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今ごろ、ノルウェイの森。

(まえがき、のようなもの)
ここnoteが「猫を棄てる」の感想文の投稿先だったことで、その後もぽつぽつ記事をアップしています。
で、ついで、と言っちゃあーなんですが、「ノルウェイの森」についても昔、思ったことを書きとめていたので、振り返りのつもりで投稿します。

(2007-09-04)
最近、テレビとかで若い頃の出来事が、「これは、198×年のことでした……」などと紹介されると「ということは、何だ、昭和でいえば、〇〇年ということか……」と、和暦に置き換えた上で、「その頃、自分はちょうど〇〇才で、××していた時だったな……」と、つい過去を振り返ってしまう。 これは、ただ単にトシをとってしまった、というだけの話だろうか。

数日前の帰り途、ふらり書店に寄って、ノルウェイの森の文庫本を買った。
もちろん、以前からこの本のことは知っていたが、ちょっとしたこだわりで今まで読まなかった。あの赤と緑の装丁に、何となく昔流行ったトレンディ・ドラマっぽい嫌らしさを感じ、今ひとつ手が伸びなかったというのもあるが、何より自分の場合、この人の世界は、学生の頃に読んだ「風」や「羊」で止まっていて、その「停止状態」を25年以上、やや確信犯的に続けていたのである。

だから、この本が空前のベストセラーになり、若い女性を中心にブレイクのきっかけになったということも、つい最近まで知らなかった。
そこで、かなり遅れてしまったが、この流行に乗っかろうと、この本を手にしてみた……というのは冗談として、自分でも小説のようなものを書いてると、少しずつであるが、いつの間にか失ってしまった「風」や「羊」を読んでいた頃を思い出し、ここはひとつ、その後の作品も読んでみるか……という気になってきた、というのが一番近いような気がする。

帰宅して、あらためて上下2冊を手にすると、読み終わるのには数週間はかかりそうな気がした。
できればこういう本は、休日、図書館や公園の木陰とかで、ゆっくりとページをめくっていくべきなのだろうが、通勤電車の中や昼休みのわずかな時間で、途切れ途切れに読み進んでいくのだから仕方がない。
しかし、次の日の朝、電車の中で1ページ目を読み始めると、ほどなく引き込まれ、会社での昼休み、帰宅後と、空いた時間にはずっと読み続けるという有り様で、結局、わずか二日で読み終えてしまったのである。

まず、自分が引き込まれたのは、どうしようもない既視感(デジャ・ヴュ)だった。
この本を読んでいると、過ぎ去った遠い過去が、まるで玉葱の薄皮を剥くようにだんだんと露わになっていく。
例えば……
'80年代でも自分のいた寮には「突撃隊」ほどではないにしろ、個性的な人間が何人かいたこと。
中には学生運動の残党みたいな先輩も、ごくわずかであるが、いたこと。
自分はその残党に加わることもなく、かといって勉強するわけでもなく、アルバイトをする以外、毎日がどうしようもなく暇だったこと。
部屋には、ビル・エヴァンスのレコードがあって、ワルツ・フォー・デビーも繰り返し聴いていたこと。
同じ階の先輩がなぜか自分のことを気に入ってくれ、ナツミさんみたいな先輩の彼女との3人で、夜遅くまでお酒を飲みながら交わした会話の数々。
夏休みに入ると、みんな帰省してしまって、がらんとした寮のロビー。
喫煙という習慣が何だか面倒になって、禁煙してしまったこと。
等々……。

もちろん、恋愛小説としても、魅力的だと思う。
’60年代末という時代設定、魅力的なキャラ、知的で気の利いた会話、こだわりの音楽やアルコールなどの小道具、そして、爽やかな官能系(?)(この対極は、渡辺淳一センセイであろう)など、若い女性が好みそうな要素はいくらでもある。
そして、このようなシチュエーションの中で、ワタナベと直子、緑の「純愛」が進む。
読後、なんとも言い表すことのできない喪失感や寂寥感のようなものを感じる人は、多かれ少なかれ、ワタナベや直子や緑に、現在・過去の自分を重ね合わせているのだろう。
ちなみに、誰もそんなことには興味はないだろうが、自分の場合、爽やかな官能系、だったかどうかは別として、ワタナベ君と同じくらい、真剣な時期はあったかもしれない。

しかし、こんな恋愛小説も、多くの登場人物が自ら命を絶っていく。
この展開には、無意識のうちにハッピー・エンドを期待していた多くの読者にとって、ずいぶん違和感があるだろうし、実際、そのような結末は短絡的で必然性も無いといった批判もある。
作者がなぜ、キズキや直子らをあのような結末に導いたのか。
多くの読者が一番理解に苦しむところでもある。

これについて、自分なりに考えてみた。
いささか所帯じみた話だが、以前、実家での法事の際、お坊さんが読経の後の説教で、彼岸・此岸(ひがん・しがん)について触れたことがある。
すごく大雑把に言えば、彼岸とは、仏が悟りを開いた世界、まあ、あの世みたいなもので、これに対し、此岸とは、人間が煩悩に苦しむ現世のこと、じゃないかと、自分では理解している。
そして、人間は、此岸で様々な煩悩に苦しみ悩み、死ぬことによって仏になり、彼岸で悟りの世界に安堵する。

一体、お坊さんの説教と村上春樹の小説に何の関係があるんだ?と思われるかもしれないが、この小説で考えてみた場合、此岸にいる人間が、ワタナベ、緑、永沢らであって、彼岸にいるのがキズキ、直子、その他自ら命を絶っていった者や、緑の父ではないだろうか。
緑が言った「私は生身の血のかよった女の子なのよ」という言葉は、まさに此岸で懊悩する人間を象徴しているように思う。
ある意味、覚悟を決めて此岸で突っ張っている緑や永沢に対し、ワタナベはまだそこまでの覚悟ができず、彼岸にいるキズキの影を追う。
最後にワタナベがキズキへ向かってと呼びかけるシーンは、此岸で苦しむ者が、彼岸で穏やかに暮らす者に近付きたいという姿を描いているようにも感じられる。
しかし、此岸に生きる限り、それは叶わないことなのである。
数人の同級生や知人が自ら命を絶ってしまい、また余命わずかな家族の看病をした自分は、この小説を読み終わった後、そんなことを考えてみるのである。

このように、さらっと読み流せば、ほろ苦い恋愛小説、もしくは爽やかな官能系、さらにもう少し深読みすると、純文学から哲学書や宗教書へと、読む角度によって、様々に変化するのがこの小説の魅力だと思う。たから、この小説を、陳腐だとか薄っぺらなものなどと批判する人は、一つの角度から読んでいないか、「愛」とか「死」というものについて、あまり関心や経験が無い人なのなかもしれない。

こうして読み終えた、ノルウェイの森。
単行本の初版が出たのは1987年のことだそうである。
ということは、何だ、昭和でいえば、62年ということか。
その頃、ちょうど自分は2×歳で、〇〇していた時だったな。
いま振り返ってみると、小説なんか、一番、読ま(め)なかった時期だったように思う。
そして、それから20年が経ち、今の境遇に取り立てて不満はないものの、妙に過去が懐かしくなる。
もちろん、喪失感というものが、より一層美しくしていることは知っている。
ただの懐古趣味と思われるかもしれない。
しかし、失ったものの先に、何かが見え隠れしているような気がならない。
だから、少し変な表現だが、これからは、前向きに過去を振り返っていこうと思う。
うん、それも、悪くはないだろう。

Will you still love me tommorow- by Carole King(You Tube)


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