春、
弔いをする為のまとめ。 向き合ってきてた日々とこれから。
ふと。
記録
昔からの癖なのだけど、「この人は私のこういう側面が好きなんだな」とか「この人は私のこういう側面を求めているんだな」感じると、それ意外の不都合な側面は出さないようにする癖がある。 その人が望んでる私でいようとする。 嫌われたくないんだろうな。 一緒にいたいんだろうな。 だから、違う側面は違う人が受け取ってくれたらいいや、なんてずっと考えてる。 長く時間を過ごすとそれは難しいけれど。 でもこの人には甘えたいな〜とかそういう受け止めて欲しい欲がでると中々うまくいかんもんだ
本当に身体の調子が整った時に気付くけど、気持ちが落ちてるのも頭がまわらないことに焦り続けてるのも体調が悪いからなんだよな。 気付けずに自己嫌悪、自責ばかりして、 自責はあかんと思って解決のために頭まわそうとして、まわらなくて焦る。 みないな繰り返しなんどやるねん。 焦るな、効果的に最善で休め!!! 一年ちょい前と何も変わってないぞー。
向き合うのはかなり痛みを伴うことがあって。 目の前で誰かと向き合うことから逃げている人に、その人から逃げてませんか?と伝えたけれど、全くもって自分に返ってくることだった。 避けられるのは結構寂しいものですよ、と伝えるつもりだったけれど、本当に自分に必要なことを他人に口にしていた。 自問自答が苦しい。自分と繋がれない。 誰にも伝えられる言葉がない。 言葉を探すべきか、絵でも描こうかな。 あぁ、こういう時こそ詩を読むべきだ。 約束してるそれらがやりたいことではない気がして
光が差した時の、自分の陰を凝視しすぎてしまい元気がなくなった。翳ることばかりを選び自分で落ちていく。 (元気がなくなることはしたくないね。) 光が放たれるところと反射するところ。 どちらも併せ持っているから。 翳った時は綺麗な水面になることに意識を向けるんだ。そしたらまたその光と共に満ちていくから。 届けられるまで。届けるなども考える必要はない。 放たれる、ということの方が大切に思えるから。 欠けていくことも引いていくこともない、松明があって、満ちていけばあふれる。
質量にやられて、髪の毛を通した瞳の透過性を忘れていた。
カラオケで、"愛されたいならそういおうぜ〜"と米津玄師のLOSERが歌われた後、「愛されたいならそういえばいいのに」と言われ何も言えずチーン。 何度でも過去の涙でなく今の涙として出てくるが、悲しかったから泣いてるのではなく、寂しいから泣いているんだよな。 それは愛されてたし、愛していたからこそで。 会えないってことが寂しい。 別に泣き止む必要もなく思ってるからずっと泣いているんだけど。人はいつか別れがくるって受け入れてはいるから、しょうがないことだったとも思ってる。 い
とても疲れたので、人の光がみたい。 私に向けられてなくていいから、ただ光ってるところがみたいな。
己の鈍感さと敏感さの領域の区分けがしたい〜〜。
生きているということの価値を自分自身があまり持てていない。大問題過ぎる。 見ていたいな、知りたいなくらいしかなく、全く持ってそれだけでいいとも思っているのだけれど、弱い。生きることへの執着として。 いや、弱くもないのかな。 他人への思いやりとして弱いだけかもしれない。 自分自身の生きることや死ぬことへの執着みたいなものは持てば持つほど苦行担っていくと思うから、別にそれは持たなくていいや。 あんなに辛い想いさせるの可哀想だから死なないでおこうか、ぐらいの思いやりはある。
針の穴に糸を通すような、ポジティブさを手に入れたいね。
生産をないものにする。無に還元する。 受け取らないのと、無いものとするのは違うからね。 "受け取らない"は"ある"と認識してる上の話。 当たり前にある習慣を、なくす。 例えば、3食のご飯のうち1食をない生活で送る。 豊かにしていたかもしれない3食生活から1食をなくす。 ないものとして扱ったものは不可逆。 死んだら終わり。 筋とすると、1回なしにしたら、ないんだよ。 だから"ある"ということは、丁寧に扱わないといけない。
不安ですストレスですって簡単に使うけど、 プレッシャーです。ってあまり自分の中でしっくり持ってなくて、プレッシャーについて考えてたら、うーんなんか似てる単語知ってるなー、あ、プレシャスだ!!!ってなってから、 気持ちもひっくり返えってハイになってる。
一昨日、些細なきっかけでパニック発作になってからまた体調がよろしくない。電車とか地下とかずっと室内にいるのも苦手。焦燥感で上手く寝れない。 1ヶ月で弔いは甘く見積もり過ぎたかな。 そんな状態で「お別れするのが怖いな」と考えだしたら吐き気が止まらなくて1人でくたばってた。 この弔いだって終わらせる為にやってんだ。 終わらせたくない気持ちと同じくらい、もう終わらせたいんだよな。 筋道が見えてたはずなのに、苦しくて発狂しそうになるけど、弔うということが全て。 自分の中で墓地を
今日は練習行って、携帯買って、父ちゃんの実家行って、インドカレー食べた。 どこを歩いても思い返すことや思い馳せる人が浮かんでしまって、走馬灯みてるみたい。あれもこれも、今になるまでに繫がってないような、不思議。 全部自分の人生だったなんて嘘みたい。関わってきた人達の人生だったなんて。触れたところからなだれ込んでくる様な、私とは直接は関係のない繊細な物語。 まだこの町の公園では少年たちが遊んでる。 なんで生きてるんだろうとかすぐ考えちゃうけど、生きているただそれだけのこと
聡明さにずっと憧れてる。
本質的な所でつまづくのは、本質的なことがわからないから。 解る、ということを3ステップにしたとして。 1.問題だろうというのはわかる。 2.どこが/どういう(5w1h)問題なのかもわかった。 3.どうすれば問題解決出来るのかがわかる。 多分、1を見つけるのは出来るんだと思う。 でも、その先が分からない。 私は分からない人なんだ! (から、答えに辿りつけない) ならば、人に頼ろう。聞いてみよう!自分じゃどうにもならないなら、他力本願になってもいいと思ってる。 (だいぶ初手