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第5話 スーパーマリオRPG

 差した傘にばたばたと雫が滴る。
 冷える掌をさすりながら、深夜の坂道を降り続ける。
 人は何故、あんな山の上に大学を建てたのだろうか。これを毎日登り降りするくらいならと引越し先をすぐ側の寮に決めたのだけれど。
 この山には大学と学生寮しか存在せず、学内のコンビニが利用出来ない時間に至っては、ちょっとしたものを買う為だけでもこの山を降って登らなければならない。

 結果として予測したストレスに対する対抗策としては不十分だった。このストレスに対抗するのであれば、別の大学への入学を検討するか、或いは山の上だけでの生活を覚悟する必要があるだろう。
 山の上だけでの生活。確かにやろうと思えば、寮と大学のみを行き来する生活も不可能ではない。
 しかしぶつぶつ文句を言いながらも、度々こうして山を降りたりする。閉じた世界の中だけで生活していると、正体の分からない不安が少しずつ堆積していき、それがある臨界点を超えると人は山を降りる。
 つまり関わりの無い他者から生きるための何かを麓で受け取っている、というくだらない仮説について考えた事がある。その話を聞いた先輩は、さも当然、といった顔で「まさしく」と頷いたのだった。

 右方向へ緩やかなカーブを描く、山道沿いの小さな歩道を進む。自分の息遣いと白い吐息が、冬の雨に混じって消える。何も無い世界にたった一つの道しるべが浮かびあがるように、街灯が道路に沿って曲がり下ってゆく。明かりの下に差し込む雨の雫の数を数えると、やはり雨脚は弱まりそうもない、と私は思った。

 こうして真夜中に意味もなく山を降りることで、ようやく心に楔が打たれたような気がした。この先の人生の中、今日をいつでも鮮明に思い返せるような予感がある。得体の知れないこの気持ちや、じっとりと濡れたアスファルトのことや、初めて見た先輩の表情のことを。だけど多分、何の為に私がこの山を降っているのかは忘れてしまうのだろう。何でそう思うのか分からない。ただ、そう感じただけの話。

 あるつづら折りのカーブに差し掛かったところで私は足を止めた。そして眼下に広がる街の景色をこの目に焼き付けようとした。深夜に至ってもぽつぽつと明かりが灯っていて、どこかで誰かが起きている事だけは根拠もなく確信を得た。今度は理由も無く顔を上げてみる。そこには白々とした街灯が地面に向けて首を垂れている他には、真っ黒な森と空が曖昧に混じり合っているばかりだった。当然だけれど、ここからでは大学も寮も望めない。寒さでかじかんだ鼻を一度啜ると、その音が妙に本物めいて聞こえ、何故だか少し恥ずかしく思った。
 あといくつかのつづら折りをやり過ごせば、もう山の麓。目指すコンビニエンスストアは、そこから二百メートル程歩いたところにある。
 目的地のことを思い浮かべながら、私は再び右足を前へ突き出した。
 
 
 嶋先輩がふたご座流星群を観測すると言い出したのは、今日が夕方に差し掛かった頃のことだった。
 私はぼんやりとテレビのニュースを眺めながら、天気予報についての情報を気だるげに考えたりしていた。お天気キャスターが「関東は天気が優れませんが、今夜はふたご座流星群です」などと言うものだから、何だか嫌な予感がしたのだ。今日はどうやら嶋先輩が自室に居るらしい。先程からよくわからない生活音が隣からどかどかと響き続けている。
 どうかこれを先輩が知らないまま、今日という日が終わりますようにと願った。あの人はまったく無秩序に人の領域に踏み込んでくるが、私にだって本心からそれを歓迎できない時もある。
 このところ姿が見えなくて私の生活は平穏だったのだが、今日は特に、間が悪い。隣から届く物音から私が予測する未来については、天気予報よりも当たる確率が高いように思う。
 リモコンを握ったままの左手が、だらりとソファから床へ垂れ下がっている。頬にあたるポリエステル地のソファカバーが、何かから私を守っているような気がする。
 「うらちゃん。うらちゃん」
 聞き慣れた声が室外から届くと、私は「さて」と考えた。あらゆる面倒事に対する心構えを始める。先輩と知り合ってもう一年余り、流石にこういった「面倒」にも慣れはじめていた。

 どうしてそんなに大きな音を発生させられるのかは分からないけど、けたたましく玄関を開け放った先輩は、どかどかと私の元までやってくる。始めのころはドアに鍵を掛けてその襲来をやり過ごそうと努力したものだが、うまくいった試しは無く、ある時からそれを開けっ放しにするようになった。どのみち自分で鍵を開けにいかなくてはならないのだとしたら、始めから開けたままにしておいた方がエネルギー効率の観点から言って合理的だと考えた。
 自堕落な姿勢でソファに横たわる私に対して、先輩が問いかける。
 「うらちゃん、何してるの?」
 私はテレビから目を逸らさずに、返答する。
 「テレビを見てます」
 なんだか芝居がかった素振りで先輩は一言「なるほど」と言い、次に私とテレビの間に割り込んだ。名前を知らない女子アナウンサーを見ていたはずの視界は、先輩の両足に遮られる。もう十二月だというのにまだ素足をさらけ出して生活をしているのかと、良く分からない感慨に耽った。仕方なく私は顔を上げ、Tシャツにホットパンツ姿のにやつく嶋先輩の両目を見つめた。室内灯に覆いかぶさるようにして私を覗き込んでいる。逆光になった金色の巻き毛が、神々しい輪郭を放って私を見下ろしていた。
 「何がしたいんですか?」
 「テレビを見てるうらちゃんを、テレビを見ていないうらちゃんに変換した」
 「何ですかそれ」
 「結果、テレビを見ていないうらちゃんはこっちを向いた」
 特に大した訳もなく先輩は嬉しそうだ。この人はいつも、大した訳もなく嬉しそうなのだ。私は先輩の両目から先輩の両足へと視線を戻した。
 「はい。それで何ですか?」
 先輩は横になっていた私をソファの端に押しのけると、空いたスペース座り込み私の肩を掴んで揺すり始めた。ずっと横になっていたから、血の巡りがおかしくなって頭痛がしそうだ。
 「うらちゃん、流星群だよ!」
 この人は本当に、何というか、意外そうで意外じゃないというか、意識のアルゴリズムに揺らぎが少ないというか。一年も一緒に居れば何もかもが手に取るように分かってしまうような気すらした。端的に言えば素直で、工夫がない。
 「今日はずっと雨らしいですけど│」
 「関係無いよ。予報は予報、予知じゃない。雨は降らないかもよ」
 ではさっきから窓に滴っているものは何なのだろうか。一時間も前から既に降っているように思えるけれど。既に予報は現実のものへとなりつつある。
 「屁理屈はいいから。さ、立った立った」
 「立ってどうするんですか。流星群は夜なんでしょう?」
 先輩に捕まれたままの私はその場に立たされてしまうが、すぐに元の姿勢に戻ろうと体の力を抜いた。しかし硬直した先輩の腕を振り払えず、結局はその場で不格好に立ち尽くしたままになった。意味も無く強い力で掴むものだから、怪物の掌に握りつぶされる直前の勇者のような気分だ。それに、痛い。
 「そういえばそうだね」
 しばしの後にそうつぶやくと、先輩はようやく私を解放した。考えるがままに体が動く先輩らしい。私だったら、絶対に起こりようがない間違いだ。開放された私はそのままソファへ倒れ込み、再びニュース番組へと意識を向ける。やるべき事を失った先輩はソファに腰を下ろすと、興味も無いであろうテレビを眺め始めた。

 私はふと、以前もこんな事があったような感覚、デジャヴュに似た強い何かをこの時感じた。先輩の両手から解放されて、ソファに再び腰を下ろす。先輩も自然と私に倣ってソファに座り、二人の意識は無意識にテレビのニュース番組へ向く。
 こんな事が、前にもあった。
 いや、デジャヴュって―
 きっと以前にも、全く同じような事があったのだ。だからどちらかと言えば、思い出せない記憶についての引っ掛かり、とした方が近いのかもしれない。ただ、だからと言って簡単に流してしまえる程に小さな衝撃では無かったとも感じる。何なのだろう。強い、郷愁?まるで何十年も前に一緒に遊んだ嶋先輩を思い返したような、不思議な感覚。

 ネットで話題の猫の動画について、ニュースキャスターが嬉々として何かを話しているのを耳にしながら、人間の意識は不思議だと私は思った。脈絡も因果も無い、こんな埒外の衝撃が突然降って湧いたりする。
 私達はたまにこうして何も話さず、ただ時間だけを意味もなく共有する事がある。お互い特別何かをする気は起こらないけれど、強いて離れる理由もないといった、何とも言えない時間。
 先輩と知り合ったばかりの頃にはこうした時間は無かったような気がする。私と先輩はそんなに仲が良いとは思えないけれど、一年を経ることで少しは関係にも変化があったのだろうか。でも、先輩とこうして並ぶのは何となく久しぶりのような気もした。郷愁に似た感覚を覚えたのはそれが理由だったのかもしれない。この人の私生活なんて全然知らないけれど、押しかけてくる日が続いたかと思えば、突然何日も不在になったりする人でもあった。最近は何をしてたのだろう、と疑問が湧くが、私はそれを飲み込んだ。
 「うらちゃん」
 「何ですか?」
 私は先輩が何の話を始めるのか、考えた。
 こんな時の先輩は、テレビのキャスターの化粧が濃いとか、猫がどうしてかわいいのかとか、そんな話をするに違いないと予測し、殆ど無意識に答えを用意し始める。
 「私が卒業したら、うらちゃんはどうする?」
 あんまり普通の抑揚だったので、思わず用意しておいた適当でない返事をしてしまいそうになった。
 卒業?
 私は視線を先輩に向け、硬直した。
 全く素っ頓狂だ。どうやら私は動転しているらしかった。
 ―どうするって?

 嶋先輩と知り合って一年余、私と先輩にはいくつかの暗黙の了解が存在していた。先輩がどう考えているのかは知る由もないが、少なくとも私にはあった。その一つは、「お互いの過去を詮索しない」。
 もう一つは、「未来の事を語らない」。

 いつからそんな暗黙が存在していたのかはもう分からない。多分、先輩も私も、どこかで似たところがあったのだろう、と今なら思える。語りたがらない何かが一致していたのだ。私は先輩の事なら何でも知っているけれど、出身はしらない。年齢もしらない。学科もしらない。暗黙は黙っているから成立する。解き放たれれば即座にそれは水泡に帰す。始めからそんな決まりなど無かったかのようになってしまう。そして今、正にこうして二人の間にあった暗黙が一つ消滅したような気がした。

 それを私はどう思うのか│
 良く分からない。
 視線を再びテレビへ向けると、私は適当な答えを探して返すことにした。
 「卒業したらって、どうもしないんじゃないですか」
 竹を割ったような性格の先輩にしては珍しく、私の言葉に対しやや嘲笑を含んだ笑みを寄越した。この時ふと、今日は何かが違う、と納得せざるを得ないような気がしてならなかった。
 「うらちゃん、私は知ってるよ」
 「何をです?」
 ニュースはスポーツコーナーへ切り替わり、去年渡米した日本人メジャーリーガーの活躍を報じている。いよいよ先輩も私も、テレビを見ながら何も見ていない状態へ変わりつつあった。ニュース番組が少しでも先輩の興味の引く話題を提供してさえくれれば、こんなに今を居心地悪く感じなかったのかもしれない。
 窓を叩く雨音は、一秒毎に強さを増しているようだ。

 流星群を見るんだったら、双眼鏡でもあった方が良いのかもしれない。
 「うん」と一声上げた先輩は、床に投げ出されたままのスーパーファミコンの電源を、身を乗り出してONへ切り替えた。慣れた手つきでテレビの入力を切り替えて、コントローラーを握ると再びソファへ倒れ込む。沈黙を埋めていたニュースキャスターの声が途絶えると、どうでもいいような気がしていたそれが急に恋しくなった。
 「そういえば、まだクリアしてなかった」
 見慣れた企業ロゴのアニメーションがテレビ画面に流れると、すぐにそれが何のゲームだったかを思い出す。
 
 任天堂とスクエアソフトのコラボレーションという、当時にしてみれば夢のようなタイトルだった「スーパーマリオRPG」。
 私は子供の頃に一度プレイしており、実家の妹から送られてきた事をきっかけに先日再びプレイした。嶋先輩も子供の頃にプレイ経験はあるらしいが、件のソフトを見つけると一時期は飛びついて離れなかった。
 先輩がこのゲームをプレイしているからこそ、彼女が流星群が見たいと言い出す予感がしたのだったと、どうでもいいことを私は思い出していた。
 「今、どこなんですか」
 先輩との間に現れた不和を打ち消すかのように、私はゲームについての質問をする。根拠は無いけれど、とても卑怯な事をしているような気分になって所在が無い。
 「ラストダンジョンの中だね」
 私は今しがたした質問がいかに馬鹿馬鹿しいものだったかを思い知る。そんな事は見ていれば瞭然だ。私は一体何がしたいのか、皆目見当すら付かない。
 そして先輩は流れるように、つつがなくラストダンジョンの攻略を始めた。周囲の景色から分かる限りダンジョンはすでに後半に差し掛かっており、このままではものの三十分もしないうちにクリアをしてしまいそうだと思った。

 「うらちゃんは、マリオRPGってどんなお話だったと思う?」
 先輩は「マロ」というキャラクターの特有スキル「なにかんがえてるの」をレイホーという幽霊のような敵に使用している。そうだ、先輩はこのスキルが好きで、どんな敵にも一度は使用しないと気がすまない性質だった。「なにかんがえてるの」は敵の残りHPを確認するためのスキルだが、同時に敵が今考えていることも分かったりする。「お腹が減った」とか「眠たい」といったようなセリフが、各敵に割り振られていて面白い。世界観を楽しむ先輩がいかにも好きそうな隠し要素だった。
 「どんな、ですか―」

 シンプルなアクションゲームであり基本的に人間模様が無かったマリオシリーズが、RPGとして生まれ変わったことで、これまでに無かったドラマを生んだ本作。お馴染みのキャラクター達が意識を持って動いているだけで、当時の私は嬉しく感じたはずだ。しかし先輩はそういった類の答えを期待している訳では無いだろう。そんな話なら、先輩だって知っている。聞くまでもない。

 スーパーマリオRPGには、それまでのマリオシリーズタイトルと大きく異なる要素があった。一つは、「クッパ大王の討伐が最終目標ではない」という点。マリオの世界の外側から侵略してきた「カジオー」という存在に、マリオワールド全体の安全が脅かされる。
 マリオワールドに内包されるクッパ大王もその例外では無く、彼もまたカジオーによって住処を失うという憂き目に合う。そしてカジオーがマリオワールドへ侵略した事により、「スターロード」という、「人の願いを叶える場所」から、六つの「スターピース」が失われる。
 スターピースとは、スターロードがその機能を果たす為に必要な要素。これをすべて集めてスターロードへ返し、マリオワールドを再び願いが叶う場所に戻す、というのもスーパーマリオRPGのストーリーにおける命題でもあった。
 つまり、どんなお話か一言で言えと言われても、困る。
 私の心象についても、この場で端的には纏められそうにない。

 「エンタメの色が強いストーリーですけど、共感を呼びますよね」
 結局私は適当な言葉で嶋先輩の質問をかわすことにした。
 先輩は私の返答に満足しなかったのか、「共感ね」と一言だけ呟くと、再びゲームに集中し始めた。
 私は、私と先輩の間に現れた揺らいでいる何かについて、考え始めていた。一体何の揺らぎなのかは分からない。私は元々他人の事を考えるのが苦手だから、答えが出ないのは仕方が無いような気もする。
 確かなのは、その揺らぎに私が怯えているらしい、という事だけだった。今まさに、何かが変わり始めている気がしてならない。何がどう変化したとて、私はそれについていけるのだろうか。

 無言の二人を差し置いて、ゲームの中のキャラクターだけは一寸の迷いもなく前に進み続ける。あらゆる準備をして最終戦を構えていた先輩は、あっけなくラスボスのHPを減らしてゆく。何より、ゲームをしている先輩があまり楽しそうにしていないのは、私にとって衝撃でもあった。
 楽しくないのなら、わざわざプレイする必要があったのだろうか。

 「私さ、久しぶりにこのゲームやって、気が付いた事があるんよ」
 まるでこの瞬間に語り始める事が予め決まっていたかのように、先輩は口を開く。
 「うらちゃんは最近プレイしたんだよね」
 「はい。先週クリアしました」
 「じゃあさ、スターロードとスターピースって、何を元に描かれていると思う?」
 少し考えを纏めてから、返答する。

 「正式な出自は知らないですけど、お星さまに願い事をするみたいな、よくあるおまじないからですかね。星に願いを?でしたっけ」
 「うん。多分そうだね。スターロードからスターピースが失われると、人の願いが叶わなくなってしまうっていうのは、それを逆説的に利用した物語的な要素だね。目標が明確だと、旅に意味を持たせやすいよね」
 会話の隙間にやってくる、凄然とした雨音が耳につく。
 「でもさ、スターロードが機能しないマリオワールドは、本当に誰の願いも叶わなくなってるのかなって考えたのさ。すると色々なものが違った見え方をし始めた。実はさ、そんなことはないんだよね。そもそもスターロードを復活させるという願いは、こうしてマリオ達によって達成されるわけだし」
 屁理屈のように聞こえるけれど、考えてみれば確かにそうかもしれない。
 「加えて、スターロードが人の願いを叶えるという描写は、このゲームには一切無いんだよ。この世界のすべての願いは、人の手によって叶っている」
 「確かに、そうですね」

 先輩は独り言をつぶやくように、言葉を続ける。
 「つまりさ、スターロードは現実と同じように、おまじない程度の力しかないんじゃないかなって思った。誰でも何かを掴みたかったら、自分の手で掴む世界なんだなって。このストーリーが共感を呼ぶのは、それが人の社会に根差した意識に近いからだと思う。少なくとも星に願えば何でも願いが叶う世界よりも、お客さんの共感を得るってさ」

 「人の社会」という言葉を聞いて、ある本で読んだ一説を思い返していた。「教育とは、人が他者と共に生きていける機能を授ける作業である」というもの。私はスーパーマリオRPGのストーリーにある程度の共感を覚えたのは事実だが、その共感の根本的な部分には、暗闇が満ちている。これは他のどんな物語についても、同じく適応される。私の中にある共感とは、他者によって作成されたものに過ぎないという予感。それが本物なのか偽物なのかなんて、本当は考えたくも無いのに思いつくと頭から離れない。

 「ストーリーに文句があるわけじゃないよ。マリオRPGは凄く面白い。だけど私はさ、例えば何で人は頑張らなきゃいけないのかって、昔から分からない。正確に言えばわかってるつもりなんだけど、たまにこんな事を思い出しちゃう。何かに対して頑張らなきゃって思うと、どうして頑張らなきゃいけないのかって疑問が湧く。それで、いつも明確な答えを返せなくて気持ちが悪い。でも、何だか皆は分かってるみたいでさ」
 私の脳内を見透かしているような先輩の言葉に驚いた。

 ―違う。

 私は嶋先輩が自分の話をしている事に驚いた。
 この人は何に対しても執着を嫌う。何故なのかなんて知らないけれど、故に自分の話をしたがらないのだと考えていた。明らかに、私達の関係は変わりつつある。それを認めろと責められているような気がして、なじみの無い何かの感情が刺激されている。

 私は、私と嶋先輩が居る、この部屋の事を考えた。玄関は閉じ切っていて、雨は外から降りかからない。四角い白い箱の中で、二人は内なる遊びにだけ興じて時間を使う。たまに二人は外に出るけれど、それでも箱が閉じている事だけは絶対に揺るがない。
 そして、二人の内の一人が、その箱を開けようとしている―。

 「どうして人は頑張らなきゃいけないのかな。どうして優しさこそが正しいのかな。どうして何もしなかった日曜日に価値が無いって思うのかな。ラスボスが滅ぼされなきゃいけないのはなんでかな。友達の輪を広げられない私達は、皆が言うように寂しい奴なのかな」
 いつの間にかラスボスは討ち果たされ、テレビ画面にはスタッフロールが流れている。コントローラーは床に投げ出されて、先輩はただぼんやりと、力無くソファに体を預けている。

 私は、何を言えばいいのだろう。

 まただ―と思うと、頭の裏側がずきりと痛んだ気がした。
 私は何を求めて山の上に引っ越してきたのだろう。
 何を探しに大学へ通うのだろう。
 何の為の受験だったのだろう。
 妹から送られてきたスーパーファミコンと、たまに押しかけてくる嶋先輩以外には、何も無い。

 何も無い?

 他に何かが必要なのだろうか。

 ―分からない。

 先輩なら、知ってるだろうか。

 視線を送ると、先輩は窓に滴る雨の雫を眺めていた。さわさわと揺れる雨音が、凄然としたこの部屋を埋め尽くしていく。
 「分からないって、怖いよね」
 怖い。その怖さの根源すらも暗闇で、怖い。
 先輩の言葉はいつも私を見透かしているみたいだけれど、その怖さが同じものなのかは、やっぱり分からない。

 「ねえうらちゃん、雨の日に流星群を見るのって、意味が無いと思う?」
 ようやく答えられる質問を得たことで、私の内心はほっとした。
 「流星群を見たいのだとしたら、雲が掛かっていたら見えませんし、無意味かもしれないですね」
 「じゃあ、無意味って価値が無いと思う?」

 無意味。

 その質問には、明解な答えが出せないと確信した。そして私は、また黙ってしまう。



 黙りながら、その言葉について考えた。失礼な話かもしれないけれど、考えれば考える程、連想するのは嶋先輩の姿ばかりだった。ほとほと、私と嶋先輩は無秩序な関係だった。
 先輩と無為に過ごす午後について、生産的じゃないと私はよく思い苛立った。先輩が言うように、何で生産的じゃない午後が無意味なのかは分からない。だけど私にとって、嶋先輩は唯一無二の存在なのは確かで。
 この白い箱の中に、私一人じゃなかったことが、どれくらい価値があったのかなんて、わからないけれど。

 そう、確か。
 「そんなことは、ない、かもしれません」
 意味なんて分からないし、この先もずっと分からないままだろう。だけどその言葉が零れた瞬間から、何かがどくどくと溢れ出して堪らなかった。嘘みたいだと、私は両膝に顔を埋めた。

 何が目的ですか。
 「なにがって、うらちゃんが元気無かったから。うらちゃんが元気無いと、私も何故だか元気無くなるみたい」
 じゃあ先輩だって、優しさこそが正しいって思ってるんじゃないですか。
 「あれ?何でだろうね。人って面倒くさいね」
 「先輩は」
 自分の鼻声があんまり不格好だったものだから、私は少し笑ってしまった。笑うなんて、本当に久しぶりだったように思う。
 「うん」
 先輩の相槌がこれまでに聞いた事がないくらい違ったものだから、私は咳払いをして気持ちを静める努力をした。
 
 

 二人が黙ると、エアコンから繰り出される温かい風の音が存在感を増し始める。雨は相変わらず降り続いているし、どうやら先輩はふたご座流星群について未だ諦めていないらしい。
 先輩は今年三回生なのだそうだ。彼女が一年後に卒業したら、きっとエアコンの風音は存在感を更に増していくのだろう。
 「そろそろ屋上に上がりますか?」
 「うん。そうだね。あ、傘取ってこなくちゃ」
 私はふと、今日という日を自分に打ち付けておきたい、という気持ちに駆られた。その為に何をすべきなのかは分からないけれど、何かはすべきだと。

 屋上で集合する旨を私に伝えると嶋先輩は飛ぶように玄関から出ていった。急ぐ必要なんて少しも無い。だってどうせ、空は晴れない。流星群なんて見えっこないのだから。
 一人、部屋に残された私は、今日という日の為に何が出来るのかについて、考えた。

 私と嶋先輩は初めてする話を沢山した。先輩は静岡県出身だとか、卒業したら実家に戻るつもりだとか、自分は臆病な人間だとか、この山を降りるのが怖いだとか。私も色んな話をした。友人とはこういう関係を指すものなのかもしれない、と思った。
 私はふと、麓のコンビニエンスストアで見かけたある雑誌の事を思い出した。小学生向けのそれに、ちゃちな双眼鏡の付録が付いていた。まるで私らしくないけれど、こんな日には山を降りてもいいような気がした。

 コートを羽織り財布をポケットにねじ込むと、玄関に立てかけてあるビニール傘を手に取る。
 さっき先輩が言っていた言葉を反芻する。
 「雨の日の流星群に願い事をしちゃいけないなんて決まりは、どこにもないんだぜ」
 本当に馬鹿馬鹿しいと思いながら、私は自室を扉を開いた。
 
 

著/がるあん
絵/ヨツベ

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