峰庭梟

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読むことと書くことと歩くこと。ここでは主に日記と読書感想文を書きます。昭和の詩、俳句、短歌を読んで分類する「詩歌ビオトープ」というのを始めました。Amazon著者ページはhttps://www.amazon.co.jp/-/e/B082S2WQRC

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プロフィールに代えて。

春になると毎年読み返している本があります。それは、梨木香歩さんの「春になったら苺を摘みに」という本です。 この本は著者である梨木さんがまだ作家としてデビューする前、イギリスに留学していた頃の思い出を語ったエッセイ集です。 本書の中には「子ども部屋」と題された章があります。それは、こんなお話。 ある日、梨木さんはコッツウォルズからソールズベリへ行き、湖水地方やスコットランドをぐるりと回る旅の計画を立てます。 すると、その計画を聞いたホームステイ先のウェスト夫人が彼女

    • 掌編小説 自転車に乗る技術

       自転車に乗りたい、そう思った。まだ、三歳か四歳くらいの頃の話だ。そのとき僕が乗っていたのは、小さな三輪車だった。もう大きくなっていた兄は颯爽と自転車を乗りこなし、よく僕を置き去りにした。その背中を僕は泣きながら見ていた。それでいて、僕はあの姿に憧れたのだった。  少し大きくなった僕は、父に自転車が欲しい、とおねだりした。そうして買い与えられた自転車には、三輪車と同じように、後輪に不細工な補助輪がついていた。  補助輪は、ペダルを漕ぐたびにガタガタ鳴った。いつも地面と密着

      • 北村透谷の話その2 吾人は生命を信ずる者なり。

        前回 に続いて今回も話題のメインとなるのは透谷とザ・俗物こと山路愛山の論争、いわゆる「人生相渉論争」の話です。 「純文学」という言葉を聞いたことがない、という人はいないでしょう。良い印象を持っている人もいれば、悪い印象を持っている人もいるかもしれません。 実はこの「純文学」なる名称、透谷が生み出したものなのだそうです。 具体的には、前回紹介した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」が「純文学」なる言葉の初出だと言われています。この部分ですね。 この「彼」とは、もちろん山路愛山

        • 北村透谷の話その1 歌へ、汝が泰平の歌を。

          今日から2回にわたって北村透谷の話をしたいと思います。 北村透谷は、日本におけるロマン主義運動の先駆けのような人です。島崎藤村の小説「春」に登場する青木駿一のモデルとしても有名ですね。詩人として、批評家として多くの人に影響を与えたのですが、若くして自殺してしまったのでした。 今日話したいのは、彼が書いた「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という評論についてです。 このタイトル、要するに「人生に役立つかどうかということの何が重要なんですか?」ってことです。 この評論は明治26年

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        記事

          これって私の感想ですよね。

          今、中公バックス世界の名著のベルクソンを読んでいます。 まだ読み始めたばかりなのですけど、読み始めたらすぐめちゃくちゃ面白かったのでその話をします。 この本に収められているのは「形而上学入門」「哲学的直観」「意識と生命」「心と身体」「脳と思考」「道徳と宗教の二つの源泉」の5タイトルです。 最初の「形而上学入門」の冒頭で、ベルクソンは言うのです。僕らは何か形而上学的な対象について考えるとき、二つの方法をとる、と。 一つは、分析する方法です。科学的手法と呼べるのかもしれま

          これって私の感想ですよね。

          すべてが可視化されたとき

          僕らの目玉は脳になった すべてが可視化されたとき 僕らの目玉は指にもなった すべてが可視化されたとき すべては明瞭になった すべては公正になった それは素晴らしいことじゃないか かつて目玉だった口が言った だけど、目玉は脳じゃない 目玉は指折り数えはしない 目玉が喋ったりするはずもない 君の目玉をよく見てごらん 見えないところにあるものを 1でも10でも5でもあるものを あのとき僕らは失ったんだ すべてが可視化されたとき

          すべてが可視化されたとき

          君にはそれしかできない

          出来事はいつも否応なく起きる。 いいことも悪いことも、 ネガティブな感情も、 認めたくないことも、 起きるべくして起きる。 君の知らないどこかで。 君の身の回りで。 君の心の中で。 たとえば君が、 君の知らない間につくられ、 この世に訪れたように。 君がいつか まだ準備もできてないのに 旅立たなきゃいけないように。 この世界に何かが起きて、 君はそれに対処して、 また何か起きて、 また何か対処して、 また何か起きて、 それに対処して、 また何かが起こる。 きっと君は、

          君にはそれしかできない

          奴隷のたとえ話

          すごく好きな奴隷のたとえ話があります。この話は、僕が自分で考えたのではありません。かつて、どこかから仕入れてきたはずの話です。しかし、僕は、いつ、誰が、どこで言っていた話なのかはまったく覚えていないのです。 それは、こんな話。 人は奴隷の身分に落とされると、領主に対して反発します。当然です。誰も、自分が奴隷に相応しい人間だと考える人なんていないのですから。だから、第一世代の奴隷というのは、とにかく反抗します。仕事だってきちんとやろうとしないし、それに、隙あれば何度も何度も

          奴隷のたとえ話

          動物化したポストモダンの行方

          先日、東浩紀氏の「動物化するポストモダン」と「ゲーム的リアリズムの誕生」を読みました。 「動物化するポストモダン」は2001年発行ですから今から23年前、「ゲーム的リアリズムの誕生」は2007年発行ですから今から17年前の本です。 だとすれば、「動物化するポストモダン」の発行年に生まれた人はもう社会人になっているし、「ゲーム的リアリズムの誕生」の発行年に生まれた人はもう高校生になっています。 これらの本で書かれていた社会のポストモダン化という現象は、確かにその通りだった

          動物化したポストモダンの行方

          善悪について考えることは可能か

          今日は善悪というものについて考えてみます。 僕は、実は倫理学みたいなものがあまり好きではないというか、あまり魅力を感じないのです。 というのは、多くの場合、倫理学を自分ごととして考えると、それは自明のことをわざわざ難しくしているように感じるからです。というか、あれってなんか根本的におかしくないか? と思っている。 たとえば、有名なものにトロッコ問題とかありますけど、あれって僕が思うには、どっちにしろ悪なんですよね。だって、どっちも人を殺すから。 トロッコ問題って結局ど

          善悪について考えることは可能か

          短篇小説 赤い大地

          今よりもずっとずっと昔、恐竜と呼ばれる生き物たちが大地を闊歩していた頃の話です。 地面にはシダやマツ、イチョウなどの草木が生い茂り、それを食べる草食恐竜と、その草食恐竜を食べる肉食恐竜がいました。 全体はちゃんとバランスが取れており、どこかが欠けてしまう、というようなことは、ずいぶんと長い間なかったのです。 ところが、ある日、空に大きな黒いものが現れました。その黒いものには、たくさんの不気味な尻尾がありました。それに、たった一つの、巨大な目をしていたのです。 大地の生

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          短篇小説 赤い大地

          考えることの醜さについて

          考えるとは何だろう。今度はそんなことを考え出してしまいました。そうして、ふと気づいてしまったことがあります。 それは、「考えることは醜い」ということです。 そんなことを言うと、世の中には脊髄反射的に「けしからん!」と怒り出す人もいるのかもしれない。 多分、考えるという行為を「醜い」なんてネガティブな言葉で表すのは、多くの人にとって違和感があるでしょうから。 まあでも、ちょっと「考え」てみてください。 そもそも考えている仕草は美しいでしょうか。 いえ、美しくはありま

          考えることの醜さについて

          「価値がわかる」ことと「理解できる」こと

          今日は「価値がわかること」と「理解できること」との違いについて書きます。 僕は過去二回の話 で価値というものは僕ら自身の見識が広がることでよりたくさんわかるようになる、と述べました。でも、このことは「勉強すれば色んなことが理解できるようになる」ということと同じではありません。 なぜなら、実際には ①価値もわかるし理解もできるものごと のほかに、 ②価値はわかるけど理解できないものごと ③価値はわからないけど理解できるものごと ④価値もわからないし理解もできないもの

          「価値がわかる」ことと「理解できる」こと

          どうして僕らは独断と偏見ができるのか

          前回 僕は価値とか本質というものは僕ら人間には多分認識できないものであり、僕ら自身がそれを発見していくものなのではないか、という話をしました。 でもそれは、もしかしたら最初の設問からずれてしまったのかもしれません。つまり、前回の例えであれば「そもそもキュウリが何かを知らないのに、それを発見すれなんて無理じゃん」ということになる。なので、もう一回改めて考えてみようと思います。(別に結論は同じなんですけどね) 価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとは一体

          どうして僕らは独断と偏見ができるのか

          僕らは誰もが当たり前にものの良し悪しを判断できるって本当?

          今日はちょっと最近考えていることについて書きます。別に、具体的な何かについてではないのですが。 そもそも、価値とは何か。あるものに価値があり、あるものに価値がないとはどういうことか。また、僕たちは一体どのようにして価値があるとか、あるいは価値がないとかを判断するのか。そのようなことは果たして可能なのか。可能であるとしたら、なぜそうなのか。 僕は昔から思っているのですけど、多分、この世界の多くの人は、なぜか「自分にはものの良し悪しがわかる」ということについてまったく疑ってい

          僕らは誰もが当たり前にものの良し悪しを判断できるって本当?

          吾輩は読者である。名前はまだない。

          一夜文庫さん、という一箱古本市や間借り古本屋さんに出店されている読書家の方がおられまして、その方が「読みたい夜に」というZINEを出しておられるんですけど、僕もお誘い頂いて、そのZINEの末席に寄稿させていただいています。「瞬光(またゝき)集」という、140字小説と短歌を合わせた10篇のお話です。 で、毎回ね、そこにプロフィールというのを載せて頂いているわけですが、今は って載せて頂いてます。 まあでも、140字小説も短歌ももうだいぶ呟いていないし、このnoteだってこ

          吾輩は読者である。名前はまだない。