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普通じゃない私は欲望の乗り物となることを選んだ。

落ちる感覚がして目が覚めた。先程まで見た夢を覚えていないけれど、とても幸せな夢だった。だからこそ現実と夢の落差に心が着いて行かず、とても泣きたいような気持になった。

今日は朝10時に目が覚めた。そこからご飯を食べてすぐ睡魔に襲われてまた眠った。14時過ぎに目が覚めたけれどまた倒れるように眠った。そうして何度か睡眠を繰り返し、気付くと時計はもう20時を廻っていた。それでもまだ頭は睡眠を求めていたし、かさかさに喉が乾いていたけれど水を飲むのも億劫でただぼーっと布団の上で天井を眺めていた。

基本的に私は身体が丈夫だし筋トレを習慣としているためか体力には自信があるけれど、時々今日のように何時間も眠ることしかできない日もある。身体ではなく、心が休養を必要としているのだ。

もう原因は分かっている。これは何年も前に診断された精神病のせいだ。

私が心療内科に通い始めたのは大学2年生の夏だった。双極性障害Ⅱ型。そう診断されてからも大学には通い続けることやバイトなどの社会生活を送ることができていた。

見た目は普通の人と何ら変わりないけれど、実際この病気にひどく振り回されてしまうこともある。短い躁状態と長い鬱状態を繰り返し、希死観念が時折訪れる。2週間に一度の診察は欠かせないし、人より何倍も心が疲れやすい。耳や視覚からの情報を何倍も受け取ってしまい、忘れることができない。かと思えば、些細な事を忘れてしまう。常に倦怠感と憂鬱に苛まれているため、私の身体は人よりも長く眠り長く休むことを求める。もうこの症状と付き合いが長いので、ある程度対処することが可能になってきている。

でも時々どうしようもない波に襲われて身動きが取れなくなる時がある。今日もそういう日だった。

病気を診断される前の私は、自分のことながらものすごく努力をして成功を勝ち取る様な能力を持っている人だった。いじめに苦しみながらも勉強を欠かさず行いトップ校に進学できたし、地味な自分を変えるために辛くても少しずつ積極的な行動を取って人とコミュニケーションを取れるようになった。自分の弱いところを直視し、正面から対抗することで様々なことを変えてきた。周囲よりも身体能力も頭脳も優れていたし、私は頑張りたいときに頑張れる人だった。

でも今はどうだろうか。大学院に進学し、遅くまで研究をする精神力がもうない。それどころか週3日、たかだか6時間の研究ですら苦になっている。たまの休みですらひたすらに睡眠を貪り、自分のために勉強をすることすらしない。頑張りたいと思っても身体がいう事を利いてくれない。

来年から私はやっていけるのだろうか。週5日8時間。残業もして、人のために研究をして、そんな生活を続けていくことができるのだろうか。

身体を起こして壁に凭れ掛かると、荒れた部屋が目に入ってきた。確か皿も洗っていなかったし、洗濯もしていない。…この乱雑な部屋は、まるで私の心のようだ。表面上取り繕って、でも中身はぐちゃぐちゃで何一つ片付いていない。自分1人のことすら満足にできていないのか、嘲笑と共に果てしなく苦しくなった。

今の私は身体と心がバラバラになってしまっている。身体がただの魂の入れ物になってしまって、ひどく現実味がない。どろどろした黒い感情を何とか押し込んで形を纏っているけれど、身体を刻んだら全てあふれ出してしまいそうだ。足を付けているけれど間違いなく重力が働いていないような不思議な感覚になって、果てしない離人感に気持ちが悪くなった。

全員、とは言わないけれど大抵の大学生は親がちゃんとしていて、就職しても失敗すれば戻ることができるのだろう。働いていて心を病んでも休む場所となるのだろう。じゃあ私は?私はどこへ行けばいいのだろう。進んだらもう二度と戻る場所がない。失敗しても何処へも逃げられない。

今この瞬間の私は正気じゃないことくらい分かっている。唐突に訪れた鬱状態が偶々酷くて、時間が経てば波が退いていくことくらい分かっている。でも、疲れてしまった。必死に鬱をやり過ごし、自分で自分を律する時間に飽き飽きしてしまった。病気で人を傷つけないように何年も何年も温和な人間を演じていることに嫌気がさしている。どうして私は普通じゃないんだろうか。どうして病気になってしまったのか。何度も考えたけれどやり場のない感情だけが刃になって私に向かってきた。

きっと自分に厳しすぎるとか、メンタルが弱いとか人は好き勝手に言うんだろう。「普通なんてない。普通の人なんかいない」なんて何も知らずいいことを言った気になるのだろう。でも私は、そういう言葉の類が大嫌いだった。

だってもし私が怒りに任せてここで貴方に暴力を揮ったら?気を遣わずにストレートに罵ったら?きっと間違いなく狂人扱いするのだろう。口に出さなくても常にドロドロした感情を持っている。綺麗じゃない言葉が皮膚の下に隠れている。その状態が間違いなく私の「普通」であるのに、「普通なんてない」と宣う貴方はそれを糾弾するのだろう。どれだけ綺麗ごとを述べても、世の中にも個人の中にも普通というものは存在しているのだ。それが悪いことだとは思わない。

常に普通から外れてしまった人間はどう生きていけばいいのか疑問を持っていた。私からしてみれば大学を辞めて起業することも、休学してワーホリやボランティアをすることも今時腐るほどあるからありふれた話に過ぎない。そんな人がレールに乗っている人を批判している様がひどく滑稽にしか映らなかった。

金もなくて実家も頼れない、精神的にでかいものを抱えてしまった人間はどう生きていけばいいんですか?何に縋り付いて生きていけばいいんですか?頑張る力を失ってしまった人間は堕ちるしかないというのですか?確実にそういう人間は存在するのに見えないふりをしていませんか?這い上がった人間だけが美談になり褒められ、這い上がる途中で消えてしまった人間は屍になるしかないのですか?

誰が悪いとかではないけれど、ただそれでもこちら側の世界を知らない人が語る「普通」が憎たらしい。

ぐるぐると続くおどろおどろしい思考をひとしきり反芻していると、涙が止まらなくなった。辛い、苦しい、悲しい。楽になりたい。でも苦しんで死にたくない。じゃあ、こういう時はどうしたらいいのだろうか。

ただ自分が危険な状態にあるというのがわかったから、とりあえず立ち上がった。立ち上がって靴を履いて、近くの自販機で炭酸を買った。普段こんな時間に甘いものはとらないけれど、今日だけは。その場で蓋を開けて飲むと、目の前の踏切が下りた。

もしここで飛び込んだら何もかも無くなるな。ぼんやり眺めていると、炭酸の泡が自分の中で弾けていった。それは閉じた世界に風穴が開いたような感覚だった。沢山の魂を載せた電車が目の前を通り過ぎて、私の知らない場所へと猛スピードで向かっていった。

夏の夜のぬるい風と冷たい炭酸、死を考えた一人の自分と生きている多くの人間。このコントラストがなんとなく好きだな、と思ったらなんとなく泣けてきた。そういえば最近、何かを猛烈に好きだと思ったことがあったっけか。服やメイクが好きだったけれど最後に買ったのはいつだったっけか。本を読むのが好きだったけれど最近何読んだっけか。綺麗な景色が好きだけどなにを思い出せるのか。普通や義務というナイフを常に首に突き立てて、好きというものを手放していないか。

幸せや生きる力というものは好きの中にしかないのに。

そこでようやく辛い時もそうじゃない時もただ好きなことをして生きているだけでもいいかと思った。何かしなければ、役に立たなければ、人を許さなければという義務ばかりで生きていて、何もしない自分では生きていることを許されていない気がしていた。好きなことを追求する人間は欲望に支配されていていい加減な人間だと思っていた。

でも違う。生きるとは欲望にどう向き合っていくかという事でしかない。

もう4年も病院に通っている。何種類の抗うつ剤を試し、体調不良と戦いながら自分のコントロールを探している。こうなっても尚、普通であろうと努力して強気に振る舞っている。しかしながらこれは自分を虐めていることに他ならない。

病気になってからの私は常に自分を責めている。どうして、どうしてといつも問いを投げかけている。でもよく考えたら今に始まった話ではない。まだ病院を知らなかった高校1年生の冬、私はリストカットをしていた。やり場のない悲しみや怒りを自分にぶつけることしかできなかった。手段は違うけれど、中身は同じ。自分を傷つけるという結果に変わりはない。

私はこの後の人生一生病気と付き合っていくだろう。うつ病は完治と言わず完解というらしいから、今後も今日みたいな日は何回も訪れるのだろう。私は普通ではない。でもそんなときは自分が楽になれることをする。自分を無視して普通を追求することは、生きるという行為に背くことでしかないから。

アパートに戻り、薬を飲んで早めに布団に潜り込む。その日は久しぶりに穏やかに眠れた夜だった。

サポートしてもらえたら今後も頑張る原動力になります。よかったらどうですか?