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一人会読をしています!!!!! スピノザグッズ作ってます!!!!!! https://suzuri.jp/Spinozist

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一人会読の試み

最近話題の『独学大全*1』で「一人会読」というものを知った。 会読、すなわち「書物を共に読むこと」は多くは読書会という形式を取る。 以前に大手の読書会に参加したことがあるが、なかなか面白かった一方で、自分の最も興味のある書籍が採用されることはそれほど多くなかった。 そこで「一人会読」である。「会読を一人で行う」というものだ。 語義矛盾しているようだが、インターネット上ではそれが成り立つ。 ある本に興味がある複数の人が、ばらばらの時間に、ばらばらの場所で、同じ本を読み、感想を

    • 人間精神は身体とともに破壊されえず、その中の永遠なる何ものかが残る、とスピノザは言う。人間身体と精神は様態であり持続であるから、身体が破壊されたとき精神も破壊されるはずである。また魂の不滅性に関してスピノザは否定的であり、それとは異なる形で精神の永遠性を考えていたと思われる。

      • スピノザは感情を喜び、悲しみ、欲望に分類する。喜び、悲しみは外部のものとの触発による身体の変様である。喜びはより大きな完全性、悲しみはより小さな完全性に至る。欲望はあるものに近づこう、あるいは離れようとする感情である。エチカではより複雑な感情もこの3種類の組み合わせで説明される。

        • スピノザの神は宇宙よりも広い。宇宙は所産的自然であり、神は能産的自然であるからだ。また宇宙は空間的には最も広いかもしれないが、神は延長属性の他に思惟属性や、人が認識できない属性を無限属性をもつ。スピノザの哲学に安心感があるのは、たとえ宇宙さえ滅びても神が残るという確信からだろう。

        一人会読の試み

        • 人間精神は身体とともに破壊されえず、その中の永遠なる何ものかが残る、とスピノザは言う。人間身体と精神は様態であり持続であるから、身体が破壊されたとき精神も破壊されるはずである。また魂の不滅性に関してスピノザは否定的であり、それとは異なる形で精神の永遠性を考えていたと思われる。

        • スピノザは感情を喜び、悲しみ、欲望に分類する。喜び、悲しみは外部のものとの触発による身体の変様である。喜びはより大きな完全性、悲しみはより小さな完全性に至る。欲望はあるものに近づこう、あるいは離れようとする感情である。エチカではより複雑な感情もこの3種類の組み合わせで説明される。

        • スピノザの神は宇宙よりも広い。宇宙は所産的自然であり、神は能産的自然であるからだ。また宇宙は空間的には最も広いかもしれないが、神は延長属性の他に思惟属性や、人が認識できない属性を無限属性をもつ。スピノザの哲学に安心感があるのは、たとえ宇宙さえ滅びても神が残るという確信からだろう。

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        • 一人会読
          16本
        • スピノザ哲学
          32本

        記事

          賢者は直接善いことへ赴く。道徳的にそれが善であることなど必要としていない。自らの本性として善いことを求めるが故に善いことを行うのだ。何が己にとって善であるか悪であるかは第二種の認識により明らかである。賢者にとって必要なのは内的倫理であり、外的道徳ではないのだ。

          賢者は直接善いことへ赴く。道徳的にそれが善であることなど必要としていない。自らの本性として善いことを求めるが故に善いことを行うのだ。何が己にとって善であるか悪であるかは第二種の認識により明らかである。賢者にとって必要なのは内的倫理であり、外的道徳ではないのだ。

          スピノザはエチカにおいて一見奇妙な記述方法をとる。それは幾何学的方法というもので、数学書プリンキピアを元にしている。ページを開くといきなり定義が並び、その次に定理やその証明、最低限の説明や注釈が並ぶ。まさに数学書である。スピノザは真理を示すにはこれだけで十分だと思っていたようだ。

          スピノザはエチカにおいて一見奇妙な記述方法をとる。それは幾何学的方法というもので、数学書プリンキピアを元にしている。ページを開くといきなり定義が並び、その次に定理やその証明、最低限の説明や注釈が並ぶ。まさに数学書である。スピノザは真理を示すにはこれだけで十分だと思っていたようだ。

          力能は現実態である。その時その時で目一杯の力能が維持されている。様態は常に外部から触発され、この力能はより大きな完全性になったり、より小さな完全性になったりする。一方、能力は可能態である。能力は何かが「できる」という想像であり、十分な能力があるはずだという、ある種の虚構である。

          力能は現実態である。その時その時で目一杯の力能が維持されている。様態は常に外部から触発され、この力能はより大きな完全性になったり、より小さな完全性になったりする。一方、能力は可能態である。能力は何かが「できる」という想像であり、十分な能力があるはずだという、ある種の虚構である。

          神(実体)は能産的自然に属し、様態(人や動物や無機物)は所産的自然に属する。つまり、神から様態は生じ、全ては神に内在する。また様態は持続するが、神は永遠である。様態は生起し分解するが、神は生起も分解もせず、そこに存在し続ける。能産的自然と所産的自然はこの点で異なっている。

          神(実体)は能産的自然に属し、様態(人や動物や無機物)は所産的自然に属する。つまり、神から様態は生じ、全ては神に内在する。また様態は持続するが、神は永遠である。様態は生起し分解するが、神は生起も分解もせず、そこに存在し続ける。能産的自然と所産的自然はこの点で異なっている。

          スピノザの必然性を信じるとき、世界や他人や自分を許すことができるだろう。例えば他人に対して怒りが湧くのは、その人がそれ以外の行動ができた可能性を想定するからだ。しかし実際は無数の原因がある事象を生起させる。その人はそのときそれ以外の行動を取れないのだ。世界や自分も同様である。

          スピノザの必然性を信じるとき、世界や他人や自分を許すことができるだろう。例えば他人に対して怒りが湧くのは、その人がそれ以外の行動ができた可能性を想定するからだ。しかし実際は無数の原因がある事象を生起させる。その人はそのときそれ以外の行動を取れないのだ。世界や自分も同様である。

          スピノザの哲学では、神の中で全てが生起し、互いに触発する。神の存在は必然性があり、神から何かが生じるのも必然性があり、それらが触発するのも必然性がある。つまり全てが必然である。神にとって偶然はない。人間が偶然だと認識するのは、神が認識する必然性を人間が認識し切れていないからだ。

          スピノザの哲学では、神の中で全てが生起し、互いに触発する。神の存在は必然性があり、神から何かが生じるのも必然性があり、それらが触発するのも必然性がある。つまり全てが必然である。神にとって偶然はない。人間が偶然だと認識するのは、神が認識する必然性を人間が認識し切れていないからだ。

          第三種の認識から必然的に神への知的愛が生じる、とスピノザは言っている。第三種の認識は日常生活の至るところまで神から直観できるようになる認識のことであった。ここで知的愛とは、生起する全ての事象が必然性・法則性を持っており、それらは永遠であるという、世界への信頼感や安心感であろう。

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          スピノザの哲学はよく風に例えられる。エチカの全体を通して流れる大いなる風と定理や注釈で感じられる疾風だ。大いなる風はエチカを読み始めると次々とページを読み進めたくなる論理の流れであり、疾風はスピノザが導いた驚くべき論理的帰結の体験である。この2つの風はスピノザ哲学の魅力である。

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          人は自分で事物の価値を定めることができると思っている。しかしスピノザによれば外部の事物の価値を決めるのは事物自身である。事物自身が肯定否定の力を持っているのだ。事物の力能を増大させる外部のものは喜びであり、逆は悲しみだ。これは事物による外部の事物の肯定否定である。

          人は自分で事物の価値を定めることができると思っている。しかしスピノザによれば外部の事物の価値を決めるのは事物自身である。事物自身が肯定否定の力を持っているのだ。事物の力能を増大させる外部のものは喜びであり、逆は悲しみだ。これは事物による外部の事物の肯定否定である。

          様態とは、実体の変様、いいかえれば、他のもののうちに存在し、また他のものによって考えられるもののことである。スピノザの言う実体とは神のことであるから、神の変様が様態である。例えば人間も、動物も、道端の石も、宇宙空間も神の変様だと言える。神は全てを包み込み、同時に生成しているのだ。

          様態とは、実体の変様、いいかえれば、他のもののうちに存在し、また他のものによって考えられるもののことである。スピノザの言う実体とは神のことであるから、神の変様が様態である。例えば人間も、動物も、道端の石も、宇宙空間も神の変様だと言える。神は全てを包み込み、同時に生成しているのだ。

          スピノザは実体をそれ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことであるとしている。これを真面目に受け取ると、例えば人間は実体でないことになる。なぜならば人間は人間以外の様々なものを必要としているからだ。結局、この条件を満たすものは神以外にあり得ない。神=実体なのだ。

          スピノザは実体をそれ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことであるとしている。これを真面目に受け取ると、例えば人間は実体でないことになる。なぜならば人間は人間以外の様々なものを必要としているからだ。結局、この条件を満たすものは神以外にあり得ない。神=実体なのだ。

          スピノザの哲学は身体と常に共にある。多くの哲学者は精神のみで考え、身体とかけ離れたモデルを形成する。スピノザは心身並行論を徹底しており、神を考えるときですら身体を忘れることはなかった。つまり神=自然であり、自然は神の身体である。身体と精神を同等に扱うことはスピノザ哲学の核である。

          スピノザの哲学は身体と常に共にある。多くの哲学者は精神のみで考え、身体とかけ離れたモデルを形成する。スピノザは心身並行論を徹底しており、神を考えるときですら身体を忘れることはなかった。つまり神=自然であり、自然は神の身体である。身体と精神を同等に扱うことはスピノザ哲学の核である。