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季節を知らせる草花と日本人〜春〜


<季節を知らせる草花と日本人~春~>

畑の職人さんたちはそれぞれに、季節を知らせる仲間を身近に感じている。
仲間といっても、それは雑草や庭木といった植物だったり、昆虫や獣だったり、
ときには風や太陽の温もりだったりする。
あらゆる生物のさまざま現象と気象や気候との関係を調べる研究分野をフェノロジー(生物季節学)という。

・梅
探梅という言葉は松尾芭蕉が梅を見るのではなく、探すことを発見し冬と春の間を表現したことが由来という。
昔から春を知らせてくれる花といえば、梅。春告草である。
もともと花見というのは梅を見ることで、奈良時代に遣唐使によって、日本に持ち込まれました。
日本の農家の家には必ず梅が何本か植えらえている。たいてい大粒種と小粒種のことが多い。
これは複数種を植えておくことで受粉をスムーズにすることでもあり、収穫量の差が出るなり年(豊作)と不なり年(不作)対策、さらに加工のしやすさに応じて使い分けるためだ。
梅干しは日本の最強の発酵食品の一つでもあり、民間薬でもあり、夏の癒しでもある。
どの梅加工品を思い出してもヨダレが止まらないだろう。
梅の花が咲く頃、農家はそわそわし始める。いよいよ長い冬を終え本格的な農作業が始まる。

梅が咲く頃に、ジャガイモを植える人も多いが霜が降りる地域ではまだ要注意。霜に当たると簡単に腐ってしまう。
農家の多い地方ではこの季節には天気予報で霜注意報がよく出る頃。
梅が満開にを迎えて以降が敵機になる地域が多いが、雪が降るような地域では桜が咲くまで待ったほうが良いだろう。
農家さんはトラクターなどで耕し、地温を上げ、ビニールマルチなどで保温をする人が多い。
ちなみに私は梅が5分咲きごろに踏み込み温床を仕込む。それに伴う落ち葉集めという名の道路清掃が私にとっての春一番の野良仕事だ。

梅の木には春告げ鳥のウグイスが止まり、まだ下手くそな求愛の歌を口ずさむ。
キジは甲高く鋭い音色でメスを求める。鶏は卵を抱く回数が増える。
猿やタヌキが里に下りて来る回数が増える。
そんな季節に平安時代の貴族たちは花見をしたのだ。その名残が茨城県水戸市の偕楽園だ。

花見はもともと貴族の中だけ行われる季節の行事だった。そして、平安時代に桜ブームが巻き起こる。
この時代は遣唐使の廃止により中国文化との交流がなくなったことで、日本独自の文化が築かれてた時代。そう国風文化。
その中で、桜を愛でる文化が生まれ、それが現代まで続いていると思うと、日本人と桜のつながりは1000年近く育まれているDNAの一部なのだ。

・桜

桜が咲くタイミング~葉桜までの間は農家さんにとっては大忙しだ。
桜の語源は「さ」が稲、「くら」が神様が宿るところ(依り代)だという。その語源の通り、桜が満開の時にタネをまき、全て落ちる頃に収穫する。
記紀神話における桜には天孫と結婚して子孫を繁栄させるという重要な樹木として描かれている。人々と天をつなぐ役割を持っていたようだ。

本来、桜といえば山桜でソメイヨシノよりも少し遅く開花する。今でも裸だった天然林に春先の山景色に、まるで綿菓子がついているかのような景色として眺めることができる。
お米は今でいう晩生で、現代のコメよりも2ヶ月近く遅く収穫するから、落葉と収穫期がみごとに一致する。
地域によっては山の神は田の神であり、山から田圃に降りてもらうという。

早乙女は「さ」「おとめ」で、女性の仕事だった。
宮本常一の記録・調査によると毎年この作業を女性陣は楽しみにしていたようだ。
そして、現代の女子会のように男性が聞くと気恥ずかしくなるような下ネタも当たり前だったそう。聞きたいような聞きたくないような。
田植えの早乙女は男性よりも、そして侍よりも強かったという。侍に泥を当てることも、田圃に引きずり落とすこともあったという。
中国地方に残る大田植えでは、一枚の田んぼに何十人もの早乙女が入り、笛や太鼓の囃子に合わせて音頭取り(サゲシ)がサゲ杖を操りながら音頭を取り、早乙女たちがそれに連れて田植え唄(書いてある本をサゲ本)を歌いつつ苗を植えていく。
これは古く神社に見られる御田植え式と似ている。またフィリピンやインドネシアにも楽器を鳴らし歌いながら大勢で田植えをする風習が残っている。
早乙女は稲の神様の化身というようなことなのかもしれない。
今では観光地や地域のイベントとしてしか早乙女の美しい姿も唄も楽しめることがないのはなんとも寂しい。
田植えは農作業でもあり、季節行事でもあり、文化でもあり、神事でもあった。
早乙女が「働き女」でないことがその証である。

またこの時期はコブシやモクレンも見事に咲く。東北ではコブシを播種桜、モクレンを田打桜と呼ぶ地域もある。
目安となる花は違ってもあくまでもサクラは神様が宿る木なのである。
民俗学者の柳田国男の研究によるとシダレザクラは神降臨の木として観賞用以上の存在として植えられていたという。

現代人のように、花見を宴会形式で行うようになったのが戦国時代を治めた豊臣秀吉。散る花びらに美しさを感じたのは武士にとって常に死と隣り合わせだからだったのだろう。
吉野や醍醐で戦国武将を集めた宴会をした記録が残っている。
全国で太閤検地を行い、しっかり米(年貢)を納めさせた秀吉は百姓出身。
幼い頃から桜と米をつなげる思想があったのかもしれない。

桜が咲く頃にはウリ科の野菜や春大根、春人参など多くの春野菜をタネを蒔くタイミング。この時期はまだ虫の活動は鈍い。
また、春の山菜の成長が早まるタイミングでもあり、鶏も卵をたくさん産むので、天ぷらが食卓によく並ぶ。
食べられる野草たちが次から次へと顔を出し、農家は日に日に忙しくなる。
お花見で食べる団子の三色、桃色・白・緑はそれぞれ桜・雪・草木の新芽を表しており、雪の間から顔を覗かす桜と草木をあらわしている。

日本人にとって桜の花びらは卒業、入学。引越しと就職など。別れと出会いを象徴する風景を演出する木だ。歳をとるたびに送る側と送られる側どちらも経験することで、桜の花びらに想う気持ちは変わっていく。

日本には桜の品種が100以上もある。その多くは鎌倉から室町、桃山、そして江戸時代に生まれた。
その背景には鎌倉幕府が興り、関東に高度な文化が生まれた背景がある。
なぜなら、花卉文化というのは世界的には貴族階級の楽しみと考えられているが、
花を見て楽しむのはその階級だが、実際に管理する、新しい品種を生み出すのは一般庶民だからだ。

実はこの観賞用の花としての桜は総称としてサトザクラと呼ばれ、
ほとんどがエドヒガン、山桜、オオシマザクラ、カスミザクラ、オオヤマザクラの雑種や変種である。
そして、この原生地が伊豆半島や房総半島など関東南部。

鎌倉時代よりこういった地域は開発が進み、多くの人々が住み始めた歴史がある。
そのなかで街から近い山は木が刈り出されて、開発が進んだ。
そのあとに植樹したものもあれば、鳥たちが運んだ種子があったのだろう。
今まで棲み分けていた種が混ざり合い、開発というストレスで変異が起き、奇形や変種、雑種がどんどん生まれていたに違いない。
そのなかで階級文化人の好みである種が選別され、少しずつ花卉文化が浸透していったのだ。

実は植物界にとって新しい種が生まれる背景には必ず適度な自然破壊あること、環境の変化というストレスがあることが条件として普遍的などである。
そしてそれはもちろん、そういった変異を受け入れる文化があることがベースにある。

桜が散りツバメが南から渡って来きて、穀雨が降るころから八十八夜、旧暦の春の終わり(新暦の5月前半ごろ)にはナス科などの夏野菜の種まき。
ほとんどの農家が苗を買うか温床で育苗しているので、定植が主な仕事。田んぼで育苗する昔ながらの水苗代ではこの時期にタネを蒔く。
タイミングは違えど、稲の仕事が一気に増える季節だ。
もうこの頃には虫の活動が多くなり、虫害も出始める。
それに合わせて、春の山菜は新緑の柔らかさを失い、食われまいとエグ味を持ち硬くなる。

昼間に畑に出れば、汗もかき、日に焼ける春の終わり。
雨があまり降らない時期でもあり、山間地では乾燥注意報が出ることもあるので、夏野菜の定植の前にはしっかり底面給水を。
春の日永を感じながら一息つけるまで農作業は続く。
~今後のスケジュール~

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