爪あとでなく、足あとを残してほしい。安芸高田市の石丸市長に期待すること!
広島県安芸高田市はYouTubeの登録者が20万人。日本の自治体の公式チャンネル登録者数で日本一を誇る中国地区の田舎町である。
人口2万5千人の小さな町の公式YouTube channelがなぜ20万人もの人から登録されているかといえば、それは今や日本中から注目を集めている論破王、石丸市長の影響である。そして、僕の本籍はこの安芸高田市にあるのだ。
noteのお題に“ふるさとを語ろう”というタイトルがあったので、この町と名物市長についての私感を綴ってみることにする。
地元愛がなければ。市長にはなれない
まず最初に、結論を述べる。僕にとって、この町は厳密には故郷ではないということと、石丸市長すげえな!とても真似できない、ということである。
石丸市長の政策や、取り組みが凄いというのではない。正直いうと、そこを語るほど石丸市長の考えをちゃんと勉強している訳ではないからだ。
この記事が石丸市長の目に留まることはないだろうが、もし目に触れるようなことがあれば、勉強が足りませんね、出直してください!“恥を知れ”とまでは言われなくとも0,5秒で瞬殺されることとだろう。
僕が、すげえな!と思うのは、なにを於いても石丸さんのキャリアで、この町の市長になろうと決意したことである。
故郷でない故郷、安芸高田市
実は、僕はこの町に対する愛着や、ノスタルジーを持っているわけではない。持ってみようかなと少しは考えてみたこともある。かなり真剣に悩んだが無理だった。
愛着がないのは、この町が悪いわけではない。そもそもこの町にちゃんと住んだことがないのだ!
ならば、この企画に投稿する資格がないのだが、本籍のある場所であり、自分のルーツを持つ場所ではある。
ここは、父の実家である。
父はここで生まれ育ち、京都の大学に進学した。そして、学生時代に母と出会いそのまま京都で家庭を持った。僕が中学3年までは家族は京都でくらしていた。僕にとっては、この町はもともと夏休みに里帰りをする田舎という位置付けだったのである。
ところが、僕と妹が高校、中学進学のタイミングで、祖父母の介護もあり、一家で引っ越したのだった。
妹は地元の中学に進学したが、僕は進学をした広島の学校で寮生活を始めた。週末や長期の休みに入ると帰省するのだが、自分の家という気はしない。なんともよそよそしく、そして退屈だった。
夏は、見渡す限りの空の青と田んぼの緑、山での虫取り、川での魚釣り、夜はカエルの大合唱に蛍の灯、降るような星空。避暑地としては申し分ない。しかし、生活をするとなるとすぐに飽きてしまう。
冬は寒く、京都では見たことのない量の雪が降った。幼い頃は雪合戦や雪だるまなども楽しかったが、高校生の僕にとっては、なんだか閉ざされた空間に取り残されたようで息苦しく、やはり退屈だった。
隣の家までは徒歩で5分くらいかかるほど離れている。買い物は生協か、個人経営の量販店が1件あるだけで友人もいない。
それにも増して、憂鬱だったのは、嫁姑問題の勃発により、家庭が不穏な状況となっていたことだ。母は。祖父母との考え方の違いにストレスがたまり、精神が少しずつ消耗していった。
さらに嫁姑の関係以上に、母にとっては田舎独特のルールと、しきたりによる人付き合いの難しさのなか、逃げ場のない毎日が苦しんでいた。
そんな家庭にも窮屈さを感じ、高校を卒業して大学は広島から離れた。それでも学生時代はたまに里帰りして、なんとかこの田舎町を満喫しようかなとも思うのだが、やはり3日もいれば飽きてしまう!
社会人になって、地方都市の街に数ヶ月単位で居住するような環境の仕事だったので、地方地方の楽しみ方というのもわかるようになった。それで、たまに父母の顔を見に帰っては、この地域の楽しみ方はないかなどと考えることもあった。しかし、やはり腰を据えてそこで生活するのと、そうでないのとでは大きな差がある、やっぱり退屈であった。
地域の再生は外部の人間にはできない。
それから何年も経って、仕事柄、地域再生のような企画をお手伝いするようなこともしてきた。
そこで学んだのは、どんな企画もプロジェクトも、その地域の人たちの自主性がなければ成功しないということだ。
現状に問題意識を持ち、本気でそれを打破し、必ずぶつかる抵抗勢力と根気よく対時し、味方につける、そんな中心人物が絶対に必要になる。そしてその中心人物は、地元愛のある人でなければ務まらない。
予算だけを組んで、プロジェクトを外部に丸投げのような場合、そのプロジェクトは間違いなく失敗する。お手伝いはできても、外部の人偏は所詮外部の人間だということは、仕事を通じて得た知見である。
この街は、僕にとっては田舎ではあるが、故郷ではない。外部の人間だったから愛着もノスタルジーも感じることができなかったのだというのは、随分大人になってから気づいたのである。
石丸市長は本当の救世主になれるだろうか?
現在の安芸高田市は、平成の大合併で高田郡に属していた6つの町が合併をして安芸高田市となった、現在の人口25,000人は、平均人口4,000人規て模の小さな町の集まりである。この町の歴史的人物として、戦国大名の毛利元就がいる。その本拠地であった場所なのである。
この町出身の有名人をネットで引くと、石丸市長は、毛利元就以降最も著名な人として紹介されている。アナウンサーの田丸美寿々さんの名前があるが、幼少のころの一時期を暮らしたことがある程度である。生家があり、ここで生まれ育った人物としては、450年ぶりの人物ということになる。
最も、石丸氏が脚光を浴びているとはいえ、それはまだネットの世界で注目を集めている一地方自治体の長としてで、今現在、元就のような後世に語り継がれるような実績がある訳ではない。
僕としては、例え市長が今後のキャリアの通過点の一つであったとしても、一過性のものではなくしっかりとのちに続く足跡を残して欲しいと願っているのだ。
なぜなら、退屈だと感じていたこの町に革命を起こす人物として適任だと思うからである。
石丸市長はこの地に生まれ、育った。京都大学を出て、三菱UFJ銀行入行後、アメリカの駐在員としてのアナリストの仕事をされていた。アナリストとは、企業や業界の財務や業績の分析、将来性の調査、業界の動向調査・分析を行う仕事。
業界のトップとのインタヴューも行うので、分析力、コミュニケーション能力に長ければならない。世界経済の最先端で、しのぎを削る経営者たちを相手にヒリヒリするような毎日だったろうと思う。
そう考えると、地方のマスコミの記者や、居眠りする田舎のおじちゃん議員など恐るにたりないのかもしれない。
安芸高田市には失礼な言い方になるが、なぜこんな田舎の市長になったのだろう、僕が石丸氏なら1億%選択肢しない道である。
でも、ここで生まれ育った石丸氏であるから、その理由はわからなくもない、そしてその資格も十二分にある。僕とは決定的にここが違うのだ。
実は、僕の父はこの地に里帰りして数年後、合併前の町の町議となり、合併直後には亡くなる直前まで、安芸高田市の市議を務めていた。もう18年も前の話である。
京都の大学を出て、就職をし、辞めて故郷に戻ったという父の経歴は石丸市長に似ている。父から政治の話を深く聞いたことはなかったが、京都から戻った父にとっては自分の故郷とはいえ、地元で活動するにはそれなりの抵抗や嫌がらせもあったようだ。
真意のほどは分からないのだが、飼っていた愛犬が毒殺された、なんて物騒な話をしていたのを思い出す。この町に限ったことではないが、利権や既得権益を持つ者は改革を嫌がる。それに立ち向かうにはエネルギーが必要だ。
今のところ、石丸市長は炎上商法で日本中の注目を集めることに成功している。
マスコミを敵に回し、大立ち回りで注目を集め、改革を行う姿勢はかつて橋下大阪市長の橋下劇場に似ている。橋下氏については、今も賛否両論あるが、大阪府と大阪市の軋轢を打破した功績は大きい!その点は、現在は大阪府民なので実感として評価している。
次回の市長選に出馬されるのかどうかはまだ未定のようだが、今後ますます人口が減少するこの町は、何もしなければますます沈下してしまうだろうことは間違いない。
40年前の若者が退屈だと思ったこの町が、あいかわらず退屈なままだとしたら、やはりそこは今までのやり方では変わりはしない。
この町の空気に馴染めず苦労した母と、この町で何かを成し遂げようとしていた父の墓のあるこの地だから、やはり僕にとっての故郷なのかもしれない。
だからより良い町にして欲しいと切にねがっています。石丸市長には、爪痕ではなく、しっかりとした足跡を残して欲しいと願っています。
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