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キリスト教と仏教の驚くべき5つの共通点 徹底解説! 僧侶でさえ間違える慈悲と愛の違いなどがわかります 

この記事は、キリスト教、仏教、神道、さまざまな新興宗教に触れてきた筆者が書いています。個人的には、イエス・キリストの教えと仏陀の教えの本質に近づけば近づくほど、その教えは同じであると思っています。

なお、キリスト教(教会の教え)とイエス・キリストの教えには、一部分違いがあります。詳しくは後で述べますが、その理由は使徒パウロや公会議などの影響があります。このような事情のため、出来る限りイエス・キリストの教えと仏教を比較するようにしました。

また、イエス・キリストの教えと仏陀の教えの本質的な共通点を、うまくまとめているサイトが思ったより少なく、そういう意味で、私はここに書く内容を多くの人に知っていただきたいと思っています

共通点① 仏教「見返りを求めない施し・三施が大切です」 キリスト教「人に見えないように施しなさい。そうすれば天が報いてくださる」

■ 仏教の超重要な三施とは「財施」「法施」「無畏施」・・・見返りを求めない

仏教では、三施と呼ばれるお布施・・・「財施」「法施」「無畏施」を人に施すことが、さとり・涅槃に至るために大切、と言われています。

そのとき、「施しで見返りを求めないこと」が大切と説かれています。お釈迦様以前の時代から古代インドでは「見返りを求めない施し」が求道者にとって必要とされていたようです。

■ キリスト教の施しは、人に見られないようにすることに意味がある

キリスト教ではイエスの言葉として、マタイ福音書 6章1節で次のような内容が書かれています。※意訳していますのでご了承ください。

「人に施しをするときは、人から見てもらおうと人前でしないようにしなさい。偽善者たちが人からほめられようと大勢の前で施しをしているが、それは、人からほめられるという報いを既に受けている。」「人に見られないように施しをしなさい。そうすれば、天の父が報いてくださる。

要はこういうことです。

見られるように施しをする → 「人から褒められる」という報いを既に受けているので、天はそれ以上報いる必要がない

見られないように施しをする → 「報いを受け取ってない状態」なので、天が変わって報いてくださる

上記のイエスの教えは、「人に与えたものは天から帰ってくる」という、宇宙普遍の法則を具体的に説かれたものと理解することができます。

共通点② 仏教「財施」 キリスト教「持ち物を売り払って天に宝を積みなさい」

仏教の財施とは、金品やモノを困っている人に施すことで、僧侶への施しだけが「お布施」ではありません。一般人へのお施しを含めて財施といいます。

ここで大切なことは、お金やモノに困っている人に無償で施し=財施することが、仏教の財施のエッセンスです。お金持ちに財施するより、困っている人に財施するほうが、より大きな意義義があるという意味です。

一方、イエス・キリストは、ルカ福音書12章で次のように言っています。
自分の持ち物を売り払って施しなさい。古くて朽ち果てることのない財布を作り、天に富を積みなさい。そこは、盗人も近寄れず、虫も食い荒らすことができない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

この、自分の持ち物を売り払って施しなさいというイエス言葉は、新約聖書で何度も出てきます。持ち物を困っている人に与えることは仏教とキリスト教で本質的に何ら変わりないことがわかります

共通点③ 仏教「仏法」とキリスト教「律法」は本質的に同じ意味

■ 仏法とは?

仏法とは、お釈迦様が解かれた「この世の法」です。仏教徒だけに適用される法・戒律ではありません。

ごく一部の人のための法ではなく、この宇宙が法によって支配されている、そしてその法が仏法である、と仏教では説いているのです。

仏教の三施のひとつの「法施」とは、「仏法を広めること」を意味する

そのため、仏法を広めることは仏教的に大きな徳を積むとされています。

今、私は記事を書いていますが、ネットを通じてまさに仏法を人に伝えているところなので、微力ながら「法施」を実施していることになります。だから、この記事を書くことは重要なミッションと位置付けています。

■ 律法とは? 

キリスト教には仏法と似たような言葉で「律法」という言葉があります。

これは、本来はユダヤ教の教える「ユダヤ教徒のための戒律」の色が強い教義を含んでいます。たとえば、割礼などです。もちろん、ユダヤ教の律法は他宗教の人にも当てはまる立派な教えですが、割礼があることなどからユダヤ教色が強いのは事実です。

しかし、イエス・キリストは、宗教改革者の一人だったので、なんとユダヤ教の律法を改善して、万人にあてはまる法・・・キリスト教独自の律法として完成させました

それは、イエスが自己中心的に都合よく決めたのではなく、神の啓示=イエスの御父による律法をイエスが仲介役として伝えたので、万人に当てはまる律法へと進化しました

このキリスト教の律法は、ユダヤ人限定に定められた戒律ではなく、「人類のための律法」として、世に広められました。それが、キリスト教が世界に広まった理由の一つです。

すなわち、律法はユダヤ教をベースに、イエス様の説く「天の法」がそれにミックスされた「この世の法」なのです。

お釈迦様の仏法にしろ、イエス・キリストの律法にしろ、2人の大聖者は「この世の法」というものを非常に重要視して解かれました。仏法は日本人になじみが深いので、イエス・キリストの御言葉を振り返ってみましょう。

イエスキリストが解く「律法」の重要性

マタイ5章17~20節に、次の箇所があります。


■ マタイ福音書5章17~20節
わたしがこの世に来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するために来たのではなく、律法を完成させるためである」


要は、「ユダヤ教の律法を全否定するつもりは一切ありません。ユダヤ教の律法を改善して完成させるために私は来たのです」とおっしゃられているわけです。

また、次のようにも言っています。


■ルカ福音書16章17節
律法の一画がなくなるよりは、天地が消えうせる方がやさしい


なんと、律法のひとつを宇宙法則から消してしまうより、この世の万物、天地が消え失せるほうが容易い、と言っているのです。

それだけ、この世の法則、宇宙の法則は強固なものだ、ということです。

仏法=律法 宇宙の法則なので、そこに宗教の区別などない。

結局、仏法と律法は本質的に同じこと・・・なのです。

また、仏法と律法の細かな教えに部分的な違いがあるのは当然で、集合図の仏法と律法の違いはあるけど、この宇宙の法は矛盾することなくお互いに補い合っていることがわかります

仏法と律法

共通点③ 仏法と律法の共通する部分

上の図から、仏法と律法には共通する部分があります。

盗むな、嘘つくな、殺すな、他者に施しなさい、父母を敬え、慈悲と愛など、多数あります。

また、上の図から、仏教とキリスト教の違いは、矛盾していると理解するのではなく、お互いに無い部分を補って教えている、と理解することが真実に近づくように思えます。

集合図の青色部分「仏法のみの部分」は・・・たとえば、「執着するな。そうすれば苦しみから解放されて涅槃に入る」という法です。これは、キリスト教にはありません。

集合図のピンク色の部分「律法のみの部分」は・・・たとえば「自分を捨てて神の道を歩む者は、かえって救われる」という法です。これは、仏教にはありません。

しかし、「執着しなければ、涅槃に入る」というのと「自分を捨てて神の道を歩めば救われる」というのは、自我を捨てて神我に生きる、という意味で、両者で似たようなことを言っています。

このように、両者の主張は一見すると違うようで、深い隠れた部分で実は似ていたりします。これを「執着するな、とキリスト教は教えていない」だの「仏教は神を否定している」だの、形の上での違いばかり強調すると、本質から離れてしまいます。

共通点④ 仏教の「慈悲」とキリスト教の「愛」

まず、仏教の「慈悲」とキリスト教の「愛」は本質的に同じものであることを、私は示したいと思います。

間違いだらけ!僧侶による「愛と慈悲」の分析

少なくとも、一般の僧侶の方よりもキリスト教について詳しい私ですが、その私から言わせると、たいそう立派な一部の僧侶の大先生が、仏教の慈悲と、キリスト教の愛の違いを、根本的に間違って解説していることがあります。

それは、「仏教の慈悲はどこまでも相手を大切にする」「キリスト教の愛は裏切られたら憎しみに変わる」という解説です。

なぜ、この解説が間違っているかというと、キリスト教の「愛」についてきちんと学習されてないからです。おそらくこのように解説する僧侶の方はこの手の話題に出てくる「アガペー」という重要なキーワードを知らないことでしょう。

なので、もしここで僧侶の方がこの記事をご覧になられていたら、ぜひ考えを改めていただきたいものです。

キリスト教の愛は「アガペー」を意味する。男女の愛とは大違い

まず、「キリスト教の愛」を、「男女の愛」と同等に扱うことから問題が出てきます。キリスト教の愛は「アガペー」と呼ばれ、「無償の愛」を意味するのです。それは人類愛と同じ意味です。

アガペーは、男女の愛、仲間の愛のように、裏切られたら憎しみに変わるような愛とは大きく違います。このように、愛には2種類あるのです。

それは「人類普遍愛のアガペー」と、「個人的な感情を伴う愛」です。

要は、キリスト教が説く「愛が大切」という意味は「すべての人類を無償で愛しなさい」と説いている、アガペーということです。実際にできている人がいるのか?という現実的な問題はとりあえず置いておいて、教えとしてはそのような博愛の意味で「愛」を使っています。

もちろん、これを書いている私自身が無償の愛を実践できているとは言い難いですが、キリスト教の教えとしてはそうなのです。

仏教の慈悲=キリスト教の愛です。

これは、イエス・キリストの言葉やたとえ話を知れば、キリストの愛は「慈悲そのもの」であることがわかります。イエスは「困っている人がいたら助けなさい」と、さんざん聖書の中で説教されています

仏陀もイエス様も「慈悲」をすごく大切にするように教えておられたので、本質的には「仏教の慈悲=キリスト教の愛」なのです。

愛という日本語の言葉の定義だけ見て議論すると、本質的なことから遠ざかります。本質は同じなのです。

共通点⑤ 仏教「因果応報のカルマ」 キリスト教「小さい・弱い者にしたことは、天の神にしたことと同じ」

一般的なキリスト教の教えでは「仏教的なカルマ」を認めていない

まず、真実は何か?ということではなく、教会が教えている教義では「カルマ」を認めていません。なぜなら、カルマは様々な人生の輪廻転生を経て解消するものであって、輪廻転生、という概念をキリスト教が否定しているからです。

■ 仏教のカルマの法則

過去」あるいは「過去世」の自分の行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、必ず自分に返ってくる。

しかし、カルマの定義から「輪廻転生」を除く場合、イエスキリストはまさにカルマ=因果応報を説いているのです。


■ マタイ福音書25章(イエス・キリストが語った、天国のたとえ話)

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物を恵み、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。


上記のたとえ話の「王」とは「創造主=神様」ということです。

上記のたとえ話は、人を慈悲深く助けた場合の話です。イエスは逆に弱い人を無視し、困っている人を無慈悲に助けなかった例も挙げ、そういう慈悲のない人は、神が報いてあの世で苦しむだろう、と教えています。

1番小さい・弱い人にすることは、神にすることと同じだ、そして、それ相応の報いは受けるとイエス・キリストは明言しているのです。これは、仏教でいうカルマそのものではありませんか?

イエス・キリストは、現世の行為が死後の世界に影響する、と説いているのです。

この世での行為による良いカルマは良い結果を生み、悪いカルマは悪い結果を生む。これは現世のみならず、あの世に影響する、と2つの宗教が説いているのです。仏教とキリスト教、まったく変わりありません。


■ ヨハネ5章14節

イエス様「さらに悪いことが起きないように、2度と罪を犯してはならない」


上の文章は、悪いことが起きたのは罪の結果ということを暗示しています。罪=悪いカルマなので、今後悪いカルマを作らないように、イエスキリストが戒められている場面です。

「キリスト教の罪」=仏教でいう「悪いカルマ」と私は理解しています。

超能力者エドガーケイシーが見た、カルマの法則

エドガーケイシーは、アカシックレコードにアクセスできる人として著名な人ですね。彼は熱烈なクリスチャンでありながら、輪廻転生とカルマの存在を、その能力で直接的に知ってしまったのです。

彼のように、直接来世を見える人は、輪廻転生とカルマの法則を肯定することがよくあります。

イエス・キリストは輪廻転生を肯定も否定もしていない。教会が全否定しているだけ

大事なことは、イエス・キリストご自身は、輪廻転生を肯定も否定もしていない、ということです。輪廻転生を否定しているのはキリスト教の教会なのです。

イエス様は「輪廻転生など存在しません」とは聖書で一言も言っていません。これは無視できないポイントといえるでしょう。肯定も否定もしていないので、イエス様が輪廻転生を否定している、というわけではないのです。

イエスは人が死後に肉体の復活することを示唆している

なんと、ルカ福音書20章27節で、人の復活を否定するサドカイ人がきて「複数の妻をめとった人が復活するとき、妻は誰の夫なのか?」について質問をされたとき、イエスは「神によってえらばれた人が復活するとき、神の子として天使のようになる。だから誰の妻でもない。」と返答しています。

このとき、サドカイ人との会話の内容から、あの世での霊体の話ではなく、この世での肉体の復活の話をイエスがされている、と捉えることができます。

くわしくは、ルカ福音書20章27節を見ていただきたいですが、輪廻転生を否定するはずのイエスキリストが「一般人の肉体の復活」について明確に示唆しているのです。

たしかに、話の内容からすると普通の生まれ変わりとは様子が違うようですが、イエスキリストは生まれ変わり自体を全否定まではしていないことがわかります。

ウソだと思われた方は、ルカの福音書20章27節をご覧ください。

キリスト教は生まれ変わりを否定している」→「果たしてイエス様は生まれ変わりを否定しているのか? 復活という言葉で、生まれ変わりを示唆しているのでは?」ということです。

仏教 → 生まれ変わりを肯定
キリスト教・教会 → 生まれ変わりを否定
イエス・キリスト → 生まれ変わりを否定も肯定もしていない。復活という言葉を使って、むしろ死者から蘇る可能性を示唆している。

ということで、カルマの法則は、仏教・キリスト教ともに、少し形は違えど、基本的な因果応報という部分では、ほとんど同じものと捉えて良いと思います。

おわりに

このように、仏教とキリスト教は、本質的には同じ部分が多い、ということができます。

私としては、仏教とキリスト教が似ている部分が多いこと、そしてこの世の真理はひとつであり、違う宗教で違う角度から同じことを言っている、と知っていただきたいと思っています。

真実に目覚める人が増えるほど、人類の霊性が上がり、天国に近づきます。それに寄与できれば、私としてはうれしいかぎりです。

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