春の多様性から人間社会のダイバーシティを考える
春の多面的な顔
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』という本のタイトルの表現は、農薬等の化学物質により生き物が消えた「静かな春」が来る恐ろしさを、ひしひしと端的に表す的確な言葉だと思う。
穏やかな日差しの中、鶯が歌の練習をする季節。お彼岸のお墓参り。タンポポが咲き、蝋梅が香る。
道端の何気ない自然の姿を見て初めて、春を改めて実感する。心が躍り、当たり前にある日常や自然への感謝の気持ちが芽生える。
春が「沈黙」してしまうような世界は、考えられない。
今年もまた、そんな当たり前の春を知れて良かった。
春は、嵐も来る。
2024年の今年には、東京に風速35メートルの嵐が来た。
穏やかな表情と、激しい姿の両方をあわせもっているのだ。
穏やかさだけでは、強くなれない。荒々しさを経験することで、よりしなやかに強く適応していくのが自然である。
生物が生き残るために必要なのは、「変化への適応力」であると聞く。
厳しい自然環境が生物に変化と適応を促し、多様性を発展させたのである。
その二面性が、生物の多様性を優しく受け入れている。
私は、この多様性を考えるときに、ダイバーシティ(多様性)という言葉が思い浮かんだ。
多様であることが自然
社会や自分を、自然の在りのままの様子に投影して考える詩や俳句、日本文学は昔から数多くある。
松尾芭蕉しかり、鴨長明しかり。よく行間を読めというが、文学では言葉以上の背景が余白の中に込められていることに驚く。作品の余韻の中に、一言では言い表せない情感や、無常観、そして当時の世相や社会情勢を表している。
海外の作品では、中国・唐代の詩人、杜甫の「国破れて山河在り」(『春望』)が日本人には馴染み深いだろう。
一般的に、「四季」は、多くの人が指摘する日本の季節の特徴であり、日本人の文化や思想に大きな影響を与えてきたとされている。
しかし実際には日本の中でも地域性があり、場所によって気候や習俗が異なることで、同じ日本人の間でもかなりの考え方や価値観の多様性をもっていると感じる。地域という枠組みの中でのダイバーシティがそこにはみられる。
私たちは、歴史や文化、言語などの教育の中で、潜在意識に「日本人」というアイデンティティが生まれ、日本人としての存在が構築されていく。だが、その中には「違う」とか、「その考え方は自分には合わない」と感じる人も、実はかなりの数でいるのではないだろうか、と考えている。
その「違う」という違和感をもつ人たちは、日本の中の様々なレベルや、色々な分野の広範囲に存在していて、孤立し、声を出すのをためらい、足踏みしている状態なのかもしれない。
あるいは、少しの勇気をだして一歩を踏み出し、声を上げているのかもしれない。
「違う」ことを受け入れて化学反応を起こすと、新しい発見や思想が生まれる。そんなダイバーシティの良いところを積極的に取り入れて発展しようとする国もある一方、現実の日本社会ではどうだろうか。
ある一つの正義の名の下に、多数派の意見で小さな希望の芽をつぶしてしまってはいないだろうか。
歴史が伝えるように、随分と時が経ってから「判決」や「事実」が覆される例も存在する。実際には、真実が歴史の中に埋もれていくことの方が多いのかもしれない。
アイデンティティの中で、「安心」を感じることも個人の精神には大切だ。心理的安全性があると、共同体の一部として、全員で一体となって動くことが上手にできる。その能力が、スポーツや組織などの特定のある状況下では必要とされることも事実だ。
しかし一方で、外に出て個として動くとなった途端にどうしたらよいのか分からなくなるのではないかという懸念もある。
私は、どちらかが良いというわけではなく、たとえ難しい問題だったとしても、常に第三の可能性、ハイブリッドを模索していくのが一番の理想だと思う。
物事は多面的で、視点や角度を変えてみれば欠点と思うことが利点になる可能性だってあるのだ。
春には、二面性がある。同時に、ダイバーシティもある。
人間社会にも、自然のように多様な在り方が許される場所であってほしい。
私たちの住む世界も、「沈黙の社会」にしないでほしいと切に願う。
そう考えると、『沈黙の春』は、私たちの社会へのアンチテーゼでもあると感じるのだ。
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