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お笑い芸人とシンギュラリティ 〜又吉直樹著「火花」のこと


あらすじ

漫才コンビ「スパークス」として芸人をしている主人公徳永は、あるイベントで違う事務所の先輩神谷と出会います。

神谷は最も芸人らしい芸人でした。常に笑いのことを考え、笑いのために行動し、どんなことも笑へと転化していきます。

神谷は徳永に言います。「俺の伝記を書け」と。それはつまり、彼が芸人として語るに値するようなことをしていく、という意思表明なのです。

しかし、現実は神谷が芸人として振る舞えば振る舞うほど厳しいものになってゆきます。

神谷がどれだけ「芸人らしい芸人」であったとしても、彼は「売れる芸人」にはなれないのです……。

シンギュラリティと「幼年期の終わり」

少し前、あるテレビ番組で、物理学者が「シンギュラリティ」について述べていました。

シンギュラリティとは技術的特異点のことで、2045年には人工知能は人間の知能に追いつき、凌駕しているかもれない、と言われています。

さて、この話題でよく取り上げられるのが、「将来の仕事はどうなるのか?」という問題です。

「シンギュラリティ」の根拠の一つは「ムーアの法則」と呼ばれる経験則ですが、SF作家のアーサー・C・クラークは「幼年期の終わり」という小説において、全く別の観点から、同じような未来を想像しました。

それは圧倒的な軍事力を持つ宇宙人の飛来、地球の征服によって各国は軍事費を使う必要がなくなる→科学技術にお金が投入される→技術の発展というものです。

そうなった時、人類はどうなるか。クラークの予想では、「誰もが芸術家になる」というものでした。

それは「シンギュラリティ」がもたらすと言われる未来予想ととてもよく似ています。曰く、「反復的な仕事は皆、機械にとってかわられる」と。

つまり、未来の世界では今現在僕たちが「仕事」と呼んでいるものの多くは「仕事」ではなくなり、僕たちが「仕事」とは思っていないようなことが「仕事」になるのかもしれない。

実際歴史を振り返ってみれば、確かに科学技術の発展と「芸術家」の数は比例するのかもしれません。ラスコーの壁画が描かれた古代、パトロンが芸術家を支えた中世、そして現代と比較してみたら今現在が歴史上最も多くの「芸術家」が存在するでしょうし、ということは、未来はもっとそうなっているのでしょう。

それは一見、とても明るい未来のように感じるかもしれません。もしもこの世の中からつまらない仕事がなくなってしまうとするのならば。

シンギュラリティは本当にユートピアか

……でも、実は僕自身は未来についてあまり楽観的ではないのです。「シンギュラリティ」の真偽はともかくとして、それに近いことはきっと数十年先に起こるのでしょう。科学技術が発展するということは予言でもなんでもないことですから。

ただ、たとえ科学技術の発展そのものを肯定するとしても、歴史的な観点から決して覆せない事実があります。

一つ、「科学技術の発展は、貧富の格差の解消をもたらしたわけではない」ということ。

記録が残っている範囲内で見ると、歴史上最も格差のなかった時代は第二次世界大戦中だった、と言われています。今現在ではなく。

そしてもう一つ、「生物として生存しやすくなることと、人間として幸福になることは同じじゃない」ということ。

もちろんこの二つは、科学者からしてみれば言いがかりでしかありません。当然です。これらは科学技術とか物理的法則とは全く別の問題、貧富の格差は社会構造の問題であり、幸福は主に人間関係の問題なのですから。

だけど僕たちは科学がもたらす未来を考えるとき、なぜかその二つも同時に解決されるような、そんな錯覚をしてしまうのです。

そして科学技術を礼賛する人たちもそうした錯覚をしているか、もしかしたら、そうした錯覚を恣意的に与えようとしているのかもしれない。

クラークが予想したように人類が皆芸術家となるとしても、誰もがピカソのようになれるわけではないでしょう。未来の世界でもやはり現在と同じように、一握りの「売れる芸術家」とその他大勢の「売れない芸術家」に別れてしまうのではないでしょうか。

そして恐ろしいことにその未来の世界では、たとえ自分が「売れなかった」としても、もはや普通の仕事は人工知能に奪われてしまっていて、そんなこと関係のない世界に退場することができないかもしれない。

それは本当に幸せな未来でしょうか。

すべての人が自分で自分を愛することができるとは限らないのに。それができる人だって、どんなときでも常にそうだとは限らないのに。

テレビで見た物理学者は言いました。

「政治家や企業家は富は誰かから奪うものだと考えている。だけど私は科学者として、富は産み出すことができるものだと信じている」と。

それはとても耳心地のいい、ポジティブな言葉に聞こえるかもしれません。でもそれは、言い換えればこういうことなのでしょう。

「未来の世界では、自分で富を作り出せるものだけが豊かになる」と。

でも、富とは一体なんなのでしょうか。お金でしょうか。それとも、他人からの評価でしょうか。

でも、それってどちらも、結局は自分自身が生み出す価値ではないじゃないですか。誰かによって与えられるものでしかないじゃないですか。

それってなんだか、お笑いの世界に似ているような気がします。

お笑い芸人は言うでしょう。俺は面白いんだ、と。でも、それを決めるのは一体誰なんでしょう。

もちろん面白いから売れる芸人というのはいます。でも、面白くなくても売れている芸人だっているし、面白くても売れない芸人もいる。

もちろん、それはお笑いという世界の良い部分でもあるのだけれど。

「火花」は「こころ」である

この物語は、芸人のような「自分で富を生み出す(ように見える)社会」が、シンギュラリティ礼賛者たちが夢見るような単純なものではない、決してユートピアではないと言うことを映し出しているように思います。

芸人にとっての「笑い」、芸術家にとっての「美」、科学者にとっての「真理」、それらがなんなのかは曖昧で分からないまま、にもかかわらず(というか、だからこそ)そこに人からの評価が与えられ、「売れる者」と「売れない者」が明確に分けられてゆくのだとしたら。そのことによって「富む者」と「貧しい者」が分けられるような社会が訪れるのだとしたら。

それって、かなり怖いことじゃないでしょうか。

およそ100年前に夏目漱石が「こころ」を書いたとき、一体当時のどれだけの人が「先生」の苦悩を自分のこととして考えたでしょう。

あの頃もそうだったのです。日本人は西洋を目指して突き進んでいた。西洋人みたいになれれば幸せになれると思っていた。そう、彼らのように自我があれば。

だけど、実際に西洋に触れてきた漱石は「そんなの嘘だ」と思っていたのでした。

同じように今の僕たちはこの物語を、「芸人」という、どこか一般人の自分とは違う人の物語、たとえば明治時代における西洋人の物語のように感じるかもしれません。

芸人の苦悩だなんて言われても、そんなの自業自得だろとか、俺には関係のない世界だと思うかもしれない。

でも、もしかしたら、20年後はそうではないかもしれない。

20年後、「芸人」にこだわるがゆえに「芸人」として成功できない神谷の物語は、もしかしたら、今よりももっと一般的なものになっているかもしれない。実際、SNSの普及は世界を以前よりもかなり芸人側に引き寄せたはず。

重要なことは、どれだけ優れた科学技術であろうと、あるいはどれだけ優れた社会であろうと、それらは僕や貴方を本書の主人公である徳永にしてくれるわけでも、本書の著者である又吉直樹にしてくれるわけでもないということです。それらができるのは、せいぜい社会を芸能界化することぐらいでしかない。

その社会で僕らはもしかしたら、徳永ではなく神谷になってしまうかもしれない。ていうか、どう考えたってそうなる可能性の方がずっと高い。

そして僕なんかは芸人でも20年後に生きてるわけでもないのに、なぜかもう神谷みたいになってる。(なんでやねん)

だけど、希望がないわけじゃない

だけど、売れない芸人たちが残酷な世間の中でも「笑い」を産み出してゆくように、未来の僕らもきっと、残酷な世界の中で何かを産み出してゆくのでしょう。

世間の残酷さが曖昧な何かにあるのと同じように、「笑い」や「美」や「真理」の源泉もまた、何かが好きでたまらないという僕ら自身の曖昧な何かの中にあるのだとしたら。

未来も、今だって、夢のようにはいかないけれど、それって別に絶望するほどのこともないのかもしれない。

僕たちを苦しめる厳しさの元凶でもあり、同時に僕たちが生きる希望でもあるその「曖昧な何か」は、昔も今も、そして未来も、きっと変わることはなくあるのでしょう。

そして、この世界がユートピアであったことなんてこれまで一度もなかったけれど、だからといってディストピアであったことだって、そんなにあったわけでもない。

僕らは今、別にこのユートピアではないこの世界を生きながら、100年前に書かれた夏目漱石の「こころ」を読んだりしている。まあ、そういうもの。

きっとそれと同じように、何十年後かの未来もまた、決してユートピアではないだろうけれど、でも。

でも、僕らはもしかしたらその未来でも、又吉直樹の「火花」を読んだりしながら生きているのかもしれない。

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