少女たちのすてきな夜のための夢の言語学序説
(これまで「知らない街を旅すること」と「嘘」とについて語った。今回の「夢」についての話でひとまず「存在しないものの詩学」については完結する予定である。今回もまた、前回までの内容を前提とはしないと思う。しかしやはり同様の問題を取り扱い、関連するものであるから良かったら前回までのものも読んでいただきたい。)
とてもすてきな街並みの中を歩いたり、何ものにも代えがたいくらい美しい光景を目の当たりにした夢を、目が覚めてもはっきりと覚えている稀有な朝がある。しかしながら、高揚した気持ちでその映像をことばや絵に描きとろうとしてもうまくいかない。夢に見たものを詳細に記述することはできるのだが、夢において目に映ったすべてのものが湛えていたはずの独特の雰囲気は、現実のことばや絵にはもはや宿っていないことに気が付いてしまう。
夢を記述することにはそもそも困難がつきまとう。私たちが夢を見ているまさにそのときにはペンを持つことはできないし、逆に私たちがペンを持つときには、豊かであったはずの夢の映像は霧散してしまっていることがほとんどだからである。夢を記述しようとする行為は、夢から「夢的な何か」を取り上げてしまう。見た夢を書き記した日記は、奇跡的な場合を除いては、夢の持っていた幻惑的な色彩を失い、支離滅裂な、あるいはそこまではいかなくとも日常に埋もれてしまうようなつまらないことばの集積にしかならない。私たちが目覚めているときに夢を記述しようとすると、「観察」というしかたにならざるを得なくなるからである。朝顔の成長を記録するようなしかたで夢を描きとろうとすると、夢の非常に希薄な大気がほとんどこぼれ落ちてしまう。
建築家の吉武泰水は、心理学や精神分析などの影響から夢の記録を取り始めたが、その中で彼の見る夢には成長期に彼が過ごした家や街に関連するものが多いことに気が付き、夢における場、夢における空間に関する考察を行うようになったという。今の私たちとも問題意識を一定程度は共有しているはずの彼の『夢の場所・夢の建築』という本はその考察をまとめたものであるが、そこから夢の記述を一つ引用してみよう(原文にある、工作舎の本らしい特異な字間は詰めて引用している)。
この本に現れる吉武による夢の記述はどれも、良くも悪くも建築家的で、夢の図面を引いてしまうものである。夢の色彩を固定してしまう。夢における土地や建築が、自己増殖し、自ら増改築し、あるいは自ら一区画を取り壊したりするものであるはずのものであるにも関わらず、彼は現実の建築物と同じように白い紙面の上に黒の消えないインクで部屋と部屋とを仕切ってしまうのである。
有名なショパンのノクターン op. 9-2 の楽譜は、ショパン自身が演奏した多様な変奏のうちのほんの一パターンだけがたまたま記譜されたもので、実際のサロンの演奏ではその場で即興的に、現在の私たちが楽譜を通して知るのとはまったく別の変奏さえなされていたかもしれない、と聴いたことがある。夢の図面を引くという行為も、本来あったかもしれない夢の豊穣な可能性を刈り取ってしまうものである。
心理学的あるいは建築学的、さらに言えば生理学的な夢の記述は、何らかの成果を収め、人間の見る夢について何ごとかを明らかにするかもしれないが、それはおそらく吉武のようなしかたで夢の記述を生成するものになるだろう。これは、太陽の光のもとで観察可能なものについて、「誰にでも平等に」理解可能なものとして夢を描こうとする試みであると言えるだろう。そうしたアプローチはどこまでいっても「昼間的」なものでしかない。植物学は眼前の花の美しさについては何も語ることができないように、夢の建築学、夢の地理学は夢が持っている豊かな色彩をすべて捨象してしまう。私たちが目指している、夢との詩的な関わりは、太陽のさんさんと輝く青空の下にあるものだろうか。
私たちが目指すのは、(自然)科学という輝かしい太陽のある方向ではない。太陽のもとでの目覚めとは、私たちの詩学でいう「眠り」のことであり、私たちに必要なのは、月の光であり、夜における睡眠という「目覚め」である。
目覚めている人間と眠っている人間、昼の人間と夜の人間の交流は常に失敗に終わる。彼らは決して共通の文法、共通の論理を持たないからである。このことは、夢の雰囲気が奇跡的に保存されている以下のテクストによく現れている。
『失われた時を求めて』の中でも最も美しい断章の一つであるこの「心情の間歇」において、語り手の「私」は、夢の中で、すでに亡くなった愛する祖母とことばを交わし、「亡くなった人がもう生きていない」ということなんて嘘だ、と考えていた。しかし「私」が夢から覚めようとすると、夢の中の「私」の思考は「鹿、鹿、フランシス・ジャム、フォーク」という、目覚めた「私」には到底理解できない形式でしか現れなくなる。夢の中の「私」は、「ごく自然にわかった」ことでも、「明瞭な意味や論理を」目覚めてしまった「私に示さなかった」のである。
夢の中の言語は、夢の中の私による翻訳を通してのみ理解され得る。夢は、理知的なしかたでは捉えきれないものによって構成されている。夢における私たち(あるいは、『不思議の国のアリス』において、アリスがはっきりと感じ取っていたように、夢を見ている私と夢を記述する私とは必ずしも同一とは限らないのだから、おそらくより精確には「夢における私たち」と呼ばれている他者である「彼ら」)は、夢の言語を通じて夢の世界と交感しているからこそ、夢の独特の雰囲気を感受することができるのであろう。あの不可解な色合いや、不思議に置き換わる空間を十全に描きとるための理知的な言語などあり得るだろうか。
学知的、抽象的、固定的……何であれ、このように形容される、理性の管轄下にあるいかなる言語はどれも太陽の言語、昼の言語、目覚めの言語であり、こうした言語によっては、夢はその本来の姿として描かれることはないだろう。目覚めたあとに、夢見たことを写し取ろうとするとき、夢の大気の内にあった輝かしい雰囲気がことごとく消失してしまっていることに気が付かなければならない。あるいは、さらに根源的に、夢の色調が現実の色彩と異なるものであることに気が付かなければならない。科学の言語、昼間の言語は万能ではないことを知らなければならない。何一つ損なうことなく、科学の概念と論証の方法だけで『ハムレット』を書き直すことができると信じてはならないのと同様である。目覚めの言語は、白と黒という、科学研究のための本を印刷するために必要な色しか有していない。たとえ『ハムレット』が哲学的な含意を持った作品であるとしても、哲学の論文として書き直されたそれはもはや無残な『ハムレット』の死骸である。
各々の人は、自らの夢において各々に固有な色を持っている。目が覚めている内は、それぞれの人は共通の言語によって共通の世界のなかで振る舞う。色相の全く異なる色が同じ世界の中で共通に理解し合うことができるのは、昼の世界においてはすべての色が彩度を失って白と黒だけで表現できるようになるからである。夢という最も個人的な、最も固有な経験を、多くの人々に伝わるように作り出された共通的な言語で語ってしまうことをためらわなければならない。共通的な世界が、個的・固有的な領域に侵食してくることを防がなくてはならない。
他方で、バシュラールによっては想像力という心的活動の極が割り当てられている、魂の夜の側が有する月の言語、夜の言語、夢の言語と呼ばれ得るような言語は、昼の言語とは反対に、多様な色を含んでいるだろう。マクドナルドの小説は、それを読む子どもたちにこのことを教えている(彼は明らかに、彼の小説を読む子どもたちを夜を恐れず、夜を愛する少女であるニュクテリスへと育て上げようとしている)。
夜空を満たしている黒は、白色をあらゆる色の充溢であると考える古代ギリシア的な「健全な」色彩感覚に基づくならば、あらゆる色の欠如となってしまう。しかし、狂気的で、それと同時に月を愛でる私たちにとって、夜空の黒は単なる欠乏を示す色ではない。マクドナルドによる夜の叙述が示しているように、あらゆる色が混合された、最も豊かな色であるはずだ。ともすると混沌・混濁とも映るその黒は、(必ずしも否定的な意味を帯びているとは限らない)「病的な」色彩感覚を持つ者たちにとっての美しさを湛えている限りで、最も豊かな色なのだ。
夜の人々、狂気的な人々、「水を、雲を、沈黙を、夜を、涯しもない緑の海を、形がなく、さまざまな形をとる水を、おまえのいない場所を、おまえの知らない恋人を、怪物じみた花を、錯乱させる香りを、ピアノの上で恍惚となり、嗄れた優しい声で、女のように呻く猫たち」を愛する月の申し子たちはすでにこのことに気が付いている。だからこそ、プルーストが「鹿、鹿、フランシス・ジャム、フォーク」という意味不明な単語の羅列を書いたときにも、彼らはそれを決して狂気とは捉えることはなかったのであった。彼らは、夜の言語、夢の言語が、目覚めているときに理解可能であるようなものではなく、「鹿、鹿、フランシス・ジャム、フォーク」のようにならざるを得ないことを知っているからである。彼らはプルーストを読んで、これまでに自分が見てきたいくつもの夢が目覚めとともに破れる瞬間の苦しみをこの四語に重ね、理解はできないにしても(そもそも理性が活動をやめ、想像力のみが働く夢において「理解」は可能であろうか?)、また新たな目覚めの悲しみを『失われた時を求めて』の語り手と共有するのである。彼らは(そして私たちは)眠られぬ夜の孤独に苦しみ、そして同時に(苦しむ以上に)それを愛している。すてきな夢はそのような人々にとっての祝福である。
私たちの詩学、「存在しないものの詩学」が必要とするのは、月の言語、夜の言語、夢の言語であり、バシュラールが「ポエジーの研究のために」編纂される必要があるといった語彙集は、まさにこの夢の言語の語彙集であろう。むしろ必要なのは語彙集というよりも文法書かもしれないが。
「存在しないものの詩学」が関わっている「夢への愛好」、「詩的な嘘」、「知らない街での旅」というのは、いずれも昼という物質的で理知的で理性的なものへの反抗に他ならない。これまでにみたいくつかの文学(これに関しては「存在しないものの詩学」に関わる他の記事も参照して欲しい)が、希少な夜の結晶、夢のエッセンスをなんとかして保存しようと努めていたように、私たちも夢や嘘、知らない街での旅の内に漂っている詩的な雰囲気を壊してしまわないように慎重に取り扱わなければならない。またもうすぐ夜が短くなり始めるという絶望に負けることなく。
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