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【小説】ラヴァーズロック2世 #02「アレクサンダー・キンゼイ」

あらすじ
憑依型アルバイト〈マイグ〉で問題を起こしてしまった少年ロック。
かれは、キンゼイ博士が校長を務めるスクールに転入することになるのだが、その条件として自立システムの常時解放を要求される。
転入初日、ロックは謎の美少女からエージェントになってほしいと依頼されるのだが……。

注意事項
※R-15「残酷描写有り」「暴力描写有り」「性描写有り」
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
※連載中盤以降より有料とさせていただきますので、ご了承ください。


アレクサンダー・キンゼイ


2週間ほど前、アレクサンダー・キンゼイ博士はロックと初めて会った。

日曜日、少年は博士の自宅にひとりでやってきた。

苦労して手に入れた中古の日本家屋。庭木にやって来るメジロのさえずりまでもが小憎らしいほど耳ざわりな、子のいない老夫婦ふたり暮らし故の静かすぎる休日の朝だった。

博士と少年とが挟むテーブルの上には、2冊の書物が重ねて置かれていた。

1冊はアレクサンダー・キンゼイ著『歴史の尺度~宇宙・生命・人類~』。そして、その下のもう1冊の背表紙には『鉱物的愛について』とだけ書かれていて著者名はなかった。

目の前に座っているちょっとびっくりするような美少年を見て、キンゼイは戸惑いながらも、かれはいったい何者なのだろうと思ってしまう。

委員会から送られてきた資料には、〈マイグ〉で何やらやらかしたらしい、としか書かれていなかった。

キンゼイもちょっと調べてみて初めて知ったのだが、通称〈マイグ〉とは、学生の間で秘かに流行している憑依型のアルバイト〈マイグレーション・アルバイト〉のことで、仮想の実験空間で別人格として生活するだけという容易さに加え、睡眠中の短い時間、夢を見るのと大差ないほどの短時間で働ける手軽さがウケ、大変な人気らしいのだ。

セキュリティ上、仮想実験空間ですごした記憶は自動的に削除されてしまうことになっているのだが、時々この処理がうまくいかず、軽い記憶喪失や精神疾患を患ってしまうという症例が何件か報告されているため、ほとんどのスクールが基本的に禁止しているというのが現状らしい。

かれがこの仮想実験空間でいったい何をしでかしたのかは具体的に書かれていなかったが、こうして実際に会ってみると、勝手に想像していた問題児のイメージとはかなりかけ離れている。

控えめでおとなしい性格のようではあるが、視線をそらさないその大きな瞳には、全てをあきらめてしまった覚悟のようなものが、薄い膜となって貼りついているようだった。

客間に通されたとき、少年は開口一番、是非サインをお願いしたいといってショルダーバッグから書物を取り出した。

アンモナイト化石の装丁で有名な『歴史の尺度~宇宙・生命・人類~』の初版本を手渡されたとき、キンゼイは正直驚きを隠せなかった。

これは何かの冗談だろう? かれは思わず少年の顔をまじまじと見てしまった。

「まあ、とりあえず、そこへかけなさい」

スケールレベル理論を世に知らしめた処女作『モナドロジー的仮想空間における微小表象の知覚と印象』が話題となり、一躍時代の寵児となったキンゼイのもとに、一般大衆向けの、いわゆるポピュラーサイエンス本の依頼が殺到したのだが、断りきれずに1冊だけ執筆したのがこの『歴史の尺度~宇宙・生命・人類~』なのだった。

主に空間認識の理論であるスケールレベル理論を、無理やり時間概念にこじつけて語ってしまったことに後悔などしていない。

時間にも方向性があり、直線のように長さを測れるなどと、安易な空間的思考方法でアプローチするのはいかがなものか? そんなありきたりな批判も織り込み済みだった。

が、自分のことをマッドサイエンティスト扱いするマスコミの辛辣な記事を度々目にするようになったころには、かれに対する世間の評価も徐々に下がり始めていた。

さらに追い打ちをかけるように、スケールレベル理論には致命的な欠陥があるという論文が雑誌に掲載され……。

その後、ありとあらゆる騒動悶着を経て、結局行き着いたところが〈校長〉という名の幽閉だったのだ。

当然のことながら、全てのきっかけを作りだしたベストセラー『歴史の尺度~宇宙・生命・人類~』はタブーとなった。

しかし、初めて入った校長室で出迎えてくれたのは、おびただしい数のアンモナイトたち。

事情を知らない担当者が、余計な気を利かせて作ってしまったのだろう。だが、かれ自身も不思議に思うくらい、不快な感情は湧いてこなかった。

「すぐにでも撤去いたします」

「いや、かまわんよ。なかなかの奇観じゃないか。それよりも標本資料目録を拝見したいんだがね」

この不手際を機に、スクールスタッフたちのその後の気遣いは完ぺきを極めるようになった。

キンゼイのいるところでは決して例のあの書物、アンモナイトの装丁で有名なあの書物に関する事柄について、一切口にすることはなくなったのだった。

徹底した情報の遮断で、まるでそれが初めから存在しなかったかのような宇宙が作り上げられた。

自宅とスクールとを往復するだけの人生を送っているキンゼイにとって、その環境は大変心地よいものだった。スタッフたちの完ぺきな対応が、やがて指先も入らぬほどに目の細かい金網、スチール製の冷たいフェンスに変わっていったとしても……。

そして今日、四方を囲む金網フェンスをこじ開けてひとりの少年が侵入してきたのだ。

かれの手には例の禁断の書物。しかも、悪気のない笑顔でサインまでも要求してきたのだ。

無知なだけなのだろうか。底意地の悪い美少年の嫌がらせなのでは? はたまた、自分のことを快く思っていない委員会メンバーの入れ知恵による最後の一撃? ……これではゲスな老人の勘繰りではないか、とキンゼイは思い直す。

最近、若いころに想像していたイメージとはかけ離れた年の取り方をしている自分に、思わずハッとする瞬間がたびたびあるのだった。

いわば精神の鏡のようなものが頭上から降りてきて、醜い老博士を容赦なく映しだすように。バロック調の装飾鏡に浮かび上がる、顔のシワよりもなお一層深い魂の浸食。

キンゼイは『歴史の尺度~宇宙・生命・人類~』の見開きにサインをする前に、一緒にわたされたもう1冊をロックに突き返す。

「これは私が書いたものじゃないからね、そのままお返しするよ」

その『鉱物的愛について』の表紙には、広大な赤土の荒野にポツンと立つ、1台の電子計算機用磁気テープ記録装置の姿があった。それはまるで冷蔵庫にオープンリールの眼玉をデコレーションしたような風貌をしていた。

地表の所々に転がっている岩石は、よく見ると黄鉄鉱の正十二面体結晶なのだが、キンゼイはそのことには全く気付かず、むしろタイトルの〈愛〉に敏感に反応してしまう。鉱物的愛? この私に向かって〈愛〉などという……せめて〈性愛〉止まりにしてもらいたいものだ……。

ゆっくりと時間をかけてサインを書き終わると、不意にロックと目が合う。

少年は『鉱物的愛について』の表紙を指さし、博士の顔を下から覗き込むように、いたずらっぽい表情で微笑んでいた。

この一瞬の信じられないような美しさ、悪魔のような美しさに不意に触れてしまい、キンゼイは不覚にも動揺してしまう。

ロックは磁気テープ記録装置の左眼を指さしていた。指先が示す左側のリールフランジは、よく見ると渦を巻くアンモナイトの化石でできているのだった。

「アンモナイトは私の専売特許じゃないんだよ……」

少年から目を逸らし、独り言のように小さく呟くのがキンゼイの精一杯だった。

「転入は初めてじゃないそうだね」

「ええ、父の仕事の関係で何度か……」

そして沈黙。少年はキンゼイをジッと見つめている。

「……で、例の話のことだがね……これが最後のチャンスとまではいわないけれども、君には是非とも承諾してもらいたいのだが……」

キンゼイは、事務的な口調で随分と早めに本題に入っていく。今思うと、正直それは、美少年と真正面で対峙している息苦しさから一刻も早く逃れたい、その一心からだったのかもしれない。

「交換条件というわけではないのだけれど……転入するにあたって君にお願いしたい例のあれねえ、残念ながら書面として残すことができないんだ……」

柔和な顔つきでうなずくロックを見て、キンゼイは安堵する。

委員会が示してきたスクール転入の条件は、ロックへの接続が常に可能な状態を維持すること、要するに自立システムの常時解放を要求するものだった。

わかっている、思春期の少年にとって、このことが何を意味するのか、キンゼイにも痛いくらいわかっていた。けれど、当の少年は我関せずといわんばかりの態度。これが、キンゼイの罪悪感を幾分かやわらげたのだった。

正午前にふたりは握手をして別れた。

少年の手を握った瞬間、キンゼイは自身の身体が大きく変化したことに気づいた。

全細胞が泡立ち、全組織の並びの向きが一瞬にして変わったような感覚。

かれはロックを見送るとソファに倒れ込むように座った。

ギュッと力強く閉じた真一文字の唇に、ちょうど十字になるように立てた人差し指を強く押し当てた。そして、しばらくの間そのままでいた。

柱時計の振り子の音も、庭の小鳥のさえずりも、全てが消え去った完全な無音状態。

テーブルの上には少年がわざと忘れていったのだろうか、1冊の書物『鉱物的愛について』がそっと置かれていた。

つづく


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