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死の教育は生の教育と共に

教育の中でも難しいことの1つに、「死」と「性」があると思います。特に前者については、大人でも分からないことだらけなために、どう説明したらいいか迷います。うちの子はまだ0才なので難しい説明が必要になるのは当分先でしょうが、直前になって考えて整理できるほど甘いテーマではないので、練習がてら記事にしておきたいと思います。

死に関しては、主要な問いが2つあると思っています。1つ目は、死という概念を知らないほどの小さい子供が「死ぬってなに?」という形で問うもの。2つ目は、もう少し大きくなってから、「死って怖すぎるんですけど!みんな平気な顔して生きてるけど、どう理解してるの?」みたいに問うもの。

1つ目については、ほぼ全面的に賛成できる説明の仕方が見つかりました。次の記事に、こうあります。「ぼくは死について、魂とか、精神とか、そういうことじゃなくて単純に肉体の変化と行き先について話してみようと思った。」はい、そうですね。私も丸パクリさせていただきます(笑)。

2つ目については、これもnoteで高校生の方が書いている記事を見つけました。若い人の疑問はとても貴重なので、まっちゃさんの記事内容をそのまま、問いの定義にしてしまいましょう。つまり、「約束されている死を、しょうがないと受け入れるためにはどうすればいいのか?」ってことですね。以下では私なりに、その答えを考えていきます。

ちなみに私は別に、割り切っていません。割り切れてる人がいた!と、確信したこともありません。ただ私も、若い頃のほうが割り切れなさの感じ方は強かったと思います。歳を取るにつれて弱まってきた理由は、次のようなものです。

1.怖いのは、肉体がなくなることではなく、記憶だとか、自分のことを認識している存在がなくなってしまうことである。
しかし例えば、自分自身のことでも何年も前のことは忘れているし、考え方も様々に変化している。過去の自分と今の自分を同一人物だと見なせるのは、単にそう信じているから、あるいは、そのほうが都合がいいからではないか?過去の自分と今の自分がほぼ別人なのであれば、前者は既に死んでいるようなものだ。
このように、「自分」の定義に関する思い込みを疑えるようになったこと。

2.自然科学を勉強することによって、宇宙は私達が住んでいるこの宇宙だけでなく、他にも無数にあるかもしれないということを学んだ。
また、重要なのは肉体ではなく記憶等の情報なのだから、それを未来にリレーしていけばいいのだが、どこかの時点でリレーは必ず途切れてしまうと、誰も証明していないこと。
リレーに際して、仲間(宇宙や知的生命体)は多いに越したことはない。

3.私たちは「今」しか感知できない体の仕組みになっているので、「今」以外の時点の物事は存在しないと思っているが、時間軸を持つグラフにしてしまえば「今」に大した特別性はない。過去も現在も未来も平等に存在する(類似の話題の記事にリンク)。
もし過去も何らかの意味で存在していると言えるのであれば、自分の死後の時点から見ても、生前の自分はやはり存在していることになる(過去が存在しないと言うなら「今」の存在も疑う必要がある。だって「今」は一瞬で過去になるのだから)。
この主張を、うまく否定できないこと。

4.科学技術の発展スピードが猛烈であること。健康で長生きすれば科学の恩恵にあずかることができる。

5.輪廻転生が否定できないこと。要するに、自分の死後も永遠というくらいの長い時間が流れるので、そのうち若い自分か若くない自分に(外見ではなく内面が)似た人が現れるかもしれない。そうすると、長い眠りから覚めたのと同じことだ(死んでる間、時間は感じない)。
ちなみにここで言う輪廻転生とは、魂があると言っているのではなく、理由1で述べた「自分」の定義を(自分とよく似た他人にまで)広げた結果である。

6.長年の経験によって、自分が特別な存在ではないと気づいたこと。自分が考えていることは、案外みんな考えている。人類が死に絶えるのはえらいことだが、自分だけ死ぬ分にはその代わりくらいはいる、まして息子が生まれた今となっては尚のこと。だから、自分の情報を未来に残せるなら残したいが、丸ごとそっくり残したい欲求は減っている。

7.経験したいと思っていたことが色々経験できて、少なくとも若い頃よりは満足していること(人生に飽きたり悲観している場合は長生きしたいという欲求が小さいと思われるので、それはそれで死を割り切った状態に近づく)。
また、体も老化してくる。人生に満足した老体が、もっと人生を楽しもうと思ったら、体や心を若返らせる必要がある。でもそれって、過去の自分のことだよね?それはもう経験済みだから、やっぱり満足だ。以上。

そんなわけで私は、若い頃に比べれば「死」を割り切れるようになってきました(それと平行して、希望を持てるようにもなってきている)。
要するに若い頃というのは、1つの世界観を信じ込み過ぎなのだと思います。「神様がいて、魂があって、死後の世界がある」と無理に自分を信じさせたくないのが無神論者というものですが、「今」しか現実はないのだとか、「自分」の定義はこれしか有り得ないのだとか、情報のリレーは不可能なのだとか、そう無根拠に信じることも一種の宗教ではないでしょうか?

1つだけ自信を持って言えることは、「本当に重要なことについては、人類はまだ何も分かっていない」ということです。分からないから希望があるのだし、死を割り切っていないから、分かろうとする気も起きるのだと思います。

まっちゃさんみたいな高校生に「約束されている死を、しょうがないと受け入れるためにはどうすればいいのか?」と聞かれたら、私はストレートに「しょうがないことじゃないから、受け入れなくていい」と答えるかもしれません。
ただし、恐怖を和らげなければいけない相手というのは、いると思うのです。

私は子供の頃、親に似たような質問をして魂の話を教えてもらい、安心した覚えがあります。そして安心した生活を送るうちに、死を考えるための語彙や基盤が整いました。この場合は話が科学を超越していても構わなかったということです。だから、相手とその状況と、質問の内容をよく確かめて答えるしかないのであって、死の教育において一般的な正解はないのかも知れません。

しかし私達は「死」以前に、生き続けたいと思っているその「生」自体をよく理解できていないのですから、安心している時間の中で「生」を考えることをサボってはいけないと思います。「死」は、前述したような「一種の宗教」を破棄した上で、「生」を含めて問うてこそ建設的な哲学になるのではないでしょうか。

ではでは。

ちょび丸(1歳)の応援をよろしくお願い致します~😉