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たったひとつの特別な感情
大人になると、
忘れてしまう感情ってたくさんある。
10代の頃の恋愛感情なんてものも、そのひとつ。
過剰な自意識と傷つきやすさを同時に抱えながら、誰かに惹かれる、ということ。
そういうヒリヒリした気持ちを再体験するために、読んだり書いたりするのかもしれない。
そんなことを思ったのは、
この小説を読んだから。
人生の退屈さに疲弊していた香弥という少年は、ある日、バス停で出会ったチカという存在に恋をする。
チカは異世界の女の子で、
目と爪しか見ることができない。
退屈な現実に現れたチカに、次第に香弥は夢中になる。でも、チカの世界に「レンアイ」という概念はない。
香弥が持つ恋愛感情とチカの認識のズレが、のちにどうしようもなくふたりを引き裂いていってしまう。
相手の言っていることをちゃんと理解できているかも分からない。
本当の名前すら知らない。
ただ互いの世界が交差するこの場所で、互いの存在を確かめ合うだけ。
俺よりチカに近い人間があちらの世界にいる。
俺よりチカに会っている人間があちらの世界にいる。
俺よりチカを理解している人間があちらの世界にいる。
そんなことは分かっている。
でも、チカと共有するこの瞬間、今、生きている今だけは、誰よりも俺が彼女と繋がっている。
そう信じている。決して思い過ごしじゃない。
命が混じるほど近くにいてほしいと、誰かに願うなんて初めてのことだった。
恋愛の切なさや甘美さは流れ星みたいに鮮烈で、でもいつか燃えつきてしまう。
恋愛小説というジャンルが永遠になくならないのは、そういう感情をみんな忘れてしまうからかもしれない。
どれだけ大切にしまっても、何度も何度も反芻しても、人はやがて大人になって、その気持ちをなくしてしまう。
数十年後、
チカへの想いが薄れて絶望する香弥に、
同級生の女子は言う。
「忘れても大丈夫」
チカへの想いの残滓が、心の中に残っていた燃えかすが、崩れて落ちていく。
その破片達が、俺の心の底に落ちる過程で消え去っていく。
でもほんの少し、流れ切らなかった俺の想いの一握りが、誰にも見せるはずのなかったものが、言葉としてこぼれてしまった。
「ごめん」
チカとの想い出だけを胸に生きていた香弥の痛みも、全部少しずつ薄れていく。
その過程は当たり前で、だからやっぱり少しさみしい。
過剰な自意識や卑屈さや、生き辛さを呑み込んで、みんなちゃんと大人になる。
感情の拠り所とかやり過ごし方や、現実との折り合い方がどんどん上手くなっていく。
そして、ささやかな幸福を感じながら生きていく。
それは一方でとても幸せなことのはずなのに、
忘れてしまった感情だけが、胸の奥で鈍く光る。
忘れてしまうけど、思いだしたい。
永遠に想い出に浸っていたい。
記憶のなかの感情は現実よりも綺麗に見えて、
いつかの光の残滓だけが、なにより美しく見えるから。
小説を書くのって、ほんとうに永遠の片想いみたいだ。
どれだけ書いても、本当に伝えたいことは書ききれない。
手を伸ばしても伸ばしても、届かない光に少し似ている。
それでも手を伸ばしたくて、諦めることができなくて、いつまでも悪あがきしながら書いていくのかも、と思った。
誰かや何かに焦がれるって、とても苦しいことだけど、
そういう存在に出会えただけで、とても幸せなことなのだ。
幸せ、というのは「仕合わせ」とも書く。
つまり巡り合わせのこと。
いつか忘れてしまっても、
その瞬間だけは誰かの心に残るような。
そんな物語を私も書けたらいいって、
とても思った。
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