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「伊豆海村後日譚」(19)

 沼津駅で列車を降りた三留香は、駅構内の異様な雰囲気に眉をひそめた。
 この街で昨日夕方発生した警官殺傷事件は、浜松でも僅かにニュースに取り上げられていた。軽微な犯罪は相変わらず頻発しているものの、この国ではようやく重犯罪の件数はつるべ落としとなっていた。そこへきて元満海人民軍で現役暴力団組員のグループが、まだ挙がっていない犯罪者から娘を殺された過去を持つ警官を殺傷したという出来事だ。これが静岡県警一同の血をどれだけ沸騰させたか、香にも容易に想像がついた。
 しかし、本当に酷い時代だったと思う。
 故郷の村にあった高校は十年以上前に廃校となっていて、父親の意向もあって沼津市街地から少し離れた山あいにあった高校への進学を決めたちょうどその頃、『混乱の五年』が始まった。学校の近くの下宿屋で三年を過ごし、校門を出て下宿に戻るわずか五分の道程上で、彼女は卒業までに四度暴行され、一度堕胎した。
 その際医師は、彼女が二度と子供を身籠ることができない体となってしまった可能性をそれとなく示唆した。事情を誰何することなく、それはあなたの私生活が招いた結果なのだという内容の言葉を婉曲的に、しかし一方的に伝えられた彼女は、暴行犯以上にその医師を憎んだ。
 高校の同級生、特に同じ村出身の同級生には、自らの身に起こった出来事を徹底して秘匿した。混乱の極みが波及していた近隣地域ではロクにアルバイト先も見つからず、香はきつく眼を閉じながら、十六歳の少女が手っ取り早くカネを入手できる唯一とも言うべき手段によって、中絶費用を一人で捻出した。
 同じような被害に遭った女子生徒で一クラスできるぐらいの社会情勢下、あの子襲われたらしいよ、という校内の噂が耳に掠ることは気にならなかった。中絶の事実が田舎に残る父親や、その集落に住む噂話しか生き甲斐のない老人どもの耳に入りさえしなければ、それで良かった。
 下宿屋はパトカーの巡回ルートに含まれ、出奔した母親から受け継いだ美貌が警官の中にも多くのファンを作ったことで、彼女が卒業までに被った襲撃は結局四度で済んだ。社会的にはその発生件数のあまりの多さから、強姦被害の過去は「男女関係なく誰にでも起こり得る」ものと見做されるようになっていたが、もちろんそんな風潮が被害者の心をいくばくでも救う訳はなく、彼女が高校を卒業するまで、自らの命を絶った同級生は三人にも上った。
 彼女は高校二年の二学期から、自主的に制服を脱ぎ捨てた。スカートがどれだけ外部からの性的攻撃に対して無防備な衣服であるかを、四度目のレイプ後にようやく知った自分の間抜けさを呪った。その日以来今日に至るまで一度もスカートを穿いたことはない。教師に相談もせずタイトジーンズと汚いキャンバス地の厚手ワイシャツを制服代わりに通学し始めた香に、しかし誰も何も言わなかった。
 彼女は卒業式もその格好で貫き通した。ジーンズの中、くるぶしの箇所には小型ナイフを忍ばせ、それもまたその日以来今日まで彼女の肌身から離れたことはない。
 非番の警官が、彼女からの求めに応えて積極的に逮捕術を教えてくれた。合法的に三留香の体に触れる機会を、基本的には性欲を持て余した野獣と似たり寄ったりの若者であった彼らが逃すはずはなく、挿入までされなかった点だけがレイプ犯から受けた被害との違い、と言って差し支えのない経験もここで彼女は数限りなく受けたが、その頃には男という生き物に対する幻想は既に打ち砕かれていたし、私の体で喜んでもらえるならどうぞご自由に、という諦念以外の感情が湧き上がることもなかった。
 そうした屈辱と引き替えに、合気道や柔道を実践的にアレンジした逮捕術を彼女は二年で取得し、街中で試す機会にはこれまで恵まれなかったが、頸動脈を手刀で叩き相手を気絶させるぐらいの芸当は朝飯前となっていた。実弾を撃った経験は数えるほどしか得られなかったが、市中に出回る多種に渡る銃器の扱いも頭に叩き込んだ。
 卒業間際に申し渡された警官二名、同級生一名、教師一名からのプロポーズの言葉は、香にとっては何の意味もなさない文字の羅列でしかなく、その頃には『混乱の五年』も穏やかな後半期を迎えていたことで父親の説得に成功した彼女は、浜松で復活した美容師専門学校へと進んだ。
 伊豆海村を離れ、沼津を離れたかった。
 専門学校への入学と同時に、男子生徒からの熱波と女子生徒からの冷気を一身に集めた彼女は、今後自身に降りかかるであろう面倒を少しでも軽減しておきたいという理由で、言い寄ってきた男の中から最も女慣れしてそうな奴を選び、自分からアパートに誘い、自分から服を脱いだ。
「避妊具なしで大丈夫だから」
 その提案に見せた男のだらしない表情は、過去に見てきた多くの男のそれと全く同じ種のものだった。ただ、どれほどの低能であろうとも、自分が汗を流して腰を振っている時、呼吸を乱すこともなく乱すふりをすることもなく石像のように横たわったままのパートナーに下から冷めた目で見上げられれば、自尊心は傷つく。
 専門学校で過ごした二年で香は七人の男を交換し、それに相応しいあだ名を密かに頂戴したが、その間彼女のそうした反応の背景を問う男は結局一人もいなかった。「噂通りダッチワイフ以下だな」という判で押したような捨て台詞には、こいつらの語彙力と想像力は何なのだという失笑しか彼女にもたらさなかった。
 学校を卒業しても美容師としての職はなく、それ以前に職そのものが殆どなかった。それでも香自身よく自覚していたように、リクルートスーツの胸元を必要以上に開けた彼女が面接の席に座りひとたび控え目な微笑を見せれば、人間観察のプロなどという言葉を臆面もなくのたまって恥じ入る様子もない面接官のオッサンどもは競い合うように内定を乱発し、この五年の難局を乗り切ったとある信用金庫の浜松支店に彼女は難なく収まった。
 かくして彼女は今、初任給で購入した父親へのプレゼントを鞄に入れ、週末の休暇をそこで過ごすため、高校卒業以来一度も足を向けることのなかった故郷の村に帰省すべく、沼津駅で列車を降りたのだった。
 駅の改札を抜けても、眼光鋭い男たちの姿がちらほらと確認できる。
 ニュースで流れていたコンビニの前には、五人の高校生が屈強な体格の大人に付き添われるようにして立っている。そのうちの一人は顔中に包帯を巻いていた。昨日の事件被害者ご一行様であることは容易に見てとれた。
 警察から強制的に捜査協力を要請され、行き交う通行人の好奇の視線に晒されながら、ガキどもはそこに立ち続けていた。そこには被害者の人権もクソもなく、まるで警察が姿を現さない容疑者一味への苛立ちをこの哀れな子羊にぶつけているようにも見えた。
 彼らの学校の制服が自分を見舞った四度目の暴行犯グループが着ていたものと同じであることに気付いた途端、数年ぶりに足を踏み入れた場所で数年ぶりに噴き上がってきた記憶の生々しさに激しい吐き気を覚えた香は、その場に立ち止まり膝に手をつき、これも刑事であろう、異変を見て取った中年の男から「大丈夫ですか」と声をかけられた。
「大丈夫です。すみません」彼女は顔を上げ微笑んだ。今まではこれだけで男をどうとでもあしらってこられたのだ。しかしその朝対峙した中年男は、至近距離で二十歳そこらの女から差し出された魅惑の笑顔にも一切表情を緩めることなく、むしろその白い歯の裏に元人民軍兵士が隠れているのではと言わんばかりの目線を据えたまま、不愛想に短く告げた。「お気をつけて」
 香は六番バス乗り場までゆっくり歩き、八木橋行きのバスを待って乗り込んだ。
 身を投げ出すように席に座り、それでも動悸はまだ続いていた。
 そうか、あの高校の生徒をぶちのめしてくれたのか。
 元ボクサーとやらに対して湧き上がるシンパシーは否定できず、そんな自分を恥ずかしいとも思わなかった。
 
 バスが沼津市街を抜け、山道に入る頃、香は落ち着きを取り戻し始め、余裕を回復した感覚が「何かがおかしい」と脳に警鐘を鳴らす音を聞いた。
 乗客席の内装に異常は認められない。いつも通りの汚さだ。マフラーからの白煙も二年前と変化はない。運転手の仏頂面も昔のままだ。香はそれとなく車内を見渡した。紙土停留所から乗車し、女だけが途中下車したカップルの片割れ。白髪の老人。四十代おぼしき二枚目。五十歳前後の夫婦。ハイキンググループと思われる四人の老人。更に途中で乗ってきた親子は、既にバスを降りていた。
 何かは分からない。でも確かに、何かが。
 彼女は深呼吸して小さく頭を振った。疲れているのだ。あるいは二年ぶりとなる父との再会に、少し緊張しているのだろう。何も考えるな。悩み煩い、それで状況が改善されたことが、今までの人生で何度あった?
 バスは一時間半ほどで、終点の八木橋に到着した。時刻表が数年来変わっていないようなら、ここで二時間近く待って次のバスに乗り換え、伊豆海村に向かうことになる。
 老人四人組が談笑しながらハイキングコースの奥へと消えるのを眺めながら、寂れた神社の祠だけが空地の隅に残る「八木橋バスターミナル」に佇んでいると、違和感が更に体内で膨れ上がってくる。
 大丈夫、ここには中年の女性もいるし、私を襲ってきそうな男もいない。そう言い聞かせてみても、自分の第六感が掴んだざらざらとした感触は拭い去れない。
 雲一つない初夏の空。気温の上昇。中年夫婦の女性は汗をかくのを嫌がるように木陰へと移動した。伊豆の平均気温は通年で五年前から三度ほど下がっている。五月にこれほど暑さを感じるのはいつ以来だろう。遠くの木々が陽炎のように揺らめいた。
 と、白髪の老人が話しかけてきた。
「失礼だがお嬢さん」
 亡霊の存在に怯える者が、いざ亡霊を目の前にすると逆に安心する、という話を、彼女はその瞬間に思い出した。この白髪の老人こそが違和感の元であったことを知った彼女は、少し落ち着く。そして新たな惧れを覚える。
 それでは一体、この人は何者なの?
「何でしょう?」
「伊豆ヒルズという昔の別荘地をご存知ですか?」
「はい、もう誰も住んでいませんが」
 老人は相好を崩した。
「存じ上げております。昔勤めていた会社がそこに保養所を持っておりましてな。自家用車で行ったことは何度かあるのですが、今はこんな時代だ。昔の夢の跡を見に行こうと思い立ったのはいいが、これほどまでにバスが不便だとは予想もしておりませんでした。ここで次のバスを待っておれば宜しいですかな?」
「私もこれから伊豆ヒルズがあった村に帰るところです」
 緑に囲まれたバスターミナルの空気が、一瞬ざわりと揺れた。香は確かにそう感じた。
 老人と自分以外にバスを待つ四人の乗客。
 皆一様に耳をそば立てて、私たちの会話を聞いている。自分も伊豆海村に帰ると答えた瞬間、四人は同時に息を吐いた。嫌な疑念が胸元を浸してくる。実はそのことにさっきから気付いていたのだ、それを理性が押さえつけていただけのことだ。
(皆さん、お知り合いですか?)
 喉元まで出掛った言葉。『混乱の五年』で生ける屍となった自分の本能が、それを喉の奥へと呑み込ませた。長い二時間になりそうだ。
 香は念の為に父親にメールを打っておこうと携帯を取り出し、数年前からそうであったように、今日もまたその空き地が圏外であることを絶望的に再確認した。
 
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