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命を燃やしているような

ここ10年くらい、花火大会に行っていない。
パートナーと休みが合わないのもあるし、
(そもそも土日は仕事だったりするし)
会場が家から遠いうえに、駐車場がないという問題もある。
数年前までは実家から歩いて行ける川辺で開催されていたけど、予算の関係かコロナ禍以降はやらなくなってしまった。せめてそこでやっていればまだ行けたのだけど。

図書館のそばで毎年開催される大きな花火大会は全席有料になって、気軽に行けない場所になってしまった。

だから、花火大会に行ったとか、行くひとの話を聞くといつもうらやましい。

子供たちを連れて行けたらいいのにと、一瞬だけ思う。でも、こういう仕事や環境であるわけだし、行けなくてもしょうがないかと毎年思って終わる。

夏休みにできる夏らしいことと言えば、みんなでプールに行くこと。
(今年も行って、暑かったけど水のなかに入るのは気持ちよかった。山に近い場所にあるせいか、ときどき吹く風を涼しく感じたくらい。
ラッシュガードに帽子を被っていたおかげで、日焼けしなかった。でも、足の甲が焼けて痛かったから、来年はトレンカを履いていこうと決める)

そして、家の前で手持ち花火をすること。
手持ち花火をすると、夏を燃やしているような気持ちになる。
火薬のにおいや、色とりどりに爆ぜる光。
それらを交互に眺めながら、夏も終わるんだと思う。最後に線香花火をするから、余計にそう思うのかも。

夏は暑くて苦手だけど、(ここ最近の暑さは命に関わるレベルだし) 夏が連れてくる感傷は好き。
生と死のコントラストが高まる季節というか。
きっとお盆があるからそう思うんだろう。
盆踊りも、死者と混ざって踊る意味があるって、聞いたことがあるくらい。

今年は、その感慨がより強いような気がする。
なんでだろうと数秒考えて、おじいちゃんの初盆だからだと気づいた。
(おじいちゃんは、子供たちの祖父)

初盆は、ひとが亡くなって初めて迎えるお盆のこと。だから今年のお盆はみんなで(親族も集まって) お経をあげることにしてる。
結婚してから法事のたびに読経するせいか、自分の流派のお経をあげられるようになった。
子供たちがお寺の保育園に通っていたこともあって、京都の東本願寺でお坊さんと一緒にあげたこともある。

お寺さんが来るたびに、いろんなことを教えてくれた。主に子供たちに対して。
南無阿弥陀はインドの挨拶「ナマステ」から来ている、とか。

数年前に手持ち花火をしたとき、おじいちゃんもそこにいた。たった数年前なのに。

本格的に迎え火や送り火をすることはないけれど、家で花火をしたら、そのことも思いだすだろう。夏と一緒に命も燃やしているような気分になるに違いない。


いつでも、死を通して生はまぶしく照射される。

その光と影を感じるのが生きるということかもしれない。
だから夏はときに痛くてまぶしくて、永遠みたいな気がするのだ。

今年もみんなで花火ができたらいいって、あらためて思う。



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