ぬいぐるみの愛
僕は自分がぬいぐるみになって初めて、人を愛するということがどういうことなのか少しわかったような気がする。
*
「『付き合う』ってどういうことなんだろう。」
中学生の時、僕はいつもそんなことを考えていた。思春期入りたての子供にはありふれた議題だ。でも実際に恋人と仲のいい女友達とでは何が違うのだろう。
デートをするかしないかの違い? それだったらデートってなんだろう。女友達と二人で遊びに行くのと何が違うんだろう。
キスをしたりハグをしたりするかの違い? まあそれはあるかもしれない。
相手のことを「好き」ってお互いに言うかどうかの違い? うん、それもあるかもしれない。
でも、と中学生の僕は思う。じゃあ例えば、一生面会の許されない監獄に収容された人と「付き合う」ことはできないのだろうか。デートもできなければキスもできないはずだ。あるいは想いが通じてさえいれば「付き合う」ことになるのだろうか。どうやったら想いが通じたことになるのだろう。そもそも「付き合う」って言葉は必要なのだろうか?
僕はテニスコートで誰かとゆるくラリーをしながらよく考え事をした。僕が打つ。相手が打って、僕がまた打ち返す。そこには一定のリズムができあがり、そのリズムは僕を精神の深い場所へと誘う。
結局その問いに答えは出なかった。というか当時僕には好きな女の子ができて、そんなことを考える必要が無くなってしまった。思春期の恋というのは激しい。もしも日本中の中学生のところへ悪魔がこっそりやってきて「寿命10年分と引き換えに、恋を成就させてやろう」なんて囁いたら、日本人の平均寿命は綺麗に10年縮まることになるだろう。もちろんそれが統計になって発覚するのはそれから何十年後になるわけだけど。とにかく、僕はその女の子に夢中だったし(陸上部の女の子で胸の膨らみ方がすごく綺麗だった)、「付き合う」ということの意味について回答を求める必要は微塵も無くなった。
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大人になった僕は再びその命題に直面する。
「『付き合う』ってなんだろう。」
もう4年同棲しているツムギとは最近ほとんど喋らなくなった。生活に必要な最低限の事務的で義務的な会話があるだけだ。一緒のベッドで寝ることは寝るけれど、セックスは多分1年以上していなかった。夜中に目を覚ましたりすると、大抵お互い相手に背中を向けて寝ていた。僕らもとうに結婚を意識する年齢になっていたから、そういうのもあるだろうと思うけれど、もうほとんど惰性で関係を続けているだけだった。
一番ショックなのは、彼女の気持ちが冷めていることではなくて、僕の気持ちが冷めていることだった。僕は基本的に感情の振れ幅が大きい人間だったし(僕はそれを自分の欠点として認識していたのにも関わらず)、こういう風に冷めた感じになること自体自分でもあまり信じたくなかった。
僕は今のツムギとの関係が「付き合っている」と言えるのかどうか毎日考え込んでいた。また、その関係がどう呼ばれるべきであるかに関わらず、その関係を解消した方がいいのかどうかについても悩んだ。
そんな日常の、ある日の朝。僕は起きたらぬいぐるみになっていた。
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目を覚まして上半身を起こすと、いつもと見える部屋の景色が違う。視点が低すぎるのだ。
寝ぼけ眼で自分の身体に目をやると、そこにはふさふさした茶色い毛がついていた。一瞬どういうことかわからなくて、とりあえず隣で寝るツムギに声をかけて起こした。その声は僕の口からではなくて、僕の身体の中から響いているように聴こえた。
「何よ、どうしたの」と煙たそうに言いながら起きたツムギは、僕の姿を認めずに、部屋の中を見回した。
「何探してんだよ。ねえあのさ、俺身体に変な毛生えてない?」と僕は言った。
ツムギは僕の方を見て、目を瞠いて叫んだ。
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そこから先は話すと長くなるから、かいつまんで説明しようと思う。僕はツムギに抱きかかえられて、洗面所の鏡で自分の変わり果てた姿を見た。
僕は、目のぱっちりした小さな茶色い熊のぬいぐるみになっていた。ひどく手足が短いのと、対照に頭がひどく大きいせいで、身体を動かすのは困難だった。手足が若干動かせる程度だ。
しかもそれですら身体を動かすのには条件みたいなものがあった。誰も見ていない時、あるいはツムギしか見ていない時にしか、僕は身体を動かすことができなかった。声を出すこともできなくなった。誰かが見ていると、金縛りにあったみたいに身体の自由が効かなくなって、僕はただの熊のぬいぐるみと化した。
ツムギは混乱しながらも、なんとかしようと奔走してくれた。他人に奇異な目で見られながらも、僕のためにいろんな人に話をしたり聞いたり、病院に行ったりしてくれた。それは何日も何十日も続き、ツムギは友人から精神科への通院を勧められるようになった。
結果として一つだけわかったことがあった。ツムギ以外のこの世の全ての人間が僕の存在を忘れてしまったということだ。僕の存在は無かったこととして扱われ、実の両親でさえ僕のことを覚えていなかった。
ある日僕はツムギに「もう無理しないでいいよ」と言った。生活費を稼ぐために働くかたわら、僕のために毎日ずっと何かを調べているツムギの疲れ果てた姿を僕は見ていられなくなった。
それから、ぬいぐるみになった僕とツムギの新しい生活が始まった。ツムギが家を出ているあいだ、僕はずっと一人でテレビを見て過ごし、ツムギが帰ってくると寝るまで二人で会話した。ツムギは毎日職場で起きた出来事を話してくれた。休日には僕を外に連れて行ってくれた。
結果的に、僕がぬいぐるみになる前よりも、僕たちは二人の時間を楽しむようになった。
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そんな生活が2年続いたある日、ツムギは仕事から帰ってきてこう言った。
「ジャーン!ケーキ買ってきたよ。もちろんぬいぐるみになってから何もものを食べられないのはよくわかってるけど、今日誕生日でしょ。お祝いだけでもしなくちゃね!」
ツムギは部屋の電気を消して、僕と一切れ分のショートケーキとをテレビの前にある食卓にのせると、ケーキに一本だけカラフルな蝋燭を立ててライターで火をつけ、それから歌い始めた。
Happy Birth Day to You
Happy Birth Day to You
Happy Birth Day Dear ——
Happy Birth Day to You ♪
僕はツムギが歌っているのを聴きながら、ぬいぐるみになってしまった目からは涙が流れないことを悔しく思った。
ツムギが蝋燭の火を吹き消し、部屋の電気を点けた。
「ごめんね、私だけ」と言って一人でケーキを食べるツムギの横顔を見つめながら、「恋の成就のために、俺は寿命10年以上のものを払う必要があったみたいだけど、案外これで良かったのかもしれないな」と思った。
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翌朝ツムギが家を出ると、僕はいつも通り部屋に一人になった。
恋人と長いあいだ一緒にいると、表の表情に隠された奥の感情が読めるようになる。ツムギがただの同情だけを理由に、僕とこのような生活を続けているわけではないことくらいわかっていたけれど、同時にツムギの奥にある悲しみも僕には手に取るようにわかっていた。
僕は食卓に置かれたままのライターを見て、「もう十分かな」と小さく呟いた。
不器用なぬいぐるみの手で必死にフリントホイールを回した。そもそもぬいぐるみになってから熱さや寒さなど全く感じなくなっていたのだ。僕の残りの命と引き換えにツムギの新しい人生への後押しができるなら、それで僕は本望だ。火が点いた。僕は空いた片方の手で火に触れ、自らに火を点けた。
全身を包み込む炎の中で、僕はツムギとの日々を一つ一つ思い出していった。
「今までありがとう。ツムギ————、絶対幸せになれよ。」
プラスチックで出来た目から涙が一滴零れ落ちた。
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ハッと目を覚ますと、顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた。
上半身を起こして枕元のデジタル時計を確認すると深夜の3時15分を示している。全部夢だった。
ベッドの隣を見た。ツムギは僕に背中を向けて静かな寝息を立てている。
僕は布団の中に潜り込んで、ツムギを後ろからそっと抱きしめた。
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