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春の感傷、ひとりごと

春は、色んなことを思いだしそうになる。
過去のさまざまなこと。
10年とか、それくらい前の記憶。
あとは学生のときのこと。
自分の将来も未来も何も決まっていなかった頃。
そのゆらゆらした感じ。
春の空気感は、どうしようもなく不安定だったモラトリアム期を思いだす。
たぶん、毎年毎年そう。
どうしてなのか分からない。
春という季節感がそうさせるのかもしれない。
秋も感傷的になるけど、春はまた違う感じ。
そわそわして落ち着かない。
その落ち着かない感じは、きっと春特有のものだ。だから記憶に残り続けて、春になると思いだす。
具体的なシーンを思いだすわけじゃないのに。
(でも、具体的に思いだそうとすれば、具体的に思いだせるのだ)
夜桜を見たときのこと。月が明るかったこと。外でお酒を飲むのがあの頃は当たり前だった。
(学生でお金もなかったから)

あのときの当たり前がずっと遠くなっていて、その事実にふいに驚く。
あのとき目指していた大人に、なれたかどうかはわからない。
でも、とにかく私はここにいて、過去のすべてを懐かしいと思う。
春の感傷はふわふわしていて、落ち着かないのと同時に、少し透きとおっている。
未来なんてひとつも分からないのに、歩いていけばどこまでも行けるような気がしていた。
今だって、本当はどこにでも行けるだろう。
それができないのは、大切なものが増えたからだ。それが大人になることなら、大人になるのも素敵だと思う。

一方、大人になると忙しくて、感傷に浸る余裕もなかなかなかったりする。
仕事の日は早起きして、1日の業務をこなして、帰宅後はまた家のこと、そして子供たちのこと……あっという間に夜になって、そのまま眠ってしまう。
(朝が早いから全然夜更かしできなくなった)

学生の頃は、もっとずっと寄るべない気持ちだった。さみしさとか、切なさとかをもっと感じていた気がする。
当時のバイト先のひとが「さみしいなんて感情は贅沢だ」と言っていた。
そのときはあまりその意味が分からなかったけど、今は少しだけ分かる。
感傷に浸れるのは贅沢だという気持ち。
生活に追われていると、感傷的になるのって余裕がないとできないから。
雨の音を聞いたり、あてどなくひとりで歩いたりするとき湧きあがったさみしさを、まだどこかで覚えてる。

感傷的になりたくて、本を読んだり、小説を書いたりするのかもしれないと思う。
小説を書くとき、登場するのは10代の少年少女たちだ。取り戻せない追憶を蘇らせたくなるのかも。

春が蘇らせるのは、そんな記憶の断片だ。
だから懐かしくて、束の間感傷的になる。
当時は手に負えないと思っていた、たくさんの気持ち。

学生のときは、明確にならない思いをノートに書きつづっていた。
そんなことも思いだす。

明日はお休みだから、たくさんエネルギーチャージしたい。


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