嘘をつくこと、それも詩的なしかたで

 (以前、「存在しない街を旅すること」ということについて少し書いた。今回の話はこのことを前提とはしない(と思う)けれど、「存在しないものに想いを寄せる」、あるいは「存在しないものと詩的に関わる」という同じ問題圏に属するものであるという意味で内容的に少し関わりがある。関心のある方はぜひ目を通していただきたい。)

 ある種の嘘をつくことには、それ自身なにかことばにはし難い楽しさのようなものがないだろうか。その楽しさは、嘘に戸惑う人を見て楽しむというような陰湿なものではなく、誰かに語るでもないが、この世界のありかたとは異なっていることを言語的なしかたで考えることによって、「世界の外側」を垣間見ることができることに由来するように思われる。『鏡の国のアリス』でハンプティ・ダンプティが「私は今までに書かれたすべての詩を説明できるのだ。それに、まだ書かれていないのもたくさん説明できる」と(私たちからすると荒唐無稽な嘘に見えることを)語るのを読むとき、馬鹿げていると思いつつも、同時に、やがて生まれるであろういくつかの文学を夢見て、まだ書かれていないいくつもの素晴らしい詩を知っていることはなんと素敵なことなのだろうと考える(仮に、私たちの人生が真に「一行のボオドレエルにも若かない」ようなものであったとしても、ボードレール以後に書かれた優れた文学を読むことができるという点で、私たちはボードレールのどの詩句よりも幸福である。まだ生まれていない詩について理解しているということは、それほどまでに幸せなことだ)。こうして、ある種の嘘は、現実の世界から少し離れたところにある「目覚めながらにして見る夢」のほうへと誘ってもくれる。

 嘘をつくことについては、こうして、一方では馬鹿げていると思いつつも、他方ではその内容にうっとりとして、世界の外へと旅立つような気にさえなる。しかし、合理的に日常的な生活を営むことを考えると、嘘をつくことは多くの場合に忌避されるべきことであろう。こうした思考においては、嘘は馬鹿げたものに見える。現代の倫理学にも多大な影響を与えている、中世哲学における最重要人物であるトマス・アクィナス (c. 1225–1274) は「嘘をつくこと」について次のように述べていた。

どのような嘘も罪なしには存在しない。というのも、いかなる嘘によってもこれほどまでに必要な信が損なわれるからである。

トマス・アクィナス『ボエティウス三位一体論註解』

 要するにこれは「嘘はすべて信頼を損なうから罪である」という、日常的な言語実践における、素朴ながらも極めて直観的な原理である。狼少年は繰り返し嘘をついたせいで人々からの信頼を失ってしまい、「嘘をついた」という罪に対し、「狼に羊を食べられてしまう」という罰を受けたことになる。「レターパックで現金送れ」はすべて金銭を騙し取る詐欺であり、忌むべき嘘である。トマスによれば、「どのような嘘」も罪となる。ここで言われている「信」を意味する fides というラテン語は「信頼」を意味すると同時に「信仰」を意味するものでもあり、キリスト教神学者でもあったトマスにとっては非常に重要な意味を帯びたものであったことも確かである。しかしながら、そうした側面を割り引いたとしても、およそ合理的・日常的な生活においては、これと同様の論理によって多くの嘘は排斥されるべきものとみなされるだろう。トマスはハンプティ・ダンプティを捕え、嘘をついたとして断罪するかもしれない。

 しかしながら私たちがいま関心を持っているのは、嘘を馬鹿げたものや悪しきものとみなす「つまらない」ほうの論理ではない。そうした理知的なことは哲学者や倫理学者にまかせておけばいい。私たちは自由気ままに結びついては切り離されることばたちの戯れを描きとる詩人たちに寄り添ってみたい。この合理的・日常的な世界を離れて、不合理で、人生との関わりが希薄である「不思議の国」を旅してみたいのだ。

 詩人たちはいつも嘘つきだ。しかし彼らは「つまらない」嘘はつかない。彼らの詩的な嘘は、この世界の内部で閉じることは決してなく、現実を拡張するようなしかたで世界の外部を志向する。

 この意味で、「存在しない街」について語ることは、詩的なしかたで嘘をつく一つの技法であろう。

バルベックはといえば、あたかもそれが焼かれたころの土の色を保っているノルマンディの古い陶器の表面のように、いまはすたれたある習慣、封建法のなごり、土地の昔の状態、奇妙なシラブルができてしまったすたれた発音法、といったものがまだそこから浮かびあがる、そんな名の一つであった、そしてそのすたれた発音法はといえば、他日バルベックに私が到着したとき、教会のまえの荒海の見えるところに私を案内してミルク・コーヒーを出してくれる宿屋の主人、小話詩のなかの人物さながらに議論好きで、もったいぶった、いかにも中世の人間らしい風貌に想像される宿屋の主人の言葉のなかに、それが認められることを私はうたがわなかった。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』、「スワン家のほうへ」

 読者である私たちは、『失われた時を求めて』の語り手である「私」とともに、ノルマンディー地方に位置すると言われる架空の町であるバルベックの街を夢見る。彼は一度目のバルベック訪問の際に、そこが自分が想像の中で思い描いていた「バルベック」と大いに異なるものであるために落胆することになる。私たちも、もしかすると(「私」とは逆に)バルベックにたどり着くことができないということに気を落とすかもしれない。語り手である「私」が、彼の想像していた「バルベック」には決してたどり着けないのと同様に、たとえ実在する街であるカブールがバルベックのモデルであるとしても、私たちは決してバルベックという街にたどり着くことはできないからである。存在しない街について語ることは、現実の地図の上には決して位置を定めることのできないような街を描くことである。地図に「カブール」とある地点を眺めてみても、決してバルベックは存在しない。バルベックという架空の街は、折り紙のように地図の上に折りたたまれていて、詩的夢想とは無縁の人々には隠されてしまっている。

 現実の地図の上に位置を持たないがゆえにこそ、こうした嘘は詩的になり得る。「名は、人の、そしてまた町の……ある漠とした影像を思いうかべさせる」のであり、私たちはある土地の名のもとに、遠くまで伸びている石畳の街道があったり、木組みの骨格と石造りの壁面を持つ家々が立ち並んでいたり、どのような人々が住んでいて、どこにどのような店があるのか……それこそ『失われた時を求めて』の語り手がバルベックについて様々なイメージを抱いていたように、様々な雰囲気の街角を夢想する。しかし、現実に存在しない街は、安定した影像を持ち得ないし、その街を隅々まで知り尽くすことはできない。その街は時としてその姿を変異させるし、来たるべき拡張工事に備えて余白のまま残されているところもある。不安定で境界を持たない街のイメージが、かろうじてその街の名によって統一されているような状態にある。それは夢で見る街とよく似ている。

 薔薇の花がきれいに咲いている庭のある家の前を通り過ぎたことがあるし、そのときに咲いていた薔薇の色や形や大きさ、はては香りまではっきりと記憶に刻まれていて、その家のあった場所さえも、大まかには覚えているのだが、無数に伸びる似通った道のどこを曲がればその家にたどり着くことができるのかは決して思い出せないということがあった。実はそんな家は存在していなかったのかもしれない、夢で見た情景と混同してしまっているのかもしれない……。忘却は、こうしたしかたで、一種の夢想を形成し、私たちをふと詩的な嘘つきに仕立て上げてしまう。どこかにあった気がするあの薔薇の家は、忘却という詩的な機能を通じて、私たちの知覚によって得られた甘美な像だけを残し、場所という、この世界の内に地図的に位置付けられてしまうという一種の束縛からの脱出を果たす。

 存在しない街について、私たちは生活的なしかたでは語り得ないということも重要である。日常的な会話において、存在しない街のスーパーでは新鮮な野菜が安かったということを伝えることはない。存在しない街についての言説においては、生活に関わるモード、嘘を馬鹿げたものや悪しきものとみなすモードは存在しない。存在しない街、地図上に定位され得ない都市、忘却上の楼閣についての言説は、ほとんど常に詩的であり、ある種の「贅沢品」と言える(念のために附言しておくが、「贅沢品」という言い回しによって、こうした詩的な言語が生きていく上で必ずしも必要ではない、ということは意図していない)。

 『失われた時を求めて』に登場するシャルリュス男爵や、プルーストに大きな影響を与えたことでも知られるネルヴァルとは異なり、プルーストや彼の小説の主人公にとって、記憶と関わる物質的な場に接触する機会や、そうした場所の消滅が重要な意味を持つ、という研究を読んだことがある。忘却の夢想や創作による、土地の絆や土地そのものからの脱出は、これまで述べてきたような意味で「世界の外」を目指すものである。『失われた時を求めて』の語り手が実際にバルベックに初めて訪れたときにがっかりしたのは無理もない。訪れたことのない街についての夢想も、実際の土地との繋がりが極めて希薄なものとなるのだから、詩的なものとならざるを得ない反面、実際にその土地を訪れたときには、そこは生活と地続きとなり、日常によって汚染されてしまうからである。ボードレールの有名な散文詩において、魂が「この世の外ならどこへでも!」と叫びだすのはこうした事情をよく知ってのことであろう。

 ここで注目しておきたい嘘の形態がもう一つある。ここまで語った「嘘」が、現実にはない土地や街を作り上げて語るという、やや大掛かりな仕掛けを用いたものであったが、これからは、それに比べると、その規模はささやかではあるが、同じくらいに豊かなものであると思う。

 形容詞は多くの場合、形相される名詞を特定化・限定化するために用いられる。例えば、「甘いケーキ」というときには「甘い」という形容詞はケーキがどのようなものであるかを限定している。「丸い」はドーナツのありかたを、「白い」はホイップクリームの性質を示している。形容詞のこうした用法は、それぞれのものが持っている性質を示すものである。こういった用法の形容詞は、現実にあるものが実際にどのようにあるかを示す叙述的なものであると言える。

 だが形容詞には、こうした叙述的なものとは異なる「嘘つき」な用法もある。それは、形容される名詞の意味内容には本来的に含まれていないはずの概念を接ぎ木するようなものであり、それは、現実において私たちが見かけるものについての認識からは決して構成され得ないような、独特の形容関係である。こうした形容詞の使いかたは、例えばホロライブ所属の猫又おかゆさんの楽曲『もぐもぐ YUMMY!』において見て取られる。

混沌 情報過多のレストランで
嘘っぱちのメニューにお茶こぼして

猫又おかゆ『もぐもぐ YUMMY!』

 『もぐもぐ YUMMY!』の歌詞は、上の引用に代表されるような、自由に「嘘をつく」形容に満ちあふれている。「理論武装のミルフィーユサンド」も「匿名希望のオーロラソース」も、現実には決して存在しないが、『もぐもぐ YUMMY!』の歌詞の中ではどこかに引っかかることなく、まさに「嘘っぱちのメニュー」の中の一つとして生き生きとしている。こうして「嘘つきな形容詞」によって、『もぐもぐ YUMMY!』の歌詞世界では、食べ物でないものも食べ物のように振る舞うし、食べ物も食べ物でないかのように振る舞い始める。またしても『不思議な国のアリス』において、不思議の国においてはアリスと他の少女との境界が入り乱れてしまったように、『もぐもぐ YUMMY!』の歌詞世界では、本来食べ物であるはずのものと食べ物でないはずのものとが手を結んでいるのである(それはおそらく「食べるもの」に対抗するために)。

 この興味深い形容法は、一次元的に伸びてゆく実数に対して、虚数がそこに加わることで二次元的に平面が展開されていくのと同じように、日常的な言語空間において、現実方向しか指していないはずのことばには本来適合しない別のことばを加えることで、夢のような世界、現実ではない世界の方向へと空間を広げ、夢想を可能にする。あるいは、ことばはもともと現実の方向にも夢の方向にも伸び広がって、豊かな詩的空間を展開していたにも関わらず、私たちが現実のことばを使う頻度が夢のことばを使う頻度よりも高いせいで、夢の機能のほうが退化して忘却されてしまっていたのを、「嘘つきな」形容詞の暴力的な接合によってショックを引き起こして思い出させただけかもしれない。現実的な言語行為が、基本的には「現実的な」軸上での語りしかもたらさないのに対し、こうした「嘘」の言語は、現実と交差する別の軸を作り出す。嘘つきな詩人たちは、嘘を良しとしない、現実軸の上に位置付けられている世界がいかに狭いかをよく知っている。彼らにとってはむしろ「混沌 情報過多のレストラン」のほうが居心地がいいのだ。


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