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イネ文化と湿地 湖沼の生態系


<イネ文化と湿地 湖沼の生態系>

イネ科植物は氷河期にいち早く寒冷・乾燥地に適応した植物だが、いち早く水辺に適応した植物でもある。植物の祖先は海から川などの水辺から陸地へ適応したが、ついに水辺へと戻ってきたのだ。そのため、イネ科は乾燥地にも湿地にも多くの種が生息し、そのおかげで世界中でヒトの食糧にも日用品にも建築材にも利用されるに至った。

日本人の主食であるイネは湿地の雑穀とも言われ、モンスーン地帯で雨量が多い地域のみで野生種も栽培種もいる。東南アジアだけではなくアフリカにも別種のイネがある。原産地は東インド、中国、インドシナなど多数の説があるが、食用としたのはインドが有力だ。

イネ文化のある国では決まって女性が田植えをする。これは女性は生を産み育てる存在として尊重されていたためであり、その女性が稲穂をよく実らせ豊作にするパワーがあると考えられたためだ。そのためか江戸時代の絵巻物には女性が田植え中に泥を近くを通りかかった侍に投げつけているものもある。江戸時代の女性は蔑視されるどころか、侍よりも尊重されていたようだ。東南アジアの女性もまたよく働き、男性よりも力強く生きているように思える。

陸稲はイネというよりもアワやキビといった雑穀とほとんど同じで、ヒマラヤ山地にイネが伝わる過程で焼畑栽培と結びついた。掘り棒による点播き栽培は熱帯地域の焼畑とイモ栽培のスタイルとほとんど同じで、東南アジアでは湿地が少ない地域にも同じスタイルがある。川口由一の稲作栽培でも似たような方法で苗を植え付けていく。

近畿や九州北部などに平野水田農業が発達して古代国家が誕生したが日本では稲作が大規模に広がる前は、その周辺には湿地に大群落を作るアシが広がっていた。「豊葦原千五百秋水穂国」とは日本の美称であり、そこから「瑞穂」はイネが多く取れる土地を意味する。そのため、アシが多く生えている湿地はイネが多く採れる環境であり、耕作放棄地となった田んぼには数年も経てばアシが群落を作る。

水辺周辺で生物多様性が高いところは水底が浅い池や沼に近い湿地である。それを真似して作られた人工的なところが水田である。水田には植物の多様性は少ないが植物プランクトンが発生しやすい環境であり、昆虫や小魚が多く住める。

あまり深くなく栄養に富む湿地、溜め池、水田、スウェルなどは生物が利用できるエネルギーの貯蔵庫であり、生産力の高い養魚システムを支えることができる、肥沃な低地に設けられた底が浅い養魚システムからは、同面積の牧畜や酪農をはるかに上回る量のタンパク質を得ることができる。中国浙江(せっこう)省の水田養魚システムや日本人がドジョウやフナなどを捕まえて食べていたのは貧しいからではなく、効率的だったからだ。

ラオスやボルネオの山岳民族にはコメと淡水魚を重ねて、乳酸発酵させてつくる寿司のような伝統食、保存食がある。これは日本の昔ながらの寿司の作り方に似ている。もともと寿司は山間地の陸稲栽培と焼畑栽培の文化が複合した地域で生まれた可能性があるというのは面白い。

山間部でも水がひける地域では田んぼが開かれた。現在、ネパールや中国東南部、東南アジアなどの山間地でよく見られる段々水田、棚田である。こういった地区は水田にできる面積が限られているため、大規模集落にはならなかった。そのおかげで大規模な災害は防がれ、生活排水などによる汚染も避けられた。

肥料分が溶け込んだ雨水や人間生活によって生まれた排水はチッソとリンに溢れている。多くの湖ではこのチッソとリンが不足状態にある。そのため、湖水中にチッソとリンが増えることを富栄養化と呼び、その湖を富栄養湖と呼ぶ。

湖の中で一番生物多様性が高い場所は沿岸地帯の水草周辺である。自然界ではここに浅いところからアシ、ガマ、マコモという順番に生える。そこに根を張り、茎はを水面上に伸ばす抽水植物である。それよりも深いところには浮葉植物のアサザやヒシなどがある。さらに深いところに行くと植物全体が水中にある沈水植物のクロモやササバモ、エビモなどが生える。

アシやヤナギなど湿地に生える植物は水の浄化に効率良いことがわかっている。集落や上流から流れてくる栄養分を吸収し、流れ自体も緩める緩衝材となる。その根本付近には小さな魚や動物たちが住処とする。江戸時代の百姓たちは栄養分たっぷりの茎葉や枝を刈り取り、田畑に草マルチ(刈り敷)にして、その養分を利用して食糧を栽培していた。

水田で施肥されるチッソの約半分は脱窒菌によって失われるため、悪玉菌のように扱われるが、赤潮などの水質汚染地では浄化を促すために散布されることがある善玉菌だ。つまり天然の浄化装置の役割を担っている。

湖沼の中にも生態系がある。生産者である植物プランクトン、それを捕食する動物プランクトン。それらを捕食する小さな魚類や昆虫類に、それらを捕食する大型の魚類や水辺に集まってくる鳥たち。そして、魚類を捕獲する人間たちである。忘れてならないのはそれら生物の死骸や糞を分解する微生物たちもまた、湖のあらゆるところに生息しているのだ。

それなのに私たち現代人は水辺の生態系の話をするとき、いつも魚のことしか考えない。魚を保護したり、放流すれば魚の餌となる小さな生物たちはたちまち減少してしまうのだが、目に見えないからか誰も問題視しない。逆に肥料や生活排水によって湖に大量のアオコが発生すると人間に都合の良い生物が目に見えて減少するために大騒ぎをする。微生物や小さな生物たちはそれによって急激に増えるというのに。

水質汚濁問題では必ずと言っていいほど、チッソとリンの名前が出てくる。プランクトンは単細胞生物であるため、細胞を作るチッソと遺伝子を作るリンがそのほとんどを占める。そのためこの二つの物質が多くなるとプランクトンが大量に発生してしまい、水が濁ったように見える。

たとえ、微生物の力を借りてこのプランクトンを食べてもらったとしても、その食べた微生物が増えるだけだ。もしくは有機物が無機物に分解され、その無機物を他の微生物が利用して有機物に作り変える(つまりその微生物が増える)だけで結局何も変わらない。

湖や池に微生物を入れれば、水質が浄化されるというのは嘘である。人間の都合で作られ、人間が管理している下水処理場とはまるで違うシステムが働いている。なぜなら、下水処理場では水中の有機物を食べた微生物は大きな塊となって重くなり、処理槽の下部に沈殿していく。それを適宜、人間の手で除去しているからだ。農地や人間の身体の中で良い働きをしてくれる菌だからと言って、どんなところでも人間に都合の良い結果を生むわけではない。

大きな湖の周りではよくユスリカの大発生が起きる。蚊の仲間だが蚊の幼虫のボウフラと違って幼虫は湖や池の底や沿岸域の水草の表面にいる。また、成虫の姿は蚊にそっくりだが人間の血を吸うことはない。ユスリカが大発生すると春から夏にかけて大きな蚊柱となって交尾をする。これが窓ガラスや車のフロントガラスについて視界を遮ることもある。これがユスリカが迷惑害虫と呼ばれる所以である。

底が浅く水質汚濁が原因だと言われるのだが、正しくは豊富な植物プランクトンを幼虫が餌をするためだ。大発生したユスリカは交尾を終えるとメスは湖に行って産卵し、そのままそこで死に絶える。卵は湖の底に沈む。メスは大小さまざまな魚や昆虫、鳥たちの餌となる。

諏訪湖では下水処理場を作って水質浄化対策を進めた結果、アオコの発生が激減し人間の目標は達成した。そして、ユスリカの発生も少なくなったため、冬の貴重な蛋白源であるワカサギが減ってしまった。つまり人間は貧しくなった。逆のことを言えば、人間が湖に流していた大量のチッソとリンはアオコを発生させて水質の汚濁をしていたが、それをユスリカが解決していたのだ。そのユスリカを迷惑害虫として扱っていたが、それは害ではなく豊富な魚類を人間に与えてくれていたのである。

死んだ生物体は水底に沈み、底に留まる。水深が深ければ太陽光が届かないため植物プランクトンは利用できずに、水質が汚濁することはない。そのままならそれらは数千年かけて堆積岩となってしまうが、ユスリカのように水底に卵を落とし、幼虫がその死んだ生物体を餌とし、付加することで大陸へ、そして水面へと有機物を運んでくれる。こうして本来なら利用できなくなるはずの有機物を生態系の食物連鎖に組み込んでくれる。ヒトにとっては迷惑害虫だが、陸上生態系で見れば湖に流れていってしまった栄養分を大地に還元するありがたい虫である。

浅い湖や池なら風が水を動かして、底に溜まった有機物を攪拌するため、水質は汚濁してしまうがそれによって植物プランクトンは発生することができて、水底に利用できない有機物が溜まってしまうことはない。だから、水深が浅い湖は昔から漁業が盛んなのだ。

「魚がたくさん住めるような綺麗な湖にしよう」というのは生態学としてはあり得ない。綺麗な湖(澄んだ水質)では栄養が不足しているため植物プランクトンが生息できずに、動物プランクトンも、昆虫類も、そしてそれらを捕食して生きる魚も生きられない。

「水清ければ魚棲まず」という言葉があるように、水は適度に汚れていた方が魚の餌となる植物プランクトンを育む。綺麗すぎると現代人は喜ぶが、生物多様性が失われる。昔の日本では適度な生活排水の垂れ流しが生き物を育んでいた。現代は衛生環境への意識が高まり、エネルギーや資源を使って綺麗にしすぎている。江戸時代は浄水設備が不十分だったのが逆に豊かさを育んでいたのだ。その適度を測り、デザインすることができればヒトの労力は減り、生物多様性は増す。何事も中庸が一番だが、それが一番難しいことは科学者がよく分かっていることだろう。

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