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プラトニック・ラブが崇高だなんてソクラテスは言ってない ~プラトン著「饗宴」のこと

「プラトニック・ラブ」という言葉を知らない人はいないでしょう。肉体的な愛よりも崇高な、精神的な結びつきの愛のことです。

この「プラトニック」とは「プラトン風」ということですね。で、その思想が描かれているのが本日ご紹介したいプラトンの「饗宴」なのだ、というようなことを、僕は時折目にしたり耳にしたりするのです。

でも、はっきりと言わせていただきたい。

それ、間違ってますから!

ついでに言えば本書「饗宴」に出てくる話で有名なものに「人間球体説」があります。男と女はかつて一つの球体であった、それが神によって二つに分断されたために、人はお互いの欠けたもう一人の自分を求めて恋をするのだ、というそういう話ですね。

これも、申し訳ありませんが、はっきり言わせていただきたい。

ソクラテスはそんな話してませんから!

というわけで、まずは本書の内容をばばっとご紹介しましょう。

ある日、アガトンという青年の家で宴が催されました。で、ソクラテスもそこに招待されるのですが、「えー、まじでー、めんどくせー」と言うソクラテスがしぶしぶ家に到着すると、宴はどうやら前日から始まっていた様子。てことでもう客たちはみんなベロベロになっているのです。

そんな中、一人が言うのですね。「いやもう、酒は飲み飽きたわ。これ以上飲めんわ。それより、誰か面白い話してくんない?」

なかなかの無茶ぶりですが、それに一人がこう答えたのでありました。

「よし、じゃあみんなで愛について語るのはどうか」

……お、おう。「それの何が面白いんだ?」と僕は思いますが、ところが、なぜかその意見が採用されます。きっとその場にいた人たちは随分酔っていたんでしょうね。

ということで、みんなひとりずつ愛について演説していこうぜ、となぜかそんな話になるのです。それがこの本。

ま、そうやって順番にそこにいた者たちの愛についての演説があり、最後にソクラテスが登場するわけですが、ソクラテスにいたるまでのいろんな人たちの意見をまとめると、だいたいこんな感じになるのです。

① 愛=エロスとは、神である。それもとても偉大な神だ。

② 愛が神として優れている理由、それは愛が「自制」を促すからだ。(好きな人の前ではみんなかっこつけたいでしょ?)

③ ゆえに、自制をもたらさぬ愛、ぶっちゃけて言えば肉欲的な愛というものは愛の中でも一段レベルの低い愛である。

④ てことは、人が人を愛する場合においてとりわけ至上の愛とは何か、それは年長者の男性が美少年を愛する少年愛のことである。だって、肉欲的になりようがないものね。

ということで、一般によく言われる「プラトニック・ラブ」というのは、実はプラトンがこの作品の前半で描き出した当時のギリシャ人たちの常識的な恋愛観だということがお分かりになるでしょう。

ここ大事なポイント。これ、本来は別に「プラトン風の恋愛観」じゃないわけです。

ついでに言えば、人間球体説もこの前半の部分において登場するアリストファネスの説です。ソクラテスの説ではありません。

さて、本書の前半の③ぐらいまでは現在でも「確かにそうだ」と思う方も多いのではないでしょうか。だから恐らく、多くの人がソクラテスが「プラトニック・ラブ」は崇高なものだと言った、と思っているのでしょう。

でも、実はこの作品でソクラテスはこの当時のギリシャ人たちの恋愛観は「間違ってるよ」と言っているのです。

だって、そうじゃなきゃ、みんなの話の後にソクラテスが満を持して登場する意味がないじゃないですか。そうでしょう?

さて、ちょっと話がずれますが、プラトンの著作が2000年以上にわたって読まれ続けているその理由はなんでしょう?

もちろんソクラテスやプラトンがすごい思想家である、ということが第一の条件でしょうが、僕はそれだけではないと思うのですね。

僕が思うプラトンが読まれ続けている理由、それは一言で言うならば、「面白いから」です。

…いやいや、お前は何を言っているんだ? とそう思われるかもしれませんが、もう少し話を聞いてください。

ではなぜ「面白い」のかというと、それは、プラトンの著作が押しなべてある物語の構造を備えているということです。

その物語の構造というのは、


推理小説


なのですね。


推理小説でよくあるパターンとして、こういうのがあるでしょう。


殺人事件が起こる。

刑事やほかの誰かが推理をするが間違っている。そしてさらに連続殺人事件発生。

みんながあたふたする中、名探偵登場。真犯人を暴き出す。

めでたしめでたし。


ね。こういう推理小説、読んだことあるでしょう?

実はプラトンの著作はこれと同じ構造を持っています。


つまり、まず最初にいろいろな人が自説を述べてゆきます。これは当時のギリシャ人にとってはかなり常識的な説であるか、あるいは論理的に必然的に導かれる説です。

で、読者はこの前半を読みながら「なるほど、そうだそうだ」と思うのですが、最後にソクラテスが登場して、言うのです。

「いや、それは違うよ。事件の真相は……」

で、ここで読者にとっては認識の逆転が起こるので、プラトンの著作というのは哲学書でありながら非常に「物語として面白い」のです。まるで推理小説を読んでいるような感覚を味わうことができるのですから。

ということで本書「饗宴」もまた、そういうスタイルをとっています。本書では、至高の愛とは(後世で言う)「プラトニック・ラブ」だよね、とみんなの話がまとまりかけたところでソクラテスが登場、自説を語り始めるのです。

「プラトニック・ラブ」も「人間球体説」も、愛という事件の真相ではないと。

では、ソクラテス名探偵が述べた愛の真相とはどんなものなのでしょうか。まとめてみましょう。


① ソクラテスは自説を述べるのではなく、女友達のディオティマから聞いた話をする。

まあ要するに、愛について何かを知っている者がもしいるとするなら、それはお前らみたいな(もちろん彼自身も含めた)酔っぱらいのオッサン連中なわけねーだろうがってソクラテスは言うのですね。人間には男と女がいるってこと忘れてんじゃないの? と。

で、オッサン連中が愛について語ったりすると、どうせ話はエロい話になるか、「女なんていらねー! 友情が大事だー!」みたいな話にしかならないだろうがと。ま、昔も今も男というのは大して変わらないってことですね(悲)。

② ディオティマによると、愛=エロスは神ではないらしい。

「神」か否かということは普遍的なものや絶対的なものであるか否かということです。で、当時は美は神だと思われていました。それは絶対的なものだと。しかしソクラテスは「美しい人っていうのは、美しくあろうとしなくても美しいでしょ。でも愛する人っていうのは愛そうとしなくても愛にあふれている人のことじゃないじゃん」と言うのです。だから愛を「神」としてまるで「美」のようなものとして語るのは間違ってるよ、と。

③ 愛とは「神」を求める心のことを言うらしい。

では愛とはなんなのか。ディオティマによると、愛=エロスというのは永続性への希求なのですね。

「神」が絶対的で普遍的なものであるならば、それは永続性のあるものです。そして愛とはそれを求める心だ、とディオティマは言うのです。ということは、愛し合う男女がいたら「セックスしたい」と思う方が普通なのですね。だって子孫を遺すことは永続性を求める行為ですから。だからセックスは別に卑しい行為でもなんでもないわけです。にもかかわらずそれが卑しい、という風に導かれる論理があれば、そっちの方がどこかおかしいのですね。永続性を希求していないわけですから。

で、愛=永続性への希求なのだとしたら、それは何も人と人の間のものだけではないだろう、とディオティマは言うのです。国家に対する愛とか、学問に対する愛というのもありえるよね、と。

では、そこに順序はあるでしょうか。「プラトニック・ラブ」は普通の愛より優れているとか、男女の愛より男同士の愛の方が崇高だとか、人間同士の愛よりも国家や学問への愛の方が素晴らしいとか、そういうことがありうるでしょうか?

ないですよね。どう考えたって。なぜなら、愛にとって重要なのは希求する「対象」ではなく、希求するという「行為それ自体」なのですから。

もしも「対象」が愛の優劣や順序を決めるとするならば、その「対象」の何によって優劣が決まるのでしょう?

でしょうか。「俺はお前よりたくさんの女と寝たことがあるから俺の方がお前より愛を知ってる」なんて言う人がいたらどうでしょうか。「はあ?」ですよね。数が大事なわけじゃない。

能力でしょうか。「俺の方が賢いから俺の方がお前より智(ソフィア)を愛している」なんて言う人はどうでしょうか。あるいは「俺の方が国家の歴史をお前よりもよく知っているから、俺の方がお前より国家を愛している」なんて言う人は? 「俺は国家公務員だから、そうじゃないお前より国家を愛している」なて言う人がいたら?

「愛」って、知識の量や能力が大事なんでしょうか。そうじゃないですよね。

永続性を希求するという「行為」よりもむしろその「対象」の方に注意を向けるから、「対象」の数や量や質が気になるのです。でも、それって要するに自分の欲を満たしたいだけで、愛じゃないだろ、って話です。「プラトニック・ラブ」だろうと何だろうと、愛に順序や優劣をつけるとするなら、そっちの方がよっぽど単なる肉欲なんじゃないですか? と。

ということで、実は本書においてソクラテスは、「プラトニック・ラブ」をむしろ否定しているということがお分かりになるでしょう。少年愛を礼賛しているわけでもありません。一体どうしてそんなことになってるんですかね。

「プラトニック・ラブ」はおかしい、そんな風に愛する「対象」に目を向けること自体が間違っている、というのが本書「饗宴」の趣旨なはずなのですが、なぜか本書によって「プラトニック・ラブ」は世界中に広まってゆくのでした。

「プラトニック・ラブ」なんて、単なる酔っぱらいの戯言にすぎないんですけどね。まったく、ソクラテスもプラトンも、草葉の陰で泣いているのではないでしょうか。それとも呆れているでしょうか。

と、まあ、鼻息荒く述べましたが、プラトンの著作の「面白さ」は実は、ソクラテスという人が当時の常識の範疇からしてかなり過激なことを言っているからだ、とも言えるのかもしれません。

でもその言説が過激なのは、ソクラテスが当時の空気を読んでいないからなのです。だけど言っていることは論理的に正しいので時代や空間を超えて支持されるのですね。

論理的な推理、そしてそこから導かれる意外な真相、これぞ推理小説の醍醐味とも言えましょう。

プラトンの著作をまだ読んだことがないという方は、ミステリーを読む感覚でソクラテス探偵の名推理を味わってみてはどうか、と思います。

最後にもう一度繰り返しますが、「プラトニック・ラブ」は言うなればワトソン君の推理です。でもシャーロック・ホームズの推理は違いますから! これはもう、本当に声を大にして言いたいのでした。  



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