見出し画像

中国人が見た日本:【下関条約】締結地の訪問考察(2)~交渉舞台の復元

日清講和記念館は、もともとは茅葺きの小屋だったものを、何度かの改修を経て現在の姿になった。 記念館の正面玄関の右側には、下関条約に調印した日中両国の全権公使である李鴻章と伊藤博文の銅像がある。

近代史の采配を振るったこの二人は、1880年代に中国で出会った。伊藤博文は、中国に「直ちに改革をしなければ、必ず日本に追い越される」と進言した。条約から10年後、歴史は伊藤の「ビジョン」の通りに進んでいった。 二人が日本で再会したとき、中国と日本の関係は逆転していたのだ。教師と生徒の関係も逆転し、国の総合力も逆転し、文化的・心理的アイデンティティさえも逆転していた。

多くの日本人は、中国の伝統文化の影からようやく抜け出したと感じ、その後の日本は「我らこそ」と自分たちの道を進んだ。その結果、八ヶ国連合軍による中国侵略で重要な役割を果たし、その数年後にはロシアと戦争し、最終的には第二次世界大戦を始めた枢軸国のひとつとなり、世界の人々に計り知れない大混乱をもたらし、日本国民を戦争のどん底に突き落とし、国と政府の間違った判断のためにひどい代償を払わされた。

記念館に入ると、中央に交渉の場面を復元したものがあり、椅子は天皇陛下から贈られたものと言われている。 李鴻章、李経方、馬建忠、伍廷芳、呂永銘という中国側の交渉代表者のプレートがあり、この場所を再訪した筆者は、ここで土地割譲と補償のための異常な交渉が行われたのだと察することとなった。

入口左手の壁には、李鴻章と伊藤博文の書が飾られている。 李鴻章はどんな思いで「海岳煙霞」という言葉を書したのだろう。 このときの伊藤博文の心境は、言うまでもなく李公とは大きく異なっていたに違いない。「广陵一夜忽天涯,重见芙蓉杯上披。关左风光不须问,朝晖破晓出云帷」。 伊藤の満足気な心情が、書から溢れてくるようだ。 (続く)

【出典】https://www.toutiao.com/article/7105683671411098153/
【翻訳】松本忠之

いいなと思ったら応援しよう!