知らない街を旅すること、それから青と薔薇色の詩学について

 どこか遠くへ行く電車の中から、田んぼの真ん中にぽつんと建つ小さな神社や、人気のない寂しい海岸線、あるいは急な勾配の坂が続く不思議な集落や、おかしな具合に折れ曲がっている階段を見ると、何となく、そこへ行ってみたい、そこを歩いてみたいという気持ちが生じるのは、おそらくそれほど特異なことではないと思う。電車がそこで停まらないならなおのこと行きたくなる気がする。

 旅をすることの最大の楽しみは、自分とはほとんど何の関わりもない、こうした知らない街、知らない土地で気ままに陽気な迷子になることができるということだと思う。そもそも旅とは、知らない土地、あるいはこう言ってよければ、日常からの、さらに別のことばで言えば、いつもの自分がいる「ここ」ではない場所へと逃げ出そうとすることのような気がする。旅先の街を目的もなくうろつくのが楽しいのは、それが「ここ」ではないどこかへの逃走という「旅」のありかたによく適っているからなのだろう。

 しかし、どんな土地であっても、ひとたび自分が足を踏み入れてしまうと、そこはどうしても「ここ」的なありかたをし始めてしまう。ふつう「ここ」というのは、「私」に常に付きまとうものなのだから、どこであっても、「私」という規準が設置されてしまうと、私がたとえ「ここ」ではないどこかへ逃れようとしても、その「ここではないどこか」のほうが常に私から逃れ去ってしまう。しかも多くの場合、旅先も、自分のよく知っている街の、単なる有限的な、しかも単純な変形でしかなく、容易に私と顔なじみとなり、その土地が自分の日常と地続きであるということがいとも簡単に暴露されてしまう。日常から遠く離れて来たはずなのに、街並みも食事も人々も日常とあまり変わるところがないと気が付いて意気消沈してしまうこともあるだろう。こうした「ここ」の持つ暴力性に対するせめてもの抵抗としてできるのは、少し遠くまで散歩する際に(上での旅の定義に従うならば散歩も小さいながら立派な旅である)、地図を見ることなく、通ったことのある知っている道は避ける、くらいのものだろう

「理想の旅」というものは、それゆえ、いつまで経ってもその旅先が私となじまず、優しい疎外感をもたらし続け、「知らない街」に漂う高揚感を保存し続けてくれるようなものなのかもしれない。理論的に、こうした旅は二通りに可能だと思う。一つには、「私」のほうが常に変容し続ける場合であり、もう一つには、土地のほうが変化を繰り返すような場合である。

『不思議の国のアリス』におけるアリスの旅、あるいはアリスの冒険は、この前者の相を帯びたものだったというのはなんとも羨ましいものではないだろうか? アリスの冒険は、アリスから逃げ出した彼女自身、「アリスであること」、つまり「私」を追い求め続けるというものであった。私が「私」ではないならば、たとえ土地が同じ一つのものでも別様に見えることだろう。小さくならないと、隠れた扉を見つけられないし、逆に大きくならないとその扉の鍵を取ることができない。アリスの不思議な冒険において彼女が感じ取った疎外感は、アリス自身の様々な変容に由来していた部分も大きい。アリス自身から「私」が逃げ出してしまったせいで、偶然にも「理想の旅」が実現されてしまっていたのかもしれない。

 私たちは、「理想の旅」をそういったおとぎ話に求めることはできない。おとぎ話において旅をするのはその物語の登場人物であって私たちではない。それでは私たちは「理想の旅」をどこに求めよう? 土地のほうが変幻自在に振る舞っている夢においてはどうだろうか。

 私は夢の中で知らない街にいることがある。その街は、現実の世界で私が訪れたことのある土地の名前で呼ばれるが、現実と共通しているのはその名前だけで、実態は現実の街から大きく乖離している。二つ以上の異なる街の雰囲気が混合されている場合もあれば、既知の街に、魅力的な店や建物が立ち並ぶ新しい通りが増えていることもある。ときには、現実における非常に長い距離が、夢の中の街では、あたかも地図帳を折りたたんだかのように縮約されていることもある。

 現実のどこかの街を訪れたとき、私たちはその街のどこかを写真に撮ったり、絵に描いたり、あるいはその街で買った何らかの小物をお土産にすることで、その街のことを何とか記憶に留めようとする(そういえば、お土産はフランス語由来の表現で souvenir というが、これはまさに「思い出す」という意味の動詞だ)。現実の街は確固としてあって、記憶が確かである限りは常に同じしかたで、現にそうあったような街が思い出される。その街は、思い出すたびに、訪れるたびに同じしかたで私たちを受け入れる。しかしそれは、街の優しさなどではなく、その街は、私たちにどのような姿を見せるかということにそもそも関心がないということに過ぎない。だから、現実の街は、会うたびに同じ服を着てくる人のようなものだ。

 他方で夢の中の街はというと、そういった記憶に留めようとする私たちの意志的な行為をあざ笑うかのように、想像力が自由に戯れるようにして、単なる気まぐれによって、建物を新しく建て増したり取り壊したり、通りを舗装するかと思えば煙のように消してしまったり、それぞれの地区を統廃合したりする。目覚めたあとにおぼろげに記憶されている街は、次に私がそこを旅するときにはまったく違った様子となってしまっているだろう。知っている街でもあるが、知らない街でもある。そうした特徴を持った夢の中の街は、私たちがそこで永遠に迷子でいられる理想の旅先であると言えると思う。

 私たちに到達可能なすてきな旅先は夢の中にある。あるいは夢の中にしかない。もしくは、旅を限りなく理想的なものへと近づけた解析学的な極限として夢がある、とも言えるかもしれない。理想の旅は夢と重なる。旅が夢に近づくように、夢も一種の旅である。それゆえに『不思議の国のアリス』の物語の中で理想の旅をしたアリスは、旅が終わるときに夢から醒めなければならなかったのだろう。

 とはいえ、おそらく夢の中の土地での旅だけで満足できる人はそう多くないと思う。それゆえに、理想的ではないにしても、次善の旅を求めて、あるいは、それが決して実在しないと知りつつも、夢に見た土地を探して私たちはどこか知らない場所へと旅立つ。

それにしてもジェラールは『シルヴィ』を書くために、もう一度ヴァロワ地方に行こうとしたのだろうか。もちろんそうだ。情熱は、対象が実在すると思い込むものだし、夢のなかである土地に恋したものは、その土地をこの眼で見たいと願うに至る。そうでなければ真摯とは言えまい。ジェラールは純朴だった。だからこそ旅に出た。

マルセル・プルースト『サント゠ブーヴに反論する』、「ジェラール・ド・ネルヴァル」

 ジェラール・ド・ネルヴァルの傑作『シルヴィ』もまた、夢と旅の小説である。あるいは夢と旅についての小説と言ってもいいかもしれない。ウンベルト・エーコに「この世で最も美しい小説の一つ」と言わしめたこの『シルヴィ』は、独特の色調で彩られている。『シルヴィ』についてのプルーストのことばの続きを聞こう。

そこには、言い表し得ないものだけが、書物にはうまく盛りこめそうもないと思われていたものだけがあって、しかもそれが、書物のなかにとどまり続けているのだ。それは追憶に似た、漠然としていながら取り憑いて離れない何ものかである。雰囲気、といってもいい。『シルヴィ』の、青みがかった、あるいは深紅に染まった雰囲気だ。

マルセル・プルースト『サント゠ブーヴに反論する』、「ジェラール・ド・ネルヴァル」

 青と深紅、あるいは青と薔薇色という不思議な色調を、私たちは、ネルヴァルからそれほど遠くないところに見出すことができる。

 一つの夢想にも似た部屋、そこに澱む空気が、淡く薔薇色と青に染まっている、本当に神秘的な部屋。
 魂はそこで、哀惜と欲望の幸に薫じられた、怠惰の沐浴をする。――それは何かしら、黄昏めいた、青みをおび、薔薇色をおびたものだ。日蝕の間の、逸楽の夢。

シャルル・ボードレール『パリの憂鬱』、「二重の部屋」

 時間さえもが消失してしまった最上の悦楽という相のもとに現れる、「夢たちの女王」が君臨する「天国めいた部屋」は、ボードレールによって青と薔薇色とによって染め上げられていた。これは夢、ないしは夢想の色調だ。薔薇色という色彩によって、あるいは「薔薇色」ということばで、私たちは「薔薇色の指を持つ暁の女神」が生まれる、ホメロスの世界の夜明けに至る。そして青色によって、憂鬱な旅人のみが知る夜明け前の濃密な空気のうちに巻き込まれることになる。薔薇色と青という夢想の色調は、このように、夜が明けようとする絶望的な瞬間によって方向付けられている。この世で最も豊かで、美しく、充実した旅である夢を破壊する瞬間である夜明けほど悲しく、絶望的なものなどあるだろうか?

 夢想の快楽にたゆたうことができるのは、夜にベッドに潜り込む前ではなく、眠っているときか、あるいは目覚めたあと、まだ半ば夢に浸かったままでいる薄明るい夜明けの時分だけだ。旅先の土地を気ままにさまようことができるのは、旅をしているときか、その度を記憶の中で思い返すときだけ、というように。まだ醒めたくないと思いつつも、窓から差し込んでくる「執達吏」はそれを許さない。

このような朝も、たしかに現実ではあるのだろう。しかし、このとき、私たちは心がひどく昂っていて、どんな些細な美しさにも酔わされるし、つねづね現実からは汲むべくもないような、夢の快楽にひとしいものさえ手に入れることができる。個々の事物の、それなりの色彩が、まるで色のハーモニーのように心を打つ。薔薇が薔薇色なのを見て、あるいは冬なら、木々の幹に輝くばかりの美しい緑色をみつけて、泣き出したいほどの気分になる。……これこそが祝福された朝というもので、(不眠だとか、旅のせいでの神経的変調だとか、身体の陶酔感だとか、特異な事情からして)私たちの日々の固い岩盤に穿たれた時間帯とでもいうべきだろう。この種の朝は熱っぽくも甘美な色彩と、夢の魔力とを奇蹟にように保ちつづけていて、特にその魔力のおかげで、特殊な雰囲気に包まれた、極彩色の、心もとろける魔法のような洞窟さながらに、私の追憶のなかでも別格の座を占めているのである。

マルセル・プルースト『サント゠ブーヴに反論する』、「ジェラール・ド・ネルヴァル」

 プルーストのこうしたことばは、青と薔薇色によって彩られたボードレールの散文詩において歌いだされた夢想の部屋を、ボードレールとは違うしかたで(すこし健康的に)語り直している気がする。

 芥川龍之介が『歯車』の中で、ボードレールの詩を擦り消し、その上から書き記したであろう一節では、夢想の快楽、幸福な憂鬱が、ほとんどたばこの煙ほどまでに希薄になり、かえって苦々しい不安が際立つようになっている。彼が不安から逃れたのは、テクスト上でも、テクスト内の時間でもほんのごく僅かな間でしかなかった。

 それは「避難」に違いなかった。僕はこのカッフェの薔薇色の壁に何か平和に近いものを感じ、一番奥のテエブルの前にやっと楽々と腰をおろした。そこには幸い僕の外に二、三人の客があるだけだった。僕は一杯のココアを啜り、ふだんのように巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行った。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だった。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろまた不安を感じ出した。
 ……それから……僕は巻煙草をふかしながら、こういう記憶から逃れるためにこのカッフェの中を眺めまわした。僕のここへ避難したのは五分もたたない前のことだった。しかしこのカッフェは短時間の間にすっかり容子を改めていた。就中僕を不快にしたのはマホガニイまがいの椅子やテエブルの少しもあたりの薔薇色の壁と調和を保っていないことだった。僕はもう一度人目に見えない苦しみの中に落ち込むのを恐れ、銀貨を一枚投げ出すが早いか、匆々このカッフェを出ようとした。

芥川龍之介『歯車』

 何かの論考で、ネルヴァルにおける青と薔薇色という色彩は、理想化された女性に対する崇拝とでも言うべき観念的なものを表象し、現実の女性に対する恋愛の感情は全く否定されている、と言われていた。しかし、おそらく重要なのは女性とか、恋愛の感情とかいったものではない。むしろ、同じ論考の中で言われていた「求めても求め得ない幻に結びついている」という点のほうが強調されるべきだと思う。青と薔薇色という夢想の色調は、醒めている私たちが目の当たりにする日常的、物質的な昼の世界に対する否定であり、夢の世界における非日常的で非物質的、そして幻想的な夜の世界への讃歌だ。そしてそれは、「ここ」からの逃走としての旅を賛美するものでもあるはず。


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