自信に関する勘違いは、ある種の同調圧力を生み出す
日本人は集団の考えに染まりやすいとか、日本社会は同調圧力が強い社会であるなどと言われて久しい。しかし例えばアマゾン創業者であるジェフ・ベゾスの本などを読むと、同調圧力との戦いは海外にも普通に存在することが分かる。その本によると、ある会議で偉い人(ベゾス本人だったか?)が出した提案に対して、出席者の誰も反対意見を出さなかったのだという。それをベゾスは叱責したという話だ。
このような同調圧力が生じるのは、偉い人に対する信頼や恐怖、責任転嫁、意思決定を楽に行いたいという気持ちが働いている。どれも人間として自然なものなので、どんな国にも同調圧力があるのは頷ける。しかし日本人は公共心のためか自己主張が弱いので、会議等において沈黙に流される危険性はより大きいように思う。
偉い人の提案だったら同調圧力という呼び方は直感的だが、自己主張が弱い人の集まりでは(テキトーにあるいは仕方なく出された)誰の提案でも反対されずに通ることが考えられるため、それまでも圧力と呼ぶのは不適切だと感じる。水が低いところへ流れていくように合意が成立してしまうため、この種の同調圧力を「同調重力」と呼ぶことにしよう。
個人的な考えだが、日本人が注意すべきなのは同調重力のほうである。偉い人などが自分の意見を押し通そうとして本当に圧力をかけてきているならそれに抗しきれないのは不可抗力だと言う余地はあるが、自己主張が弱いために誰もベストだと思っていない案がいわば時間切れで採択されるのは不可抗力でも何でもない。それで失敗したら提案者のせいにされるのであれば、もうその集団は1つの提案すら出すことができなくなってしまう。
日本人は自己肯定感や自信がないと言われる。自信がなければ自己主張が弱くなるのも無理はない。日本人が、公共心を持つ余裕があるほど豊かな社会で暮らしているとすれば喜ばしいことだが、公共心を大事にするあまりに「正しいことしか言ってはいけない」と思っているフシがどこかにあるような気がしている。
人の意見というものは、当然のことながらその人にとっての意見である。正しい意見しか出ないのだったら、そもそも大勢の意見に耳を傾ける必要はない。それぞれの観点でどう感じているかを吐き出すことが重要なのであるから、他人の意見を聞く前から全員の意見を統合したような「正しい意見」を言う必要がないのは明白なことだ。
そこのところを個人主義の文化圏の人はよく分かっている。彼らに自信があるように見えるのは、正しい意見を言う自信があるのではなく、自分がどう思っているかが彼ら自身の中で明確になっているためだと私は(自分自身の経験からも)感じている。
もちろん、言い出しっぺが全部やらされる羽目になるとか、正しいことを言っているつもりだと受け取られるとか、ネガティブに解釈して出る杭を打つ人間が多いとか、聞き手側の問題もあるだろう。相手の気持ちや反応を何も予想せずに軽々しくペラペラ話す人には、私も自信を持てとは言いたくない。
私が自信を持ってほしいのは、正しさにこだわる人に対してである。そういう人はもう十分、考えることができている。考えた末に言葉を飲み込むのは大変もったいないことであって、その言葉を口に出し、相手からのフィードバックを得て初めてその先を考えることができる。
まぁ、人それぞれ状況もあると思うので、いつでもどこでも空気を打ち破れとは言わないが、もし「正しいことしか言ってはいけない」と思っている人がいるんだったら、とりあえずそれが勘違いだと認識するだけでも楽になるだろう。
同調重力は他者からの圧力ではなく、少なくとも自信の勘違いに端を発する部分では、自分が仕掛けた自滅の罠である。誰かがその人自身の同調重力を軽減すれば、(彼の発言に勇気を得て、あるいは聞き手に回ったときポジティブフィードバックを返せる寛容さを身につけることによって)他の誰かの同調重力も軽減される。そういう連鎖反応によって日本の空気が良くなることを期待したい。
最後に、レディー・ガガの楽曲「Born This Way」を紹介して終わりにする。この曲名の意味は、直訳すれば「私はこのように生まれた」となるが、個人主義の極致のようなタイトルだと感じる。確かに誰しもそういう風に生まれたんだから、そういう風な考え方だったり言動の有り様になるのは仕方がない。正しいか、立派かなんて関係なく、自信を持っていいということだ。
ではでは。
ちょび丸(1歳)の応援をよろしくお願い致します~😉