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はじめて誰かの美意識を心から美しいと思った日

人それぞれに美意識というものがあります。科学的にも証明されている黄金比というものや、人気不人気というものはありますが、何が好きだったとしても誰にも言わなければ誰にも否定されません。心の中だけなら完全なる自由です。

好きなものを好きでいていい――そのことで救われた時期が、私自身何度もありました。それはクラスで孤立していた学生時代の文芸部での時間だったり、病気療養中という理由で社会的なつながりをなくしてしまったときのSNSでの語らいの時間でもありました。

好きなものが同じで仲良くなれたときに私は居場所を得ることができましたし、日々の渇きを満たすこともできました。今だってそうです。こうして書いていることで誰かとつながっていると思うことができるのです。共感しあうこともできます。

けれども、一方で私は「好きなものが違っていることで感動する」ということもあります。それは例えば自分の気付いていなかったことだったり、自分では到底考えつかないことだったりすることです。

そして一番感動の気持ちが大きかったのは、本当は自分が心の奥底でずっと欲しかったことを言われたときでした。



とあるSNSでの猫かぶり

そのことばを口にしたのは私にとってのSNSのフォロワーさんです。口にしたのは、というと語弊があるかもしれません。実際には文字でしかメッセージをやり取りしていないのですから。

出会ってしばらく、私は何故か彼の中で神聖化(?)されていて「スピカさんは可憐な感じでいいね」とかよく言われていました。それはおそらく当時かなり猫をかぶっていたからなのでしょう。私は「いつかばれて嫌われたらどうしよう」とびくびくしている面もありました。

私たちはやはり同じものを好きで集まっていたのですが、雑談をする時間のほうが多かったです。私はそこで他のフォロワーさんの話をよく聞いていました。何故なら、自分が主に病気療養中で活動できないからで、要するにそうすることしかできなかったのです。

学生のフォロワーさんは悩める子羊さんが多く、いろんな話を聞きました。今となってはもうはっきりとした内容は覚えていませんが、勉強中の息抜きにと顔を出している人はかなり多かったです。

そして先程のフォロワーさんはどうやら当時ブラックな企業で働いていたらしく、いろんなところに出張に行っていてほとんどSNSに顔を出さないというタイプでした。忙しすぎて毎日へろへろだとたまに来たときに言っていたくらいです。


琴線に触れた「美しさ」

その日私は別の場所で起こったことでものすごく落ち込んでいました。たぶんちょっとした諍いだろうとは思います。時間が経てば自然に解決するようなことだったのでしょうけど、問題は私はどうも物事を考えすぎるたちだということです。

私はSNSにそのことを少しだけ書きこみました。内容は詳しく言わずに、あくまでもぼやいているくらいです。するとすぐに返信がありました。あのフォロワーさんからでした。そのまま落ち込んでいる内容についてそこそこ話します。

話し終えてから楽になった思いもありました。けれども、私はどちらかというと猫をかぶっていた場所で自分の弱みをみんなに見せてしまった、ということが怖くてたまらなくなりました。私は慌てて取り繕おうとします。

「普段はこんな風に落ち込んだりしないんだけど、他にもいろいろあって……いきなりごめんね。もう大丈夫だから」
「無理しなくていいよ。人間って弱いし、こんなこともあるって。それにいつも話を聞いてもらっているし、これくらい大丈夫」
「ありがとう」
「それにさ、少しくらい歪んでいたり崩れていたり欠けているくらいの方が人間って美しいと思うんだよね」

その瞬間、私は返信しようとする手が止まりました。なんだかはっとさせられたのです。そしてこの人はなんて美しいことを言うんだろう、としみじみと感じ入りました。


それが完全じゃなくても

私にとってそれまでの「美しい」とは主に整っているものであり、人であるのなら美女やイケメン。宝石であるならより輝いているもの。水であるなら澄んでいるもの――そんな風に考えていました。けれども、彼は違っていました。

私はその言葉から「いいところも悪いところも受け容れてこそ。それが清濁併せ呑むということ」という印象を一番最初に受け取りました。

そしてさらに飛躍して「欠けているところがあるからこそ、満ちている部分の美しさが際立つ」――例えば「強い光を表現したいのなら同じくらいに暗いものを隣に置かないといけない」といういつか聞いた話を想像しました。

ほとんどの人がそうかと思いますが、私もいくつものコンプレックスを抱えています。これを直せたら、あれも直せたらと限りなくあるそれらを数えては落ち込むことがよくあります。それは今も同じです。

それでも、完全な美しさだけを求めている人ばかりではないんだということに私は安心しました。自分がその場で猫をかぶっていたということもありましたが、なんだか私の今までもこれからも明るく照らしてくれたような言葉に思ったのです。

これがはじめて他人の美意識に感動した瞬間のことでした。


心の中の宝箱で今も光る

一番驚いたのが、このことばを言っていたフォロワーさんはそのころまだ20歳だったということです。なんて悟りきった人だったんだろうと思います。今風にいうと「人生、何周目ですか?」でしょうか。

欠点があって当たり前。そのくらいのほうが美しいんだよと彼は教えてくれました。きっと、誰かの欠点を見てもすぐに離れたりしない器の大きい人だったのだと思います。実際に話していてもそんな印象を持つ人でした。

この言葉は私にとって今でも思い出すと心が温かくなるものであり、人生における宝箱のような場所にひっそりとしまってあるものだったりします。今回覗いてみても、未だにぴかぴかと光っていました。

きっとこれからも光り続けていくのだと思います。


ここまで読んで下さってありがとうございました。




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