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現実的な現実など存在しない。物語的な物語が存在しないように 〜村上春樹著「1Q84」のこと

はじめに〜完璧な文章というものは存在しない。

僕は村上春樹の文学というのは、ただ一つのことを表現しているのだと思っています。そのただ一つの何かは、彼の処女作である「風の歌を聴け」の、最初の一節の「意味」にあります。  

「完璧な文章というものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」  

この一節は、「文章」と「絶望」という、まったくかけ離れた二つのものが、ただそれらが「完璧になりえない」というその一点においてのみ、「同じ」だと言えるということを表しています。  

この文章はただそのことを表現しただけにすぎません。でも、もしもそれ以上の何か意味があるとしたらどうでしょうか? そのようなものは、果たしてあるのでしょうか?

仮にそのような「意味」があったとしましょう。そして僕はそれをあなたに説明します。もしその説明の「筋が通っていれば」、あなたは納得し、おそらくそのようだ、と思うでしょう。  

たとえば、ここに一つの物語があるとします。この物語は、何の脈絡もない、まったく無関係な登場人物たちが、それぞれ自分勝手に行動し、そしてそれはやはり何の意味も持たずに終了する、そんな物語です。  

もしもそんな物語を読まされたなら、あなたはただ困惑するだけでしょう。そしてその物語を否定するか、もしくは何かその無意味さや無関係さの中に意味を探そうとするでしょう。それが無意味でも無関係でもなかったはずだ、と思う。それが「物語」であるならば。  

では、現実はどうでしょうか? 

現実とは、筋が通っているものでしょうか。筋の通らないことなんて、山ほどあるのではないでしょうか。  

誰だって一度は目の前の現実に困惑したことがあるでしょう。そして、現実を否定したり、何かの意味を探そうとしたりしたことが。  

もしも目の前の現実を否定するなら、あるいは、もしその無関係な事実の集積という現実に、あなたが何かの意味を見出したのならば、あなたが納得したものは一体何でしょう?  

それは「物語」ではないでしょうか?

もしそのことを認めてしまえば、あなたは、「物語的」なものの方が、「現実的」なものよりも、納得できる、正しいと感じているということになります。  

ということは、「物語」は「現実的」であり、「現実」は「物語的」だ、と言わざるをえなくなるのです。

「現実」は本来、「物語的」に筋が通っていなければいけないし、「物語」は本来、「現実的」に筋の通らないものでなければいけない、そういうことになります。  

さて、僕はこれから村上春樹の小説「1Q84」について、僕自身の解釈を語ろうと思います。そしてその解釈は、当然のことながら普遍的であることを目指しています。これを読んでいるあなたも、僕の解釈が正しい、と思ってもらえるような、そんな解釈を目指しているのです。  

なぜなら、正しい解釈は「現実的」な解釈だから。

そうでしょう?

だとしたらその時、僕はさっきのパラドックスに陥ってしまったことになるでしょう。  

僕が語る解釈は、それが正確であればあるほど、「筋が通っていなければ」いけない。そのためには「物語的」にならざるをえない。「物語的」な事実を「現実」と認めなければいけない。でも、「現実」とは筋の通らないものである……  

このことについていつまでも述べていても仕方のない事ですね。だから今はとりあえず、村上春樹風にこの矛盾を表現して論を進めることとしましょう。つまり、こんな感じで。  

「現実的な現実など存在しない。物語的な物語が存在しないようにね」


「1Q84」ってどんな話?

「1Q84」は、一言で言えば予備校の講師をしながら小説を書いている天吾と、スポーツインストラクターでありながら暗殺者でもある青豆の二人が出会う物語です。  

天吾と青豆が初めて出会ったのは10歳の時です。天吾の父親はNHKの集金人をしていて、青豆の両親は証人会という宗教団体の信者だったのでした。そして二人とも親に連れられて、天吾は集金のため、青豆は勧誘のために近所を回っていたのです。  

天吾の父親も青豆の両親も、自分は正しいことをしている、と思っていました。社会的立場から、あるいは宗教的立場から。  

それは確かにそうだったのでしょう。だからこそ近所の誰も、彼らをとがめる人はいませんでした。煙たがる人はいましたが。  

しかし二人の子どもたちは、やがてそのことに追い詰められてゆきます。こんなことはもうしたくない、そう思うようになるのです。  

天吾は父親に付き添うのを拒否し、青豆もやがて宗教団体を脱退します。彼らが行った親の否定、それは同時に「社会」の否定でもあるのでした。  

二人は大人になり、天吾は予備校の講師に、青豆はスポーツインストラクターになります。しかし一方で、それぞれ職業とは別のもう一つの顔を作りだすことになります。それが天吾にとっては小説を書くことであり、青豆にとっては暗殺者になることでした。  

天吾が小説を書いていることと青豆が暗殺者であることは、「社会的」に見れば何の意味もないことです。にもかかわらず彼らが自分の職業とは別のもう一つの顔を持つ必要があったのはなぜでしょうか。  

天吾の父親や青豆の両親はある意味では幸せだったのかもしれません。彼らは、自分たちの「社会的」な価値が自分の価値、自分の意味であると信じていたのでしょうから。  

でも、彼らの子供であった天吾と青豆が彼らに見たもの、それは「虚無」だったのでした。  

もしも彼らが信じていた価値や意味を、天吾と青豆が共有していたのなら、彼らは親を否定しようとは思わなかったでしょう。  

なぜ天吾と青豆が両親が信じていた「社会的」な価値や意味を共有できなかったのか、それは、「社会」というものが決して完全なものではなく、嘘、欺瞞、偽善に満ちたものであるからです。  

社会の不完全性について、わざわざ説明する必要はありませんね。人はみな平等だ、とは言うものの、やっぱりこの世界にはマジョリティとマイノリティが存在するし、金持ちと貧乏人もいるし、男女の性差による偏見や差別もあるのです。  

そんな不完全な社会から与えられる価値や意味に、一体何の意味があるというのでしょう?  

しかもその不完全な社会は、常に僕たちに向かってこう言い続けるのです。  

「お前は大したことのない奴だ。お前は大勢の中の一人にすぎない。お前の代わりはいくらでもいるんだ」と。  

そんな「虚無」から逃れるためには、「社会的」な価値、意味に縛られない自分だけの価値、意味を持つ必要があったのです。  

それが天吾にとっては小説を書くことであり、青豆にとっては女性を虐待するドブネズミ野郎を暗殺することだったのでした。  

では、彼らはそうすることで幸せになったのでしょうか。「社会」を否定し、「私」の価値、意味を追及すること、そうすれば僕たちは幸せになれるのでしょうか。満足を得られるでしょうか。  

そうではないのですね。自分を否定して社会を肯定すれば、「虚無感」に襲われます。だからと言って社会を否定して自分を肯定することで訪れるもの、それは「孤独感」なのです。    

村上春樹はなぜこの物語を書いたのだろう

さて、次の話に移る前に、考えておくべきことがあります。それは、作者である村上春樹がこの小説を書こうとした動機に関することです。  

もちろん、そんなことは本人しか知りません。でも、僕たちはその動機を推測することができるし、どんな「物語」、あるいは「物語の解釈という物語」であれ、そこから始まるものです。  

僕はこの「1Q84」という小説は、一言で言い表すならば「物語についての物語」なのだと思うのです。最初に「現実」「物語」の話をしたのも、それが理由です。  

物語は起承転結という構造を持っています。日本の歌舞伎や能の世界ではそれを序破急と呼んできました。序は起承であり、破は転であり、急は結です。  

僕はこの序破急を、別の言葉に置き換えたいと思うのです。  

それは「原因」「行動」「結果」。  

たとえばある熊のぬいぐるみがあったとします(原因)。これをよく見てみると(行動)それは犬のぬいぐるみだった(結果)。(Bump Of Chicken「魔法の料理 君から君へ」より)

こう考えたら、実は僕たちの身の回りはこの「物語」らしきものであふれていることに気づくでしょう。「物語」らしきものは、ただ小説や映画の中だけではなく、現実のあらゆる場面に存在しているのです。  

ということは、逆に考えれば、どのようなことでさえ、それは「物語」になりうるということ。  

でも実はそれだけでは、この一連の流れは「物語」にはなりません。この一連の流れが「物語」になるためには、この流れに「意味」がなければならない。  

熊のぬいぐるみが実は犬だった、ということに何か「意味」があるとされた時、この一連の流れは「物語」になるのです。  

「意味」「私(主観)」によってつけられるか、もしくは「社会(客観)」によってつけられます。熊のぬいぐるみが実は犬だった、はただの現象にすぎませんが、そのことが「私」にとって意味があるか、あるいは「社会」にとって意味がある場合、熊のぬいぐるみが実は犬だった、ということは「物語」になります。  

「私」派はこう言うでしょう。  

「熊のぬいぐるみが実は犬だったなんて、すごい。びっくりだ。他人がなんと言おうとも、このことにびっくりしたという私の気持ちは誰にも否定させない、このことは私にとっては意味のあることだ」と。  

すると「社会」派はこう言うかもしれません。  

「でも、あなたがそう思ったとして、それが一体何になる? あなただけがそう思ったからといって、私たちには関係のないことだ。私たちにとってそんなことは無意味だ」と。  

この逆のパターンもありえるでしょう。「社会」派が、  

「実は熊のぬいぐるみは犬であるかもしれません。だとしたら私たちは熊のぬいぐるみを買いに行って、間違って犬のぬいぐるみを買ってしまう可能性があります。即刻調査すべきです」  

と言うと、「私」派は言うでしょう。  

「別にどっちでもいいじゃないか。どちらのぬいぐるみを買ったって、自分がそれを熊のぬいぐるみだと思ったのならそれでいいじゃないか。熊だろうが犬だろうが、大事なのは私がそのぬいぐるみを気に入っているかどうかだ」と。  

これにはきりがありませんね。どちらが正しいとも言えない。性格の違いとしか言いようがない。  

重要なことは、「私」派も「社会」派もそれぞれの立場から意味を与えて、「物語」を語っているということです。しかし、どちらの立場であったとしても、それが「物語」であったならば、それは「現実的」かもしれないけれど、「現実」ではない、ということです。  

そして僕たちが人間である以上、もっとも関心のある「物語」というのは、「私」自身の「物語」、私は一体誰なのか? ということでしょう。  

このことについては、遥か昔から多くの賢い人たちがかなり真剣に考えてきました。にもかかわらず、その答えはいまだ出ていません。なぜなら、人によって「誰」が「意味」を与えるべきなのか、という部分が一致しないから。  

「私」が意味を与えた「物語」の方が正しいのか、もしくは、「社会」が意味を与えた「物語」の方が正しいのか。  

本来自分自身と社会との関係は混沌としているもの、世の中うまくはいかないものだから、人は誰でもその時々でどちらかの立場に立って自分と社会との関係を調和させようとする、「物語」をつくりあげるのです。  

「私」派の人は自分の存在そのものに意味があると考えます。私がいるから社会がある、と思う。  

一方「社会」派の人は社会の存在に意味があると考えます。社会があるから私がいる、と思う。  

でも、残念ながらどちらの「物語」も、結局「物語」でしかありえないのです。なぜなら現実は「物語」じゃないから。繰り返すけれど、世の中はそううまくはいかないのです。  

するとどうなるでしょうか?  

「私」派の人は「孤独」を感じることになります。誰も私のことを分かってくれない、と思うようになる。  

一方「社会」派の人は「虚無」を感じることになります。私がいようといまいと社会には関係ない、と思うようになるのです。  

「私」派と「社会」派、どちらが正しいのかについて考えても不毛でしょう。「孤独」と「虚無」のどちらかを選べ、なんて言われても困りますから。  

でも同じ物語でも、そうじゃない「物語」があるのかもしれません。「私」と「社会」を調和させたとき、「孤独」にも「虚無」にもならない、そんな「物語」が。  

そんな「物語」を物語ること、それがこの「1Q84」という物語を村上春樹が描こうとした動機である、と僕は思うのです。      

「物語」とは

天吾は文学的な才能を持つ少女ふかえりと出会います。ふかえりの書いた「空気さなぎ」は、正しく新しい文学と呼べるものでした。  

しかしその作品はその新しさ、その個性ゆえに、誰もが共感できるものではありません。そこで、天吾は編集者の小松に頼まれてこの作品を「翻訳」することになるのです。  

その頃天吾は週に一度、夫のいるガールフレンド(安田恭子)との逢瀬を重ねていました。ところが、ある日、天吾のもとにその夫から電話がかかってきます。そして夫は言うのでした。「安田恭子 は失われた」と。  

人は、人に対して「失われた」とは言いません。それは「もの」に対して使う言葉です。  

彼女が死んでしまったか、もしくはどこかに失踪してしまったか、真相はどちらでもいいのです。そんなことに「意味」はありません。死であるか失踪であるかは、人にとっての問題なのだから。  

つまり、夫にとっての彼女はただの「もの」でしかなかった、彼女の「自我」が夫にとっては「無意味」であったのでした。  

そのことは、彼女自身も実感していました。古いジャズのレコードを聴くとき、ジャズの歴史の中でほとんどその価値を認められないクラリネットという楽器の、無名のアーティストのソロを聴きながら共感していたものは、歴史という時間の中での「無意味」な「私」だったでしょう。同じジャズのクラリネット奏者ベニー・グッドマンではだめなのです。彼は「意味」、「名前」をもっているから。  

しかし彼女を「もの」として扱っていたのは、天吾もまた同じだったのです。彼は彼女の名前すら知らなかったし、夫が「失われた」と表現したことに対しても、それをそのまま受け入れることができた。つまり、天吾にとっても、安田恭子は「もの」でしかなかったのでした。  

彼女の「自我」がもしも誰かに「奪われた」のだとしたら、それを「奪った」天吾もまた、やはり誰かからその「自我」を「奪われ」、「もの」として扱われています。小松や牛河や安田恭子の夫は、天吾の事情など何も考えずに電話をかけてきて、こちらの意図など何も考えずに電話を切ってしまうのです。  

「私」はかけがえのない特別な存在だ、僕らは誰もがそう感じています。でも、この世界にいるのは自分一人ではありません。  

「私」を大切にする、ということは、「私」が世界という「物語」の作者となろうとすることです。  

でも「私」という「物語」の登場人物に過ぎないはずの他人もまた、それぞれ「私」という「物語」の作者であって、自分自身もまた誰かの「物語」の登場人物に過ぎないのです。  

一方、青豆は、ある人物の暗殺を依頼されます。その人物とは、青豆がかつて所属していた宗教団体証人会から分離して生まれた「さきがけ」のリーダーでした。  

宗教とは、「現実」に対して提示する一つの「物語」です。この世界はどのようにして生まれたのか、この世界はどのようにあるべきなのか。  

僕たちが生まれる前からすでに「物語」があるのだとすれば、僕たち自身に定められた「運命」や「宿命」があるとするなら、僕たちには「自我」というものは存在せず、神という作者が描いた、ただの登場人物にすぎません。  

もしもこの世界に神が存在するのなら、僕たちはそもそも誰も「物語」の作者にはなりえません。  

でも、青豆は自分は「物語」の登場人物ではない、と主張します。そして、この「物語的」な世界である「1Q84」の世界から抜け出そうとするのです。  

そのためには「作者」らしき存在を殺していくしかないのでしょうか。  

例えば親を。  

例えば権力者を。  

例えば神を。  

あるいは、自分自身を。  

フェイ・ダナウェイのように、「物語的」に。      

僕たちは「物語」でないものを理解できない

「私」を否定しようと肯定しようと、「社会」を否定しようと肯定しようと、実はそんな事には何の意味もありません。  

僕たちは誰でもない特別な自分であると同時に、社会という大勢の中の一部でしかないのです。  

だから本質的に、「私」も「社会」も否定することも肯定することもできないものです。あえて言うならば、どちらも肯定するしかない。「現実」にどちらも存在してしまっているのですから。  

だけど、そのことを僕たちは理解することができません。なぜなら、多義的に相反する性質を持つ一つのもの、というのは、「物語」にはなりえないからです。「原因」であると同時に「結果」である、というようなことはありえないのです。  

だけど「現実」は相反する二つ以上の性質を持ちながら、筋の通らないものとして存在しています。  

フィクションに限らず、あらゆる面で僕たちは物語的なものを必要としています。そういうものがないと「私」であれ「社会」であれ、「知る」ということができないから。

だから僕たちはその「現実」を「知る」ために、「物語」的に「現実」について考えることになるのです。  

それは相反する二つ以上の性質をもつという現実の多義性の一面だけにスポットライトを当てるということ。何かを「原因」である、と特定しなければ、「物語」は始まらないのですから。  

だけどそのようにして語られた「物語」は、決して「現実」ではありません。そして、異なる二つの「物語」があれば、その二つの「物語」は決して一つにはならないのです。  

「知る」ということは「物語」を語ることであり、そして「物語」は決して多義的で筋の通らない「現実」をそのまま表現することはできません。  

ということは、僕たちは「現実」について、本質的に「知る」ということはできないということ。「説明しなければ分からないことは、説明しても分からない」ということです。  

「私的」であれ「社会的」であれ、そこに「物語」が生まれるということはその「原因」があるということです。「私」と「社会」との関係性において「物語」が必要であるということは、「私」か「社会」のどちらかが正しくてどちらかが間違っているという「結果」を必要としているということです。  

天吾が「物語」の中に入って行き、青豆が「物語」から出て行こうとするように。  

でもその入って行くこと、出て行くことという「行動」自体がさらに大きな「物語」でしかありません。  

「私」か「社会」か、どちらかを否定しようとするものでしかない。  

だからこそ、天吾と青豆は出会う必要があるのでした。そうして「出会った」という「原因」から始まる「物語」があるはずだから。  

「出会った」ということ、「手をつないだ」ということ、それ自体が「原因」であることから始まる「物語」であれば、それは何かを否定するわけでもなく、「孤独」や「虚無」へと向かうわけでもない、そういうものになるのではないか。      

ところで、「物語」の限界について物語っているこの文章は一体なんでしょうか。きっとこの文章もまた、多義的な「現実」の一面しか照らしてはいないというのに。  

ああ、でももう少し我慢しておつきあいください。  

「物語」はどこかで必ず終るものですから。    


最後に

最初の話に戻りましょう。つまり、なぜ村上春樹がこの物語を書いたのだろう、という動機について。  

最初に示した、処女作「風の歌を聴け」の、冒頭の一節をもう一度見てみましょう。  

「完璧な文章など存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」  

この一節は何を「意味」するのでしょうか。


「文章」を、「絶望」を、どれだけ必死に考えたところで、「文章」は「絶望」と同じではない。そもそも完璧かどうかの話じゃない。その通りです。  

でもこの一節の「意味」はそういうことではありません。それは、「文章」と「絶望」という、まったくかけ離れた二つのものが、ただそれらが「完璧になりえない」というその一点においてのみ、「同じ」だと言えるということです。  

それに何の意味がある? と言われれば、別に意味はありません。ただ、そういう人の言う「意味」自体が、そもそも存在しないのです。  

この世界のあらゆるものごと、現象は、すべて「無意味」であると同時に「多義的」です。例えば「村上春樹」という人が「自我」をどれだけ追求していったとしても、そこには「意味」はないのです。  

だけど同時に、僕らは「村上春樹」という人を、「世界的に売れてる作家」とか「ランニングした後にパスタを作って食べてる人」とか「やれやれ」と表現することもできます。世界のあらゆる現象は本来「無意味」なものだけれど、多義的にいろんな言い方ができるのです。  

その本来「無意味」な何かと何かが、現実ではなぜか奇跡的に、まったく関係のないところで急につながったりするのです。「文章」と「絶望」が「完璧になりえない」という一点においてのみつながるように。  

だからそういうものを見つけたら(村上春樹という人は天才的にそれを見つけることができる)、もう彼はそれをつなげて小説を作らずにはいられないのです。本書に登場した、どんな木の中にでも鼠を発見してそれを彫って行く人と同じです。  

きっと、そこに「意味」などはありません。ただ好きだからやってるだけ、それだけです。  

それが村上春樹という人にとっての小説を書く「意味」、「結果」なのでしょう。それは「説明しなければ分からないことは、説明しても分からない」類のことです。  

多義的な村上春樹は、世界的に売れている作家であり、ランニングした後にパスタをつくって食べる人でもあり、ジャズやクラシックを聴きながら「やれやれ」と呟く人でもある、ということ。でも、世界的に売れている作家であることと、ランニングした後にパスタをつくって食べることと、ジャズやクラシックを聴きながら「やれやれ」と呟くこととは、「無意味」な村上春樹という人を表現するときに限って、なぜか奇跡的につながり合っているのです。  

僕たち一人一人は、結局は「無意味」な存在だけれど、でも、同時に多義的でもあって、だからこそ誰かとつながり合うこともできるし、誰かの気持ちになったりすることもできる。  

村上春樹の気持ちになってみることもできるし、その村上春樹が書いた小説の登場人物にも、その小説の登場人物が書いた小説の登場人物にさえ、感情移入できる。  

それは、10歳の天吾と10歳の青豆が、教室で一瞬手をつないだことと同じことなのです。  

だから天吾と青豆は、出会わなければならない。そしてもう一度、あの時のように手をつながなければならない。  

そうすることによって二人は、「孤独」からも、「虚無」からも、「物語」からも、「現実」からも抜け出せることができるのですから。  


現実の世界には、自分のことも、社会そのものも否定してしまうような、そんな物語であふれています。  

最初に僕が何度も繰り返したような、「現実は思い通りにはいかない」というような。  

そういう「物語」の方が、いかにも「現実的」であるかのような気がするのです。  

ところが、これも何度も繰り返しましたが、「現実」というのは常に「物語的」であり、「物語」というのは常に「現実的」なものです。  

ということは、「物語」は「現実」の世界があるからこそ作りえるものであるし、同時にまた「現実」というものは「物語」があるからこそ作りえるものだと言い換えることができるでしょう。  

「1Q84」では、天吾と青豆は自分と社会を肯定するために、「物語」から脱出します。  

なぜなら、この「物語」の意味というものは、「物語」の外にあるからです。  

では、「物語」の中に意味はなく「物語」の外に意味があるのだとすれば、例えば僕たちが本を読むことは、「物語」を読むということは、あるいは自分や社会を「知ろう」とすることは、どういうことなのでしょう。  

それは、「物語」にとっての意味が外の世界=「現実」の世界にあるとするならば、「現実」の世界にとっての意味は常に現実から見た外の世界=「物語」にあるということです。  

「物語」であれ、「現実」であれ、大切なことはその中に含まれている何かではありません。目の前の現実を、あるいは心の中をどれだけ深く掘り下げても、そこには何もないのです。  

「意味」は常に外の世界から、「物語」にとっては「現実」が、「現実」にとっては「物語」がそれを与えるものなのだから。  

「物語」には「原因」「行動」「結果」があると言いましたが、「意味」というのは「結果」です。  

「物語」にとっては「現実的」な「原因」と「行動」によって外部からもたらされるものであり、逆に「現実」にとっては「物語的」な「原因」と「行動」の先に外部からもたらされるものなのです。  

ということは、「私」、主観的な世界の意味、というものもまた、「私」の中にはありません。「私」の意味は「私」が「行動」を繰り返すことによって客観的な世界である「社会」から与えられるしかない。  

そして「社会」、客観的な世界というものの意味もまた「社会」の中にあるのではありません。それもまた主観的な世界である「私」が意味を与えないといけないのです。  

恋人同士や夫婦が、お互いにその意味や価値を認め合うように。  

「私」と「社会」のどちらかが正しくてどちらかが間違っているわけではなく、「物語」と「現実」のどちらかが間違っていてどちらかが正しいわけでもなく、どちらも本質的に正しいということ。正しさを与えなければならないということ。

なぜなら僕たちは特別な存在としての「私」でありながら「社会」の中のありふれた一人であり、「現実」の世界に生きていながら、同時に「物語」の中に生きているのですから。  

「文章」と「絶望」が手をつなぎ合う瞬間があるように、「私」と「社会」もどこかで手をつなぎ合うことがあります。そしてまた、「物語」と「現実」も手をつなぎ合うような、そんな瞬間がある。    

物事のすべては多義的だから、それはいつだってほんの一瞬にすぎないかもしれません。  

でも、たとえ一瞬でも、「私」と「社会」は、「物語」と「現実」は、「男の子」と「女の子」は手をつなぎ合える

この三つの関係性は、「1Q84」という「物語」の中では「同じ」だと言えるのです。  

「文章」と「絶望」が「完璧になりえない」という点においてのみ「同じ」であるように。

この「1Q84」という「物語」もまた、村上春樹が読者に差しのべた手なのでしょう。  

ならば、僕と村上春樹もまた、この作品を通して手をつなぐことができる。  

だから僕はその手を強く握りたい。  

でも、残念ながら僕は男(しかもおじさん)ですから、僕に手を握られたところで村上春樹は嬉しくもなんともないでしょうね。彼はきっと、渋い顔してこう言うのでしょう。  

……やれやれ。 





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