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【解離性同一性障害-多重人格-】”自分”と向き合ったとき、そこにいるのは”自分”なのか。

物心ついたとき、私はたくさんいる私の中の一人だった。
この体を、私だけの意思で動かした記憶もない。感覚すらも分からない。知らない。
(私以外の子でも、一人で動かした記憶を持つ子はおそらくいない)


そんな状態で自分と向き合ったとき、そこにいるのは”一体誰になるのだろう”

”あの人が認める私”と
”評価を受け取る私”が違うように

自分ではない他人の評価や賞賛を受け取ることもあれば
自分ではない他人の失敗やミスで責められることもある。

しかし、体は一つだけ。
どの私が認められたことも私として受け取って
どの私がやってしまったことも私が反省、改善していかなければいけない。

”自分と向き合うこと”の難しさ。
どんなに私が頑張っても、他の私が頑張りたくないと思うことだったら、
私だけの気持ちでは、どうすることもできない。

嫌なことでも、我慢できるか。
どんなに私が割り切ってやろうとしても、他の私が割り切ることができなかったら
私の気持ちで、私を傷つけることになる。



前に進もうとすれば、後ろに進みたい子もいて
歩こうとすれば、座ろうとする子もいる。

「頑張れ」とか
「さすがだね」とか
「もっとちゃんとしなきゃ」とか

なんかいっぱい言われたけど、
言われれば言われるほど、”違和感”とか、言葉にならない気持ちになる。

”頑張ったのは、私じゃない”
”頑張っていないのは、私じゃない”

でも言えない。うまく伝える伝え方や言葉すらも用意できない。
だから、”それ”を伝えるのは、今じゃない。


毒親とその家族からしたら、子どもが解離性同一性障害(多重人格)になったことを認めるのは

「自分が虐待という罪を犯した犯罪者」と、言っているようなもの。認めるって、そういうこと。

だから

「いい子」の「私」がチラついたときだけ、無視しなかったのかな。嬉しそうだったのかな。


私、
本当は、死に物狂いで「一人」を頑張ったし
本当は、一人を「演じることが死ぬほど苦痛」だったんだよ。

私はね、
私たちが一人を演じたあの期間、それをまず、認めてほしかったの。


そして

本気で反省してくれたら、
それ以上、望まなかったのに。

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