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星のラブレター

私は古い灯台の上にいた。写真部の私は星空の写真が撮りたくて、新月の夜にはこうして家を抜け出し、この灯台に忍び込んでは撮影をしている。
暫く前に建てられた新しい灯台のおかげで、今やここは何の役目もなく放置されていた。しばしば幽霊が出ると噂され、おかげで気味悪がられて誰も近づかない。撮影をするには都合がよかった。

星空の撮影にはコンディションがとても重要になる。それは日に依って時間に依って、その姿形を変えた。今日の夜空はどうだろうか。月明かりのない新月の夜は貴重だ。灯室を囲むように備えられたテラスに出ると、まだ冷たい風が私の頬を撫でていく。私はゆるく解れていた髪をきつく結い直すと、早々に背中から三脚を降ろして準備を始めた。

私は最高の一枚を撮って星瞳賞を獲りたい。亡き父もこの賞を勝ち、天体写真家としての道を切り開いたからだ。そんな私は、父の残したフィルムカメラを使った。デジタルカメラも持ってはいたが、どうしても父と同じ機材でその一枚を撮りたい。
今日も慎重に光量を計り、適切な絞りと露光時間に悩み、腹を括ってレリーズを押し込んでいく。

ある新月の夜、私はいつものように灯室内で撮影の準備をしていた。今日は少し雲行きが怪しい。一枚だけ撮って帰ろう。テラスに三脚を持ち出そうとした時、古い机の上に何かが置かれているのに気づいた。なんだろう、私は目が眩むのを承知でヘッドライトを焚く。

———スケッチブックだ。

忘れ物だろうか。私以外にここを使う人もいるんだなあ。そんなことを思いながら、深緑と黄土色で組まれた幾何学模様の表紙を捲った。そこには一枚だけ絵が描かれている。
淡い水彩で描かれたその絵は、この灯台から描かれたのだろう、沈み往く太陽を捉えて茜色に輝く穏やかな海。丁寧に描き込まれた夕暮れの海岸。そしてそれらに溶け込むように立つ、白いワンピースの女性が書かれていた。

私は心が震えるのを感じた。なんて素敵な絵なんだろう。
絵画と写真は、いずれも光や色、構図、遠近感などの視覚的な要素を使って、被写体や風景を表現する。しかし、一番大切なのはそれぞれの作品が何を伝えたいのか。それがどれだけ人の心を揺さぶるのか。父が教えてくれたことだった。
この絵の視覚的センスも素晴らしかったが、なによりそこに描かれたワンピースの女性へ向けた優しい想いが私を包んで離さなかった。

余計なお世話かと思ったが、どうしてもこの感動を描いた人に伝えたい。書置きを残しておくことにした。適切なメモ用紙がなかったので、私は鞄の中から自分で撮ったお気に入りの写真を一枚取り出し、その裏にこう記す。

「私はここで新月の夜に星空の写真を撮っている者です。とても優しくて素敵な絵ですね。感動しました。」

ここまで書いて、ふと、この絵を描いた人に逢ってみたくもなった。野暮だろうか。でも気分が高揚していた私は、さらさらと一文を書き足した。

「この灯台から見える星空は最高です。よければ、今度一緒に見ませんか。」

翌朝。ベッドで目が覚めた私は、自分が寄せたメッセージを思い出してさっそく後悔していた。変に思われていないだろうか。どこかで飾られているものならいざ知らず、単なる忘れ物に知らない人の感想が挟まっていたら気味が悪いだろう。
おまけに、よくよく考えてみれば私は星空デートに誘っている。これはきつい。

すぐにでも回収に向かいたかった。しかし、昨晩家で待ち構えていた母からしこたま怒られたばかりだ。ほとぼりが冷めるまでしばらく出れそうにない。
絵の素晴らしさに興奮していたとはいえ、せめてもうちょっと気の利いた事を書けていれば。自分の文才の無さを恨めしく思った。

それから長く待ち遠しい日々を送り、次の新月がやってきた。
私は母が寝静まったのを十分に確認してから、逸る気持ちを抑えつつ灯台に向かう。急いて漕ぐ自転車のペダルは重かったが、ぐるぐると廻る想いが私の足を強く押していた。

灯台に着くと、私は勢いよく階段を駆け上がる。息は上がっていたが、なによりあの絵と写真が気になって仕方ない。
灯室のドアは少し開いていた。中に入ってみると、机の上には何もない。やはり忘れ物は回収されていったのだろうか。私の写真と共に。
メッセージが届いてしまったことに思うところはあったが、無事あの絵が描き手の元に帰っていったと考えれば、それでよかったのかもしれない。

その時、眼下の机上に影が横切った。

———!

星明りが創る淡い影は、私の背後から音もなく流れて、古い板張りの床を這う。
窓の外、テラスに何かが居る。それを感じた私の身体は硬直してしまった。ここに亡霊が出るという噂は本当なのか。
仄暗い廃墟の片隅に在って、揺らめく影に私は逃げ場がない。

ゆっくり振り返るとそこに———白いワンピースの女がゆらゆらと手を振っている。

私が腰を抜かしてひっくり返っていると、その女は「あら、あら」と声を掛けながら灯室に入ってくる。私は声にならない声であうあうと後退る。気が遠くなりそう。

「ごめんなさい、驚かせてしまったみたいね。」

亡霊は少し困った顔をしながら微笑んでみせた。

「あ、あの、貴方は———」
「絵を褒めてもらったお礼が言いたくて、ここに来たの。」

彼女は隣町の美大に通う学生を名乗った。とても華奢で綺麗な人だ。まさかこんなところに自分以外の人が出入りしているとは思わなかったという。それは私も同じだ。

「本当に素敵な絵でした。なんというか、描かれた女の子に向けた優しい気持ちが伝わってくるような。あの、尊敬してます!」

やはり気の利いたことを言えない自分に腹が立ったが、彼女は優しく微笑んで答えてくれた。

「ありがとう、とても嬉しいわ。でも、その絵は私の姉が描いたものなの。」
「お姉さんがお描きになられたものなのですね。そうすると、あの絵に描かれていた女の子って———」
「そう、姉さんはよく私をモチーフにして絵を描いてくれたわ。そのひとつが、これ。」

彼女はスケッチブックを捲ると、長い睫毛の目を細めてその絵に視線を落とした。

「去年、大病を患って亡くなってしまって。姉さんはこの灯台から見える景色が一番好きだったから、この絵をここに置いておいたのだけど。やっぱり惜しくなって取りに戻っちゃった。そうしたら」

貴方の写真が挟んであったの、と彼女はいたずらっぽく微笑む。その瞳の奥は少しだけ寂しい。
それから彼女はお姉さんの事をたくさん聞かせてくれた。
好きだったこと、苦手だったこと。よく姉妹で喧嘩したこと、すぐに仲直りすること。
あと、恋の話も。でも、これは彼女たちのプライベートな話になるから、ここでは書かない。

姉が妹を溺愛し、妹が姉を敬愛していた。絵に視線を向ければ、淡い色彩からそんな強い感情が溢れてくる。
懐かしんで語る彼女を見つめると、「あの」私は意を決して声を掛けた。ん?と私に視線を寄越す彼女にこう切り出す。

「ひとつお願いがあるのですが———」

★―・―・―

観衆の雑踏が広がる会場の最奥に、私の一枚はただ静かに並んでいた。
フィルムカメラで捉えたその夜空は、独特の粒子を以て淡く優しく印画紙を染めている。そこに広がる無数の星たちは、互いを追うように軌跡を描いてそれぞれの煌めきを放つ。穏やかな海もそれを映し、自らを夜空の一部と言わんばかりだ。
そして、海岸に立つのは女の子。白いワンピースに星空が落とす光を一杯に受けて、満天の夜空を仰いでいた。

———それは、空の向こうの人を想うようにして。

私は父の覗いたファインダーから、今日もヒトの想いを捉えていく。

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