大草原の草は、馬に乗った人が隠れてしまうほどだったといいます。しかもとても強くて、牛たちを組んで引かせた鋤でもほとんど土を起こせませんでした。それで人々は土を返す為の特別な鋤を発明し、それを使った人たちは“Sodbusters”と呼ばれました。何千年も自然の生態系が維持した大地の活力は、伝説的なほどです。そんな土壌からできた食べ物を食べたら、霊的生命体としての地球の意識や、すべての進化の裏にある高次の意識と、あなたを結びつける力を、魂の中に得ることができるのです。

ルドルフ・シュタイナーにとって農民に係わる彼の使命は、植物や大地が再び、惑星たちの働きを直感できるようにするための実践を農業に取り戻すことでした。“農業講義”を読めば多くのテーマは、植物をもっと知性的にして“Cosmic Nutrition”を受けとめられるようにということについてです。宇宙的な栄養というのは、地球外の領域からくる力のことで、“凝縮された光”とも呼ばれますが、それは意識なのです。農業と意識の進化は密接に関係しています。シュタイナーがこれを持ち込んだ中欧には、ヨーロッパのシャーマンや自然崇拝の伝統を通して、”私が大地にすることは霊的な意味がある”と言う考えが残っていました。これはまた錬金術と呼ばれるものでもあります。“農業講義”は実は錬金術の言葉で説かれています。それは、図象的、想像的、認知的な考え方で、大地に働きかける人が、実際に土に触れた時、その魂が理解するのです。

カリフォルニアのおかしな男の適当な作り話だと思うかもしれませんが、これは本を書く時にいい方法ですよ。私は理解できないことがあって行き詰まった時、自然界と自然についての内的な表象を、錬金術的瞑想の方法で、眠りの中へ持ち込みます。次の日畑に出るのですが、もう15年係わっているその土に触った瞬間、イメージが流れ出して、私はペンを取りにまた家に入らなくてはならなくなります。私は自分の畑の土が大好きです。初めは粘土だったのが、黒い壌土に変わっていくのを見てきました。畑に出て土を触るとき、土も私を愛してくれているという特別な感覚があります。そして突然何をする必要があるかもわかるのです。けれどもここで実際に行動に移す前に、私は一旦止まり、誰か他の人から私の得たビジョンの裏付けが得られるのを待ちます。このような錬金術的瞑想の方法で自然に関わると、その人の中に地球との深く霊的な魂のつながりが育っていきます。こういう経験をしたからと言って、アブナイ人になる訳ではありません。

問題はこうです。“このような経験をして、それを裏付ける何かを科学の世界で見つけることができるだろうか?” 私にとっては、それがバイオダイナミクスにおける研究の方向性です。シュタイナーの書斎に取材に来た記者の話を聞いたことがあります。その記者は、"シュタイナー博士、見霊能力とは何ですか?"と尋ねました。シュタイナーが振り返ると、部屋のテーブルには3フィート(約1.5メートル)の高さまで本が積み上げられており、どの本にも参照のための小さな紙がたくさんはさまれていた、というのです。シュタイナーはテーブルへ行き、一冊の本を開いて、あるページを指さして言った。“これが見霊能力です。” 見霊能力とは学ぶことです。

とは言え、瞑想的な錬金術の実践を伴う学びは、単に大学へ行ってするような勉強と違います。ルドルフ・シュタイナーが農業や自然とかかわる仕事にもたらした、ある想像力を活用する方法があります。その方法は私たちにも利用可能であり、それによって、再び地球の魂と直接つながることができます。これは空想への回帰ではありません。今日の人間の意識は、もはや地球の古代の子どもたちの意識ではないし、自分たちを地球の配偶者だと考えていた人々の意識でもありません。人々は技術革新による意識の変化を経験し、ある土地の管理人であるかもしれません。しかし今日、人類と地球の霊性は違ったものを必要としています。人間は、地球が反応できるような方法で、地球と協同作業をする必要があるのです。霊的な存在である地球は、仲間たちと交流しています。地球には兄弟姉妹がおり、家族の里帰りがあります。地球には課題があり、その運命にとって重要な出来事があります。エルモおじさんが家族の集まりに来て、おじいちゃんと政治的な議論を始める時のように、難しい局面があります。エルモおじさんがおじいちゃんと言い争い始めたらどうなるか、知っているでしょう?

地球にとって、おじさんとおじいちゃんの言い争いは、火星と土星のコンジャンクションです。農業の宇宙的次元とは、地球が絶えず相互作用しながら生きている環境のことです。私たちが惑星の運動に基づく農業の宇宙的次元を研究するとき、私たちは実は、錬金術の伝統に沿っています。宇宙がどのように作用しているかのリズムの一部を理解し始め、植物を見ると、植物は偉大な詩人ゲーテの言葉で語りかけてきます。私が宇宙のリズムを少し理解し始め、ある動物を見ると、その動物は私にその発生学、つまり原型からどのように進化してきたかを語り始めます。動物の個体発生が特定の植物の発生とどのように関連しているのか、また動物の特定の器官が成長する植物のどの部分のイメージであるのかがわかり、その2つの表象像を冬と夏のリズミカルなパターンと共に意識の中で結びつけることができれば、バイオダイナミック農法の調合剤として知られているものを想像し始めることができるのです。

ルドルフ・シュタイナーがもたらしたこれらの考えは、いい加減なものではなく、地球の魂が再び人々とコンタクトを取ろうとしているやり方に関係する、非常に精密でエレガントな、錬金術的な想像的思考です。地球の魂はあなたのお母さんのようなものです。お母さんは、なぜあなたがもっと頻繁に家に電話しないのか不思議に思っています。地球はあなたがそうするのを待っています。家に電話するというのは、単純に、霊的存在としての地球に敬意を表し、「暮らし向きはどうですか?」と尋ねることです。「調子はどう? 最近、何か興味深い関係を持ちましたか? その関係は、私が生きている場所や、私が育もうとしている土壌に何かを生み出しましたか? 親愛なる地球よ、もし私があなたを指でくすぐりに行ったら、私たちの相互の癒しのために、一緒に何ができるかを理解する手助けをしてくれますか?」地球は生命体です。愛するお母さんである地球が待っているのは、私たちが、意識の進化があったこと、そして次の進化には、人間が生命体である地球と意識的に協力する必要があることを理解することです。これを最も効果的に行うには、自然から内なるイメージを創造し、それを睡眠に持ち込むことによってです。そのような実践は、私たち自身の人生が地球の霊的進化にどのように絡み合っているかを直接的な方法で体験できる想像力へと私たちの心を開いてくれます。


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