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本屋さんアドレナリン分泌選手権

本屋さんで「アドレナリン分泌選手権」が開催されるなら、ぜひ関東代表で出場したい。全国で苦戦しつつも、意外といい線行くんじゃなかろうか。
そんな妄想をしてしまうくらいには、本屋さんでアドレナリンが出るタイプだと自負している。心臓がドクドク動いて、自分自身が高揚していることがちゃんとわかる。私にとって特別な場所、本屋さん。
 
小さい頃から本という本に目がなかった私は、家族から「買い物に行くよ~」と声を掛けられるたびに、『その買い物先は本屋さんが店内にあるお店か、それともないお店(スーパーなど)か』が気になる子どもだった。なんて面倒くさいちびっこなんだろうと思うが、正直なところちびっこの私は大人になった私の中にもまだ現役で存在しているので、私の中で「お店」とはそれすなわち、「本屋か、それ以外か」であるのだ。(それはだいぶ言い過ぎたな……私の中のちびっこも、もうちょっと、寛容な大人になりました。本屋か、カフェか、文房具屋さんがあればなんとかなります)

そんなわけで、昨今の「紙の本が売れないニュース」や、「書店の不況」などの議論は、バリバリの当事者として捉えている。住む町から本屋さんが消えてしまったら、私は生きていけない。(あと、本が読めるカフェも)
電子書籍やネット書店の便利さは重々承知していて、0時になれば新刊が読める利便性や、ほしい本が家に届く快適さは本当に有難い。けれど、本屋さんが共存出来ないとなると別問題で、どうにか存続してほしいと切に願っている。好きな本屋さんの閉店ニュースは文字通り息が止まるので死活問題だ。(余談だけれど、大好きだった「日比谷コテージ」閉店のニュースを聞いたときは、文字通り息が止まって冷汗がでた。)
電子書籍が流行り出した頃、電車の広告を見て、なにおうっ、と、思ったことがある。
もううろ覚えなのだけれど、確か、その広告には「本が好きな人は必ず選ぶ」みたいな趣旨の見出しが大きく出ていて、何冊でも手軽に持ち運べることや、かさばらないことを売りにしていた。すぐに欲しい本が手に入る、とか。
 
『そうだろうか』
 
と、朝の満員電車の中、私はその広告とにらめっこした。
この広告がいう内容は、「本が好きな人」じゃなくて、「読書が好きな人」じゃないだろうか。純粋に「本」が好きな人は電子書籍を選ばないのではないか。なぜなら、欲しいのは本の「中身」だけじゃなくて、装丁とか栞とか、ページをめくるもどかしさとか、誰かと貸し借りした記憶とか、大切に持ち歩いた思い出とか、そういうものを全部ひっくるめて「本」だと思っているから。
本が好きだ。そして思い入れの強い本ほど「紙」でほしい。
私よりずっと紙を愛する大学時代のゼミ教授が、
「紙でなければ、古来の文学は現代に何一つ残らなかっただろう」
と、快活な江戸っ子節をきかせて、電子書籍の是非を話していたことを思い出す。電子の文学は、電気の存在が必須になるので、もし電力供給が途絶えれば消失する。ましてやハードが変われば、存在していても再現が出来ない。それ単体で存在することが出来ないのである。(『紙も燃えたら終わりじゃん』という議論は、一旦さておき。)
 
就活中に、出版社のエントリーシートを、文字通り死にそうになりながら何通も書いた。(一社につき、最低でも5枚以上提出を求められた記憶がある。)
出版社によって、「電子書籍を推奨する」ものと、「紙媒体を支持するもの」と、書き分けた方がいいということは、インターネットの情報で知っていた。
電子書籍を推奨するのは簡単だった。「利便性」というワードは万能で、ゆるぎがなくて、客観的でもあるので、手を変え品を変え、いくらでも書けた。
 
難しかったのは紙媒体を支持するものだった。
「好きだから」は、個人の主観に過ぎなくて、理由として少しでも突っ込まれると穴だらけだった。そもそも「紙媒体」が斜陽といわれている業界の中で、学生の個人の主観なんて吹けば飛ぶような理由だ。
なんで、どうして、を、どこまでも無尽蔵に掘り下げる面接のことを考えて、私は紙媒体を何故手にするのか、四六時中考えた。
 
家にあるサイン本を眺めて、サイン本は電子書籍じゃ無理だ!と、思い当たっても、その反論として、「じゃあ買った人の住所にサイン色紙が届くようにしたらどう?」などと言われたらどうしようとか、紙媒体特有の手触りや動作を押そうとすると、「それすらも再現できる電子書籍が開発されたら、そっちに乗り換えるの?」とか。
答えの出ないことをぐるぐると考えて、あっという間に夜があけた。
主観じゃないもの、社会を巻き込んで言える「紙の良さ」ってなんだろう。
ずいぶん長いこと考えて、たどたどしくも結局私が行き着いた答えは「本屋さんがなくならないため」だった。
 
何かの「専門店」は、少しずつ世の中から消えている、と思う。
お豆腐屋さんも、八百屋さんも、今はほとんどがスーパーで事足りてしまうし、傘屋さん、靴屋さん、生地屋さん、文房具屋さん……と、そのもの「だけ」を売っているお店は、時代の流れの中で着実に息をひそめているようなに思う。
大好きなものだけが売っているお店というのは、特定の人にとっては必要不可欠な空間だ。
上手に息ができる。知らない街でも、本屋さんさえあればやっていける気がする。就活の面接前には、その企業の最寄駅近くに本屋さんがあるかを確認して、面接後は必ず寄って「就活生の自分」を「いつもの自分」にスイッチしていた。
好きなものだけ並ぶお店が持つ、安心感。それは何にも代えがたいと思った。
 
電子書籍が本当に主流になれば、本屋さんは簡単に消えてしまう。「利便性」は本当に強い武器で、もちろんそれを否定はしないのだけれど、利便性だけで出来上がる世界はどこか息苦しくないだろうか、とも思う。ただでさえ、ネットでの注文販売に押されていたりする書店が、「マーケティングとして」電子書籍に勝てるかというと、正直心もとない。
けれど、実物に触れて、冒頭を読んで、装丁やあとがきを含めて大好きになって、という、「本を選ぶ過程」が奪われてしまう。そんな未来を考えると、なんだかとても淋しい。
 
私の家には、もう自分でも数え切れないほど本がある。中でもお気に入りは、自分の机のすぐそばの、一番手の届きやすい棚に並べている。
サイン本は、埃がかぶらないようにガラス戸の中へ。古書店で手に入れた物や、サイン会で直接書いていただいた物や、プレゼントでいただいたもの。新刊発売のタイミングで運良く店頭でゲットできたものもある。人には貸せない、自分だけの宝物。
扉のついていない本棚には、貸してもいい本。誰かに貸して、反応をもらえた記憶と一緒に、共有できる宝物。
お気に入りの本ほど、お風呂に旅行にとどこにでも持っていく。本のしわしわは、私のお気に入りパロメーターでもある。サイン本はなかなか汚せないので、特にお気に入りの本であれば同じ本が何冊もあったりする。
どうか私がおばあちゃんになっても、本屋さんがありますように、と、これを書きながら誰かに祈った。


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