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ナポレオンとクラシック音楽(9): ナポレオンの御用作曲家と冬の旅

ナポレオンの御用画家といえば、ジャック=ルイ・ダヴィッド (1748-1825)。

ルーブル美術館に収められている、実際には騎乗ではなかったのに白馬に跨るナポレオンの雄姿を描いたアルプス超え(実際には騾馬らばに乗っていたと言われています)や、皇后となるジョゼフィーヌに冠を自ら授ける姿を描いた戴冠式の絵画は、時代を代表する名画として誰もが知るところです。すべて理想化された英雄の肖像ばかり。

しかしながら、フランス皇帝ナポレオンに自分の望む音楽を書かせるための作曲家がいたとは、ダヴィッドほどには知られていません。

ナポレオンの好んだ音楽

ナポレオンは正規の音楽教育とは無縁で、兵学校時代に音楽を学んでいたとは伝えられていません。彼の音楽的教養は、彼の時代の普通の庶民レヴェル。そして彼の時代に大衆的な人気を最も誇った音楽といえば、イタリアオペラ。音楽的嗜好は音楽的教養に左右されるものです。楽器演奏経験や歌唱レッスン経験があるとないとでは、聴くことのできる音楽の幅が圧倒的に変わってしまうのです。それほどに音楽教育の力はその後の音楽的好みを決定づけます。

ナポレオンが好んだのは、現代では完全に忘れ去られたイタリア人オペラ作曲家フェルディナンド・パエール (1771-1839) でした。生涯に五十を超えるオペラを書いたことで、十九世紀初頭の歌劇場に数多くのオペラ・ブッファ(喜劇オペラ) 、またはオペラ・セミセリア(オペラセリア的な深刻な内容を含んだ喜劇オペラ)を提供した作曲家ですが、現在ではほとんど忘れ去られた音楽家です。

ミラノの宮廷にポストを得て、のちにウィーンに移住。ウィーンにおいてベートーヴェンとの知己を得て、ナポレオンがドイツ侵攻してドレスデンに滞在した折には、フランス皇帝と会見(大文豪ゲーテとも同じころに会見)。

ナポレオンはパエールの代表作である「アキレウス Achille」を見たことがあり、皇帝に気に入られたパエールはその後、皇帝に従ってポーゼンやワルシャワなどを訪れて、パリにおいて、ガスパーレ・スポンティーニ (1774-1851) の後釜として、1807年に高給でフランス帝国宮廷作曲家として任命されるのです。

プルタークの英雄伝が大好きなナポレオンがトロイア戦争の英雄アキレウスを題材にしたオペラを好んだというのはありがちですね。

オペラセリアのイタリア人作曲家スポンティーニの作品もまた、現在においては滅多に上演されることはありませんが、ナポレオンはスポンティーニ作曲の征服者コルテスコンキスタドールを題材にした「フェルナン・コルテス」を気に入ったと伝えられています。

ナポレオンがパエールの音楽をどの程度まで理解していたかはよく伝えられていません。

スポンティーニの音楽は、不世出の歌姫マリア・カラスが「ヴェスタの巫女」を復活上演させたことで知られています。カラスにしか歌えないような超絶技巧の音楽です。

https://www.youtube.com/watch?v=_KRIfOmrP5E

1810年の婚礼音楽

帝国宮廷作曲家となったパエールが皇帝陛下のために作曲した音楽として重要なのは、後継者を求めるがためにジョゼフィーヌを離縁して、政略結婚的に無理矢理娶ったオーストリア皇女マリー・ルイーズとの結婚式のための行進曲。1810年4月に婚礼は行われました。

ルーブルにおける婚礼

フランス皇帝とオーストリア皇女の婚礼は、歴史に残るような立派なものでなくてはなりません。ですので、革命前の王侯が名のある作曲家に祝典序曲や歌劇を書かせたように、ナポレオンもまた、パエールに式典のための特別な音楽を書かせたのでした。

しかしながら、聴かれればお分かりのように、これといった特徴のない、普通の祝典音楽。

でもきっとナポレオンは、こんな普通の祝典音楽に満足したのでは。

自分を飾り立てるための音楽ならば、この程度で十分。

ナポレオンにとっての音楽とは、軍楽隊のラッパ以上のものではなかったのでは、とわたしは個人的に思うのです。

ベートーヴェンとパエール

それでもパエールは当時の人気作曲家の一人。かのベートーヴェンもパエールの作曲を高く評価しています。

一般的に、現代の音楽ファンには、ベートーヴェン唯一のオペラである「レオノーレ」(のちにフィデリオと改題) と同じ台本に作曲した作曲家としてだけ、パエールは知られています。

パエールの「レオノーレ」序曲はこのようなもの。1804年の作品。

ベートーヴェンは彼の生涯での唯一のオペラを完成させあぐねて、改変に次ぐ改変を重ねて、都合、オペラ序曲を四曲も作曲しています。台本探しに苦労して、ようやく見つけたレオノーレもまた、魔笛に似た救出劇。魔笛は王子さまがお姫様を救出する物語。でもレオノーレは女性で、囚われの夫を妻が救出するという筋書きがベートーヴェンの心を打ったのです。

ベートーヴェンが作曲人生全盛期に十年もの歳月を費やして作曲したオペラ「レオノーレ(フィデリオ)1804-1814」は力作ですが、オペラとしては破綻した成功作とはいいがたいもの。

でも音楽的には立派で、同時期の交響曲第四番、第五番、第六番に勝るとも劣らない大傑作です。四つある序曲はしばしば演奏会で単独で取り上げられます。囚人たちの合唱などは、わたしには「歓喜の歌(第九のフィナーレ)」と同じくらいに感動的な音楽です。

わたしは二つ目のレオノーレ序曲第二番を有名な第三番よりも好みます。荒削りで大胆な展開が素敵です。

パエールの「レオノーレ」をナポレオンは好んだのでしょうか。悪政のもとに自由を奪われた人々の自由のための音楽が「レオノーレ」。

おそらく聴いたことさえもなかったはず。戦争に明け暮れて、余暇は読書三昧だった多忙な戦争皇帝には、前時代のプロイセンのフリードリヒ大王やオーストリアのヨーゼフ2世といった啓蒙君主が音楽を教養として重んじたような啓蒙主義は無用の長物だったことでしょう。

皇帝は王侯貴族の好んだ、神や英雄を褒め称えるような物語が好きだったはず。庶民が主人公の物語には関心を払うこともなかったと思えます。

啓蒙主義を体現した啓蒙専制君主は、徳高い支配者による上からの改革を理想としましたが、啓蒙主義を否定した自由主義の擁護者ナポレオンは新しい文化を自ら生み出す存在ではなかったのです。

自由思想を欧州に広めたナポレオンは旧体制の文化の破壊者として、19世紀初頭の文化の発展を牽引したと言えるのでしょうか。でも好きだったオペラはやはり為政者のための音楽だったようです。

いずれにせよ、ナポレオンにとっての音楽は、文学や美術ほどには重要ではありませんでした。

シューベルティアーデ

音楽の世界は、フランス革命を境目として、変化したと言われています。

旧体制が瓦解して、音楽家は王侯貴族の宮廷に依存することはできなくなり、新興の市民たちが歌劇場のパトロンとなり、個人的な感情を表現する市民たちの音楽を作曲家は書くようになりますが、ナポレオン時代はそうした新しい時代への過渡期。

1789年 フランス大革命
1791年 モーツァルトの魔笛(12月モーツァルト死去)
1793年 ルイ16世、マリーアントワネット処刑
1796年 ナポレオン、アルプス越え(オーストリア軍相手に連戦連勝)
1804年 ナポレオン、フランス皇帝就任(ベートーヴェンの英雄交響曲)
1815年 ワーテルローの戦い(百日天下、セントヘレナへの流刑)、ナポレオン時代の終焉、反動政治のウィーン体制開始

ナポレオン没落以後、フランスは王政復古して、欧州は反動的制止の時代となり、政治的なメッセージを込めたような芸術作品は排斥され、言論の自由は弾圧されるのです。そして現実逃避的な、いわゆるビーダーマイヤー時代という、非政治的な小さな幸せを求める小市民的な文化の時代となるのです。

宿敵ナポレオンを葬り去ったオーストリア帝国は治安維持のために一切の自由を弾圧する警察国家化して、政治的集会を開くことはご法度となり、若者たちは政治的自由の失われた世界で、現実逃避に現を抜かすのです。

そんな時代の代表的作曲家が、1828年に死去したオーストリアのフランツ・シューベルト。1815年のナポレオン没落の後の時代に数多くの大傑作を作曲したのです。

反動体制の時代に流行したのは、ロッシーニやパエールのようなイタリア人作曲家による政治色の皆無なオペラブッファ(パエールはロッシーニ人気の前に凋落して引退します)。でもシューベルトはそんな人気オペラ作曲家たちに仲間入りすることは叶わず、内に籠る深い音楽を、売るあてもないまま、友人たちにばかり披露して、一人で書き続けたのでした。

憂さ晴らしのような現実逃避的な音楽を書いて、似たような志を持つ仲間たちと音楽の会を定期的に開きました。その会はシューベルティアーデと呼ばれましたが、政治的集会を禁止された時代には、そうした集まりは政府より疎まれました。

シューベルトの住んでいたのは、反動政治でナポレオン戦争後の世界に強い影響力を持ったオーストリア宰相メッテルニヒのお膝元のウィーンだったのですから。

第二次大戦で失われたグスタフ・クリムトの「シューベルティアーデ」。
行き場のない若者たちはこのように音楽の会を開いて憂さ晴らしをしていたのでした。

やがて、シューベルト自身は不注意にも罹患した梅毒の症状を悪化させてゆき、31年という、モーツァルトよりも短い生涯を終えるのです。

冬の旅

そんな彼が死の床で校訂していた音楽が、死後に最高傑作と称されることになる、歌曲集「冬の旅」。有名な菩提樹を含んだ、沈鬱な歌曲集です。

「冬の旅」の失意の旅人の歩みは、ナポレオン以後の反動時代の希望のない世界の象徴です。ピアノが淡々と刻み続ける、同じ音による四分音符の繰り返しは、旅人の歩みの描写です。

第五曲「菩提樹」はそんな暗い世界で、ほんの一瞬、過去の楽しかった時代を回想する音楽。でも中間部では突風が吹き抜けて行き、束の間の幸せに浸っていた若者を辛い現実へと引き戻すのです。

ただ雪の中をだんだんと歩んでゆく若者。最後の第24曲目には、歌曲中で初めて、自分以外の他人に出逢います。

道端に古びた手回しオルガンを奏でる老人。

余りにも哀れな老いた男に、主人公の青年は自分自身の未来を老人の中に見出します。または、そこに見たのは未来の自分自身姿なのかも。

ナポレオン戦争の後のウィーン体制下の世界では、そのような戦争からの生き残りの兵士が物乞いとして街角にどこにでも見られたそうです。第二次大戦後の昭和20年代の日本と全く同じ図式です。

歌曲集「冬の旅」は抽象的な歌詞ですので、普遍的な人生の物語であるとも解釈できますが、シューベルト、そして詩を書いたヴィルヘルム・ミュラーの念頭にあったのは、間違いなく傷痍軍人。

これこそがナポレオン戦争の疑いなき遺産であり、あの戦争の悲惨を音楽化した、最も胸を打つ表現こそが、このシューベルトの歌なのです。

権勢を極めた御用作曲家パエールはもはや忘れ去られ、戦争のために疲労した不景気の社会においては、音楽家として生計を立てることもままならならず、いつまでもうだつの上がらなかったシューベルトは、大作曲家として後世に知られることになるのです。

ナポレオンとクラシック音楽、その行き着くところは「冬の旅」なのです。

わたしには「冬の旅」は、現実的な暗い時代を反映した音楽なのだと心から思えるのです。シューベルトの描き出した、あの時代の真実です。

手回しオルガン実演

老人の奏でていた手回しオルガン (ハーディガーディ)はこういう音色の楽器です。是非お聴きください。復刻されて進化した手回しオルガンは楽器として素晴らしい。でもわたしに耳にはどうしても悲哀が付きまといます。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。