見出し画像

掌編小説 自転車に乗る技術

 自転車に乗りたい、そう思った。まだ、三歳か四歳くらいの頃の話だ。そのとき僕が乗っていたのは、小さな三輪車だった。もう大きくなっていた兄は颯爽と自転車を乗りこなし、よく僕を置き去りにした。その背中を僕は泣きながら見ていた。それでいて、僕はあの姿に憧れたのだった。

 少し大きくなった僕は、父に自転車が欲しい、とおねだりした。そうして買い与えられた自転車には、三輪車と同じように、後輪に不細工な補助輪がついていた。

 補助輪は、ペダルを漕ぐたびにガタガタ鳴った。いつも地面と密着しているから、タイヤよりも汚れているように見えた。こんなものが付いたままでは、とても風になんてなれそうもなかった。

 しばらくして、もう補助輪を外したい、と僕が言うと、父は「じゃあ、自転車に乗る練習をしよう」と言った。「練習すれば、乗れるようになる」


 日曜日。僕の自転車から、補助輪が外された。補助輪の外れた自転車は、見るからに不安定で危なっかしかった。

「倒れないように、しっかりサドルを握っているんだぞ」と父は言った。僕は、真剣な顔で頷いた。

 シートに座る。片足だけ地面につけると、視界が少し斜めになった。僕と自転車の両方が傾いているからだ。

 まずはこの状態を水平にする必要がある。それから、ペダルを漕いで前に進まなければならないのだ。そんな難しいこと、果たしてできるのだろうか。

「後ろ持っててやるから、前に進んでみろ」と、父が言った。

 意を決して、地面に着けていた足を浮き上がらせた。体全体が揺れる。父が、後ろで力を込めて支えてくれているのがわかった。

 後ろを振り返って言った。
「ちゃんと持っててね」
 父は、少し苦しそうに
「持ってるから、ほら」
 と、僕を促す。


 ペダルを漕いだ。ゆっくり前に進む。
 少しだけ進んで、止まった。地面に足をつける。

「どんな感じだ?」
 後ろから父が問いかける。
「なんか、ふらふらする」
「ちゃんと進み出したらふらふらしなくなる」
そう父は答えた。


 そのように僕と父は、自転車に乗る練習をした。僕は何度も何度も
「ちゃんと持ってる?」
 と問いかけた。父は、その度に
「持ってるよ。持ってるから、前を向いて」
 と答えた。


「持ってる?」
「持ってるよ」
「持ってる?」
「持ってるよ」
「持ってる?」


 ふと、後ろにいるはずの父の声が聞こえなくなった。僕は前を見たまま、もう一度尋ねる。
「ねえ、持ってる?」
 答えがない。
 少しして、ずっと遠くの方から
「もう乗れてるぞ。ちゃんと前を見ろよ」
 と声がした。


 え? どうして?
 思わず僕は後ろを振り向き、父がずっと遠くにいることを知った。後ろを持ってくれていると思ったのに。
 そうして僕は、バランスを崩して転倒した。


 父が笑顔で駆け寄ってくる。
「すごいじゃないか。ちゃんと独りで乗れてたぞ」
「もう。後ろ持っててって言ったのに」
「だから、乗れてたって。後ろを持ってなくても」
 ほら、もう一回、と父が言った。


 自転車を起き上がらせ、もう一度シートに座る。
「今度はちゃんと持っててよ」
「ああ、持ってるよ」
「本当に?」
「本当」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ。ほら、早く前見て」


 再びペダルを漕ぎ始めた。
 僕は、もう、後ろを振り返らなかったし、「持ってる?」とも尋ねなかった。
 後ろを振り返らなくても、尋ねなくても、本当は父が持ってくれていないことはわかっていたから。
 父は、あのとき、明らかに嘘をつくときの顔をしていた。だから、自分で解決するしかない。大人はいつも子どもはだまされやすいと思っているけど、子どもは大抵、大人が嘘をついているときはちゃんとわかるのだ。


 前だけを見てペダルを漕ぐ。怖いけど、大丈夫。だって、さっきもできたんだし。


 風が、顔にあたって通りすぎていく。もう補助輪のガタガタいう音はしない。ただ、ヒューと風の音がする。何にも邪魔をされない感じ。
 ああ、そうなんだ。自転車に乗るって、こんな感じなんだ。僕は、そんなことを考えながら、足を動かし続けた。



 あの練習から、四十年以上経った。
 それから高校を卒業するまで、僕は毎日のように自転車に乗っていた。その間、ただの一度だって、自転車に乗れなくなったことはなかった。

 大学に入ってからは自転車に乗らなくなったけれど、時々レンタサイクルで自転車を借りて乗ることがあった。今も、自転車は所有していない。でも、もしも今目の前に自転車があったら、僕はそれに乗ることができるだろう。乗れないはずがない。確信できる。

 でも、それは一体なぜ?

 たとえば、それが自動車だとしたら。僕は二十年以上ペーパードライバーだけど、今目の前に自動車があっても、それを上手く乗りこなせるとは思えない。そんな恐ろしいこと、とてもできない。

 あの練習の日、父が僕に嘘をついてこっそり手を離したあのとき、一体何が起こったのだろうか。あの練習で、僕はどのような技術を身につけたというのだろう。

 わからない。わからないけれど、あのとき学んだことが三つある。

 ひとつは、自転車で転んだところで、別に対して痛くはないってことだ。幼かった僕は、転ぶことによる痛みをまだ知らなかったから、怖かったんだ。でも、実際に転んでみたら、大したことなかった。それに、バランスを崩したって、転ぶほどのことには滅多にならない。

 それから、大人は笑顔で嘘をつくってこと。実は大人になった今、あの頃の父と同じように、僕も笑って子どもたちに嘘をついている。ごめんね。でもそれは、時として必要なことだったりするんだ。

 そして三つめは、小さな魔法のようなことが、本当はよくわからないことが、世の中には割とありふれているってことだ。

 僕らはなぜ、ある日突然自転車に乗れるようになり、そして、一度乗れるようになったらもう乗れなくなるようなことはないのだろう。それは技術というよりも、むしろ魔法みたいだと僕は思う。

 僕はあの練習で、自転車に乗る技術を身につけたのではない。自転車に乗れる魔法にかかったのだ。そんな気がする。
 そんな魔法が、多分、世の中にはたくさんある。これは、嘘なんかじゃない、本当のことだ。

よろしければサポートお願いします!頂いたサポートは今後の創作活動のために使わせていただきます!