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ナポレオンとクラシック音楽(11): ナポレオンの妹たちに愛されたニコロ・パガニーニ

19世紀初頭の欧州において、大陸の大部分を支配下においた覇者ナポレオンとクラシック音楽の関係を徒然なるままにここ数か月、書き連ねて来ました。今回で11回目。

ハイドン、ベートーヴェン、シューベルトといった同時代の大作曲家などを取り上げてきましたが、ナポレオンが好んだというイタリアオペラの作曲家は、御用作曲家となったパエールのことを少しばかり言及したにすぎません。

パエールはパガニーニとリストの作曲の師匠でもありますが、今日では忘れ去られた作曲家。

後にロッシーニ旋風がヨーロッパの歌劇場を駆け巡るまでは当時最大の人気作曲家の一人でした。一昔前のモーツァルトのライヴァルだったアントーニオ・サリエリのようですね。栄枯盛衰。

ドイツ音楽=クラシック音楽と見做す、圧倒的な数の日本のクラシック愛好家は、イタリア音楽をしばしば軽視しがちです。長年クラシック音楽を聴き続けてきたわたしも、ある時期まで同様でした。

ロッシーニやパガニーニといったイタリア人音楽家もまた、皇帝ナポレオンの同時代人ですが、一般にクラシック音楽に深い思い入れを持つ愛好家は、見せ物的な興行で欧州音楽界を制覇したパガニーニを高くは評価しないのです。

不世出の音楽家パガニーニ

代表曲のヴァイオリン超絶技巧のオンパレードである24の奇想曲カプリースと、JSバッハの無伴奏ヴァイオリン組曲とソナタを比べて、パガニーニの精神性の無さを上げ連ねるような愛好家も少なくありません。

しかしながら、19世紀前半においてはバッハは知る人ぞ知る過去の音楽家でした。パガニーニの欧州旅行における演奏会の一つに接した若きフランツ・リストは、パガニーニの超絶技巧をピアノにおいて再現して「ピアノのパガニーニ」になると心に決め、ピアノ音楽の世界に革命を引き起こしたのは、パガニーニの音楽の偉大さゆえ。

若いシューマンもパガニーニに魅了された1人でした。

十九世紀前半のピアノ曲の中で最も技巧的に難しいとされるシューマンの交響的練習曲作品13はパガニーニへのオマージュでしょう。

代表作のピアノ小品集「謝肉祭」作品9には、「パガニーニ」と題された一曲が含まれています。パガニーニの超絶技巧を模倣した、高速の音符だらけの音楽です。

パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番のフィナーレを、リストが超絶技巧練習曲に仕立てた「ラ・カンパネッラ」は、まさに若き日の言葉の有言実行、ピアノで奏でる超絶技巧のパガニーニそのものです。

ですが、パガニーニの原曲の深みがリスト編曲版からは失われていると思うのはわたしだけなのでしょうか。

パガニーニのカンタービレ

パガニーニといえば超絶技巧の代名詞。

あまりに凄いので、「悪魔のヴァイオリン」と誰もが呼び囃すようになり、悪魔に魂を売ってあの超絶技巧を手にしたとさえ噂されました。

実際のところ、どうもピアニストのラフマニノフ同様に「先端巨大症」という、手や指が極端に長くなるという体質だったらしいのです。

指が伸びたり、普通の人では絶対に物理的に不可能な運指をした、という証言の正しさを裏付ける科学的根拠になり得る説得力のある推察ですね(第一ポジションのまま、第三ポジションの音まで出すことができたとか。普通は届きません)。

墓でも暴いて遺骨を医学的に調査しないかぎり証明できないことなのですが、パガニーニの演奏は、まさに生きながらに伝説なのでした。

類まれなる超絶技巧を実際に目で見ることは快感でもあります。サーカスの妙技を見る喜びですね。

現代にはパガニーニの遺した楽譜を弾きこなす凄い名手も幾人かはいるのですが(イタリアの名ヴァイオリニストであるアッカルドやウーギの演奏は驚嘆ものです)、実際にパガニーニが先天的に先端巨大症ならば、パガニーニの妙技は、アッカルドやウーギを超えるもの。現代の誰にも真似のできないものだったであろうという推論にも納得です。

映像が残されていればなあというのは、叶うことのない望蜀の嘆。

しかしながら、パガニーニの音楽の本当の魅力とは、イタリア音楽らしさ全開の「歌、歌、歌」。

オペラ歌手が超高音の長い音符を朗々と歌い上げるような、カンタービレな歌。

リストと同じくパガニーニの実演を聴く機会を持った大作曲家フランツ・シューベルトは、独創的な超絶技巧よりもパガニーニのヴァイオリンに溢れる歌心に心打たれたのでした

わたしもシューベルトのように、パガニーニの歌に魅了された一人です。

細かい音符を超高速に弾くなど、技巧的に過ぎると嫌味に思えますが、超高音の長い音符で歌い継がれるカントはイタリアオペラの名歌手の世界そのもの。

こちらがオリジナルのヴァイオリン版の「ラ・カンパネッラ (イタリア語で鐘)」。

フィナーレの第三楽章(22:45)から始まります。

オリジナルを聴くと、なぜこの曲が「鐘」と呼ばれるのが分かります。バックで鳴り続ける鐘の音に耳を傾けて下さい。

リストのピアノ協奏曲第一番のフィナーレは打楽器のトライアングルがソロ楽器として扱われますが、パガニーニでは、鐘の音が終始鳴り響きます。リストはパガニーニを模倣したのです。

オリジナルはリスト版では聴かれない歌に溢れていることがわかりますよね。打楽器のピアノでしょせん擦弦楽器のヴァイオリンの音を模倣することは不可能なのです。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をピアノで弾くと陳腐に響くようなもの。

パガニーニのオリジナルは、歌うヴァイオリンと打楽器の鐘の音の組み合わせが素晴らしいのです。

歌うパガニーニの魅力に取り憑かれると、いつまでも聴いていたいと思えるものです。

特に重音を用いて奏でられる高音域の歌の魅力は筆舌に尽くし難い (この重音奏法もまた、超絶技巧の一種で、誰にでも弾けるものではありません。複数の弦を鳴らし続けて独りで分厚い和声の音でメロディーを鳴らし続けるのです)。

中間部の超高音のカンタービレに痺れます(ピアノ版には含まれていない部分)。

パガニーニの遺した音楽の中で、わたしが大好きなのは、最も有名な奇想曲カプリース作品1ではなく、ヴァイオリン協奏曲第一番ニ長調です (ラ・カンパネッラは第二番協奏曲ロ短調のフィナーレです)。

第一番協奏曲は、常人離れした技巧の果てよりパガニーニの歌の魅力が滴り落ちてくるような名作。

バッハやベートーヴェン、ブラームスのように、テーマを展開して音楽の深みをひたすら求めてゆく音楽ではなく、ひたすらヴァイオリンの美音を極めてゆき、いつまでも奏で続けるのが、パガニーニ。

常人には奏でられぬ超絶技巧な部分と、とろけるように甘いカンタービレが、交互に現れるのです。

時折、特殊奏法による不思議な音が聞こえてきますが、ヴァイオリンを弾かないわたしには、超絶的な技法から奏でられる音色は、音楽表現そのものであると思えます。

技巧的な曲を技巧的に聞こえさせない、ということができて初めて、パガニーニの本当の音楽的魅力が伝えられるのでは。

パガニーニを模倣したフランツ・リストのピアノもまた同じ。

超絶技巧とは、弾くための目的ではなく、今まで誰も奏でなかった音楽を響かせるための手段でしかないのです。超絶技巧を弾けるようになることは、新しい音楽表現のための第一歩でしかなく、その技法を通じてどんな音楽表現をするかに全てがあります。

ただ上手にヴァイオリンなりピアノを弾くだけでは、サーカス芸に過ぎません(視覚的な曲芸は音楽の本質ではないと思います)。

パガニーニがヴァイオリン一挺で欧州を征服できたのは、超絶技巧によるサーカス芸ではなく、超絶技巧によって支えられた、彼以外には誰にも奏でることがイタリアの歌のため。わたしはそう思います。

武略において欧州を征服したフランス皇帝ナポレオンはフランス領のコルシカ島の出身ですが、実はナポレオンの家系はイタリア系。

コルシカ島は、十三世紀からナポレオンの生まれた1769年まで、実はイタリア領 (ジェノヴァ共和国領)。

父親シャルル (1746-1785) は、ジェノヴァの由緒あるイタリア貴族の家系に繋がる者。母のレティツィア (1750-1836) も同じ。コルシカ島とはフランスではなく、イタリア文化が支配的な土地だったのです。

そしてパガニーニもまたジェノヴァ共和国の首都ジェノヴァ生まれ。

パガニーニとナポレオンをつなぐものとは、イタリアの歌なのです。

イタリア出身のナポレオン家

上述のように、日本の音楽愛好家からはあまり好まれないパガニーニですが、音楽和声の発達に寄与することで近代音楽を主導したというドイツ音楽史観を尊重する世界では、パガニーニは注目を浴びません。

パガニーニは数々のヴァイオリンの特殊奏法を改良発明したために、ヴァイオリン音楽を語る上で欠かせないというのに。

天才ヴィヴァルディがバッハほどには評価されないように、パガニーニはベートーヴェンと同等には語られないのです。ベートーヴェンが革命家なのは和声法を改革したがためです。ヴァイオリン演奏の改革では音楽史的にはいまいちなのですね。

面白いのは、1782年生まれのパガニーニが欧州をヴァイオリンにおいて制覇したと言われるコンサートツアーに出たのは1828年のことで、その頃のパガニーニの年齢はなんと45歳なのでした。

45歳とはモーツァルトもシューベルトもメンデルスゾーンもショパンも他界していた年齢。その頃のパガニーニは、若い頃に感染した梅毒の治療のために施された水銀療法の後遺症のために病魔に侵されていました。

本来ならば、当時においては、もう老後の人生をのんびりと生きる頃。

ですが、音楽家としてのキャリアの晩年に当たる時期に、祖国を離れて六年にも及ぶことになる演奏旅行へと旅立つのでした。

数ヶ月前にベートーヴェン (1770-1827) が病没したウィーンにて、同じく病魔に侵されていたフランツ・シューベルト (1797-1828) が聴いた1828年のウィーン、パリへ旅立つ前の若きフレデリック・ショパン (1810-1849) と邂逅したワルシャワ、そしてローベルト・シューマン (1810-1856) のハンブルクや、フランツ・リスト (1811-1886) のいたパリなどを巡って、演奏するという行為のみにおいて、パガニーニは巨万の富を稼ぎだしたのでした。

長い旅の終わりにイギリスのロンドンへ行き、心身ともに疲れ果てて、何十もの英国での公演の後に、演奏活動より引退。ロンドンでの数多くの公演では現在の金銭価値で総額数億円の利益を上げたそうだとか。

病魔による不気味な相貌をたたえる、黒尽くめの燕尾服の満身創痍のパガニーニは、聴衆に悪魔のようだと呼ばれたことを利用して、悪魔のヴァイオリンというキャッチフレーズで欧州中の観衆を魅了したのです。

ですので、音楽のわかる観客ばかりではなく、怖いもの見たさの大衆にサーカスまがいの超絶技巧と、「歌曲王」シューベルトさえも魅了した、誰にも奏でることのできない超高音の「天使の歌」の両刀使いで観衆を圧倒したのです。

このような形で大衆を惹きつけた音楽家はパガニーニ以前には誰もいなかったのです(このパガニーニを模倣してパガニーニに匹敵する人気をかっさらったのが若き日の天才ピアニストのフランツ・リストでした)。

2014年に超絶技巧ヴァイオリニストのディヴィット・ギャレットがパガニーニ役を演じたパガニーニの伝記映画「悪魔のヴァイオリニスト」が作られました。

内容は史実には程遠い作品ですが、ロンドンにおけるパガニーニフィーバーの様子は、なかなか見事に再現されています。視覚的にあの情景を見ることができるのは良いので、一度は見る価値がある映画ですよ。

20世紀の薬物中毒でやせこけて不健康に見えて仕方のないロックミュージシャンの先駆でしょうか。

わたしはこの映画を好みませんが、映画にはパガニーニが溺愛した一人息子のアキレス(アキレーまたはアキレウス、トロイ戦争の英雄の名です)が登場します。

1825年、42歳において、自分の晩年と考えていた時期に得ることのできた一粒種の男の子。

母親はひどい女性で結婚はしなかったのですが、幼いアキレスを一人で育てることを生き甲斐とした病弱な父親は、愛する息子に財産を残してやりたいという想いから、アルプスを超えて前人未到のコンサートツアーへと旅立つのです。もちろん幼いアキレスを傍らに連れて。

何度も書いているように、パガニーニ以前には演奏活動において欧州を席巻したような音楽家は存在しませんでした。

ロッシーニはオペラ作品で欧州の劇場を毎夜満員にして、かのベートーヴェンをも羨ましがらせました。

モーツァルトは予約演奏会という前払い式の演奏会で人気を得ましたが、パガニーニは貴族ではない、一般大衆に「悪魔のヴァイオリン」というキャッチフレーズを持ってチケットを買わせたのです。

そして、そうした前代未聞の興行を打ち出したのも、どうやら息子アキレスのためではないのかということをこの書において学びました。

パガニーニの音楽の社会的影響を論じた、一般向けの素晴らしい読書です。音楽的な分析はほとんどないので、クラシック音楽の知識があまりなくても、どなたにでも理解されるのでは。

商売道具のヴァイオリンをギャンブルの掛け金にするような、破綻した性格の賭博師だったため、もっとお金が欲しかったとか、そんなありふれた説明よりも、息子アキレスのために老い先短い父親がヴァイオリンコンサートツアーをあえて行ったのでは、という推論にわたしは心を打たれました。

子供の頃のアキリー (アキレス)

晩年のパガニーニは、次第に悪化してゆく梅毒の進行を遅らせようと水銀治療に取り組み、お陰で歯槽膿漏を引き起こして下の歯全部を失い、食物を咀嚼することが難しくなって痩せ細り、その肉体は醜く変貌して悪魔のようにも見えたのだそうです。

悪魔に見えるような恐ろし気な姿だったのは病魔ゆえのこと。

やがては声も失ってしまうほどに、いつだって病に侵されていた彼に寄り添っていたのが、十代になっていた最愛の息子のアキレス。

史実には忠実ではない、上記の映画においても、愛らしいアキレスはきちんと登場します。

わたしはパガニーニの息子のアキレスの存在を知り、悪魔的な外見を売りにして巨万の富を得て、カトリック教会より嫌われて、死後に墓地への埋葬を拒否されたパガニーニに急に共感できるようになったのです。

上記の新書本、世界でも数少ないパガニーニの生涯を描いた優れた評伝です。

ヨーロッパを制覇した二人、ナポレオンとパガニーニ

なかなかナポレオンが出てきませんが、超絶技巧を売り出した世界旅行以前のパガニーニは、常にイタリア国内に暮らしていました(イタリア半島の統一はパガニーニの死後ですが、便宜上、イタリアと呼びます)。

パガニーニは祖国イタリア以外の地にさえもその名が知られるようになっても、なかなか外国へと足を運ぶことはなかったのですが、その原因の一因こそがナポレオン一族なのです。

ナポレオン家は非常にイタリアと馴染み深いのです。

フランス皇帝ナポレオン (1769-1821) の両親はコルシカ島イタリア貴族の出身。イタリアにより支配されていた (より正確にはジェノヴァ領、当時はまだ近代国家の統一イタリア国は存在しませんでした) コルシカ島で大きな力を持っていた家出身だったがゆえに、ナポレオンは幼くしてフランス本土の兵学校にも行けたのでした。

でもフランスにおいてはナポレオンは僻地のコルシカ島出身の田舎者。ナポレオンがこの劣等感をバネにして軍隊を這い上がったことはよく知られていますね。

やがてはフランス語もろくに喋れないイタリア系コルシカ島の男がフランス皇帝にまで上り詰めるのです。

というわけで、フランス軍を指揮していたナポレオンがイタリア本国を占拠すると、故郷の地を得たように喜んだそうです。皇帝となった折にはイタリア各国に (イタリアは数多くの小さな国家の集まりでした) 自分の兄弟を支配者として配したのでした。長兄のジョセフをナポリ王にして(後にスペイン王)。妹のポーリーヌ (1780-1825) にもイタリア貴族の侯爵を娶せたり。

ナポレオン帝国とは血縁王国で、ナポレオンは自身の親族を欧州各地の支配者に据えたのでした(でも残念ながら有能な者は少なかったのです。兄妹の中で唯一有能だったリュシアンは、ナポレオンに意見したために遠ざけられて、王侯にさせてはもらえませんでした)。

パガニーニがナポレオンと深い結びつきを持つ作曲家なるのは、このイタリア関りのため。

エリザ・ボナパルト

イタリアを支配するようになった第一執政ナポレオンは、何人もいる妹の中の一番年上のエルザ (1777-1820) を、十六世紀のメディチ家の頃より続いていたトスカーナ公国の領主とします。ボナパルト家の一員がメディチのコジモ一世やハプスブルクのレオポルト二世(トスカーナ大公としては一世)と同じ君主になったのです。なんという時代なのでしょう。

器量の点では、絶世の美女として知られた妹のポーリーヌに相当劣ったそうですが、その分、文化など知性により関心を持っていたようです。

ですので、当時、彼女の領地内で恋人と自由気ままに暮らしていた天才演奏家として知られていたパガニーニを、なんと彼女の宮廷に高給で雇い入れるのです。

パガニーニは宮廷音楽家だった時期があるのです。わたしもつい最近まで知らぬことでした。

宮廷音楽家となる以前は、ギターを弾く女性と一緒に音楽を奏でて、農地経営などを行いながら田舎で暮らしていたのだとか。

二十代の若いパガニーニの作品として、ヴァイオリンとギターのデュエットが知られていますが、後年の超絶技巧とはあまり縁のない、幸福感溢れて牧歌的な本当に美しい作品群。

まさにイタリア風セレナーデそのものといった趣きで、ヴィヴァルディのヴァイオリン音楽が好きな方など好まれるはずです。

さて、エリザ大公に召されたパガニーニは数年ほど宮廷に留まり、彼女のためにオーケストラを指揮したり独奏ヴァイオリンの妙技を聴かせたりしたのですが、そうした暮らしの中で、ある素晴らしい作品が作曲されました。

その名も「ナポレオン・ソナタ Sonata Napoleone」。

後年のカプリースや超絶技巧のオンパレードである協奏曲ほどには頻繁に演奏されませんが、歌うパガニーニの魅力のたっぷり詰まった名品です。

エルザ・トスカーナ大公の宮廷の拘束より自由になったパガニーニは、その後フリーランスとなり、エルザの妹(つまりナポレオンの妹)のポーリーヌと浮き名を流したりもしますが(事実でしょうか?)、音楽にさほどの興味を持たなかったナポレオン皇帝自身とは接点はありませんでした。

1815年、ナポレオンはワーテルローにおいて敗退してヨーロッパを去ります。その頃よりパガニーニはイタリア半島を放浪する演奏家となり、やがて放浪の自堕落な音楽家はある女性に子供を産ませて、思いもかけずに人生を大きく変えるのです。

世界制覇の旅

この時点でパガニーニはそのまま死んでも不思議でないほどに40歳過ぎにして老い衰えていたのに、起死回生の欧州制覇の演奏旅行に赴くのです。

なぜなのか?

わたしは上記のように、溺愛した息子のためであるとしか思えないのです。

シューベルトが「天使の歌」と表現した最美のカンタービレは、誰かを心の底から愛するような人でないと奏でられないものと私には思えます。

「悪魔」のヴァイオリン奏者として一世を風靡したパガニーニの音楽を、わたしは悪魔的であると思ったことはありません。

「悪魔」と呼ばれたのは、または呼ばせたのは、興行のため。

音楽を知らぬ人に音楽を聞かせるには、ストーリーを売り込むことが一番なのです。

  • 盲目の音楽家、

  • 忘れ去られた音楽家が蘇る、

  • 3歳で音楽を大人のように奏でた神童、

  • 右手がマヒした左手だけのピアニスト、

  • 身体的障害を持つにもかかわらず、常人以上の演奏家

などなど、こうした物語を大衆は消費することが大好きです。

こうした謳い文句があってこそ、人々は興味を持つ。

そんなストーリーを持った音楽を世界で最初に売り出して商業的に成功した音楽家がパガニーニなのでした(神童モーツァルトもまた、父親レオポルトが作り出した「神童」というストーリーにあやかってヨーロッパ中を旅しましたが、モーツァルト当時の聴衆のほとんどは王侯貴族で、数が限られていました)。

やがては、パガニーニはヴァイオリン一挺でヨーロッパを征服してナポレオンと同じくらいに有名だと言われるようになります。当時のヨーロッパでパガニーニを知らぬ者はいなかったとか。

ナポレオン並みに有名な音楽家!

晩年の死神のような容貌のパガニーニは、このように生きながらにして伝説となり、最愛の15歳の息子アキレスに看取られながら、1840年に息を引き取るのです。

パガニーニの物語ストーリー

パガニーニの死後、誰もパガニーニの成し遂げた前人未到の音楽的業績を忘れることはありませんでした。

チェルニー、リスト、ショパン、シューマンなど、パガニーニの実演に接した音楽家は、彼らの作曲の中にパガニーニの舞台における驚嘆すべき記憶を永遠に刻み込み、のちの世代のブラームスやラフマニノフやルトスワフスキやロイド=ウェッバーもまた、パガニーニを記念する作曲を書き上げるのです。

パガニーニほどに大きな影響を後世に残した作曲家は (変奏曲の主題の提供者として) ほとんどいない。伝説として、死後においてもこれほどに語り継がれた音楽家もいない。死後半世紀後のシャーロック・ホームズのお話に登場したりするほど。

パガニーニにはストーリーがある。

パガニーニとワルシャワで対面したショパンにも、

愛する祖国ポーランドを離れて、二度と帰ることのできなかった

というストーリーがあります。史実ではないと言われながらも、革命のエチュードを聞くたびに、愛国者ショパンというストーリーが再現されるのです。

ではパガニーニのストーリーは?

黒尽くめの衣装を着た、暗い不気味な相貌の「悪魔に魂を売って得た」超絶技巧のヴァイオリン演奏家、

これが一般的なストーリー。

でもわたしはこれを、

病身に鞭打って、幼い息子のために、ヴァイオリン片手に、ヨーロッパ中を駆け巡り、最後には燃え尽きた男、

という真実に書き換えたいですね。

父親である私はパガニーニの後半生にひどく共感します。

パガニーニの音楽は長調主体

さて、パガニーニの超絶技巧は視覚的には凄いものだけれども、楽器より醸し出される音楽は、長調主体な意外に楽しく明るいものが多いのです。

今こうして聴くと、どこが悪魔的なのかな、とわたしは思わずにはいられないほどに、とても楽天的で楽しい音楽ばかり。

私が特に愛聴する、代表作の「ヴァイオリン協奏曲第一番」は何度聴いても楽しくなる音楽です。

この曲を引っ提げて、ヨーロッパ中を駆け巡ったのです。パガニーニには協奏曲が6曲ありますが、やはり第一番が音楽的に最も優れているのでは。全六曲、どれも全く同工異曲な音楽なのですから。

そして自分以外が無断でこの曲を演奏することがないように、楽譜をオーケストラ団員にも渡さず、演奏直前にだけ見せて、演奏会終了後は全ての楽譜を回収したのです。

オーケストラ団員が練習しなくても初見でも弾けるように、管弦楽パートは極めて単純に書かれていて、協奏曲はパガニーニのヴァイオリンのワンマンショーのための音楽なのでした。

いつだって酷評される、音符の少ないショパンのピアノ協奏曲のオーケストラパートのようですが、ソロイストを際立たせるショパン型協奏曲はパガニーニによる発明ともいえるかもしれません。

ショパンが自身の協奏曲を書くにあたってモデルにしたフンメルもまた、パガニーニに影響を受けたらしいのですから。

パガニーニの作品の多くが出版されたのは作曲家死後のこと。

最晩年に病の床に就いたパガニーニはそれまで楽譜上に書き記さなかった、自身の協奏曲のソロパートを譜面の上に書き記したことで後世へと彼の音楽を伝えたのでした。

きっと息子アキレスに出版時の印税が振り込まれるように。

天使の歌

31歳という若さで梅毒に脳を侵されて早世したシューベルトが死の数ヶ月前に聴いたパガニーニのヴァイオリンを「天使の歌」と表現したのは、まさにパガニーニの本質を突いた言葉であるとわたしは思います。

わたしは「パガニーニ」と聞くと、あの超高音域の不思議な音色のヴァイオリンの歌を思い起こします。超絶技巧な超高速パッセージは、あの天使の歌を引き立たせるための演出だったのでは。わたしはそう思うのです。

ライン川に身を投げて精神病院へと閉じ込められて、不遇の死を迎えた大作曲家のローベルト・シューマンは、「天使の歌」を聞いたとかなんとかを絶えず精神病院で語っていたそうです。

もしかしたら、「天使の歌」とは、若き日に聴き惚れたパガニーニの奏でるヴァイオリンのだったのかもしれません。

Viva Nicolò Paganini!

ドラクロワ作「パガニーニの肖像」
1832年製作

次の投稿でパガニーニの主題による変奏曲の数々を語ります。


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