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余白は美しい


近くの美術館で思わず釘づけになった絵がありました。なんと大胆な構図。余白と言ったら失礼なのかもしれないけど、その何も描かれていない部分にすごく惹かれたのです。なんて美しいんだろう。


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横山大観 「隠棲」


余白のあるカラダ


トップアスリートの動きが美しいのは、カラダに余白があるからです。ただそれは、トップアスリートだから余白ができると考えがちです。トップアスリートだから余裕があり、脱力ができ、流れる動きになると。

でもそれは逆なんです。カラダに余白を作っておくから、彼らはトップアスリートになれた。余白を作っておくから上手くなれたし、速くなれた。


スポーツで、あれ、なんか上手くできちゃった。そういうことってありませんか。別に全力でも一生懸命でもなかったのに、上手くいっちゃった。で、よしもっと本気でやったらもっとよくなるはず。そう思ってやってみたら、あれれ。みたいな。

カラダは常に余白を求めています。だから意図せずそういう時がある。そして余白がある時、カラダは最高のパフォーマンスを発揮する。余白があると、さらに大きな余白を作ろうとカラダが変化する。そうやってカラダの構造を変化させ、上達の階段を登っていく。


全力や一生懸命という言葉を良しとして、私たちはカラダの余白を潰してしまう。全力でやる・一生懸命やる = 力を入れてやる。そして、それこそがいいと。そういう刷り込みがあるようです。

でも、全力でやる時、一生懸命やる時、カラダには余白がない。余白のない動きは硬くぎこちないものになります。それでも全力や一生懸命で一時的に成績がアップしたりする。でもそれは山を登っている時にダッシュするようなもの。少し先に行くことができても、それ以上は登ることができなくなってしまう。


ソーシャルディスタンス、スケジュールの余白。世界はまるで余白を求めているかのような動きです。だとすると、地球は美しい世界に向かっている。そう考えてもいいのかもしれないですね。



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