余裕のある人について
余裕のある人に憧れる。
常に焦ることはない。別に怠けているわけではない。むしろ、仕事は誰よりもできる。しかしそれをこなしてなお、余裕がある。いるだけで周りに明るさと活力をもたらし、もっと一緒にいたくなるような、そういう人である。
人間生きていれば誰でも、思うようにいかないことやトラブルが起こる。それでも動じない。淡々と生きる。
私はそんな人に憧れる。今までの人生で何人かそういう人を見てきた。実は所属研究室の教授もそんな人の一人だ。
言うは易く行うは難し。これはなかなか実践するのは難しい。もちろん、相当な人生経験の果てに体得されたものだと思う。
私は余裕のある人にはなれていない。一時的になるふりはできても。ただ、なんとなく余裕のある人になるための仮説はある。それは二つの視点を持つことだ。
二つの視点、それは目の前の現実と抽象的な視点だ。
まずは前者について。余裕のある人は目の前の現実を華麗にこなしていく。そこにはもちろんそれを支える能力があり、それと同時に思いやりがある。
例えば、自分が忙しいとき、暇そうな人を見れば多くの人はイライラする。多くの仕事を投げたい、と思うのが普通だろう。余裕のある人は違う。相手に痛みを与えない、ものの言い方を分かっている、そんな行動をとる。もちろん必要があれば自分が相手をカバーしながらも、相手の能も活かす方法を見出す。
余裕のある人に共通する特徴を考えると、特に相手を不安にさせないのが上手だ、という事に思い至る。そこにいるだけで与える安心感ともいうべきだろうか。最近の言葉で言えば、心理的安全性。それがあるだけで、周囲の能力が目に見えて向上する。仕事であれば失敗を恐れずチャレンジできるようなそんな力を与える。
後者について。それは、その聖人のごとき現実での行動を支える本人の世界認識。おそらく少し超越的。抽象的な視点というのは、目の前の現実を相対化する。目の前にあるものそれ自体は、あくまで仮初の世界。ある種のゲームのように見える。現実では自分の振る舞いはコントロールされる。
現実よりも抽象的で深遠な世界を感じている。例えば、宇宙の悠久の歴史、地球を俯瞰するかのような視点かもしれない。あるいは絵画や音楽などの芸術の世界、文学などの世界かもしれないし、宗教的なものかもしれない。いずれにせよ、真理に到達できなくとも、自らと自らの周りにある現実を無効化するかのごとき奥深さ。それを認識しているだけで、物事を一歩も二歩も引いてみることができる。
これら2つの視点を失わない。それが余裕に現れる。現実を素晴らしく生きるには、現実に依存しないことなのだろう。何かに「盲目的にマジガチになる」とき、人はそこに依存している。現実的なことに、ただ目の前のことに真剣になることそのものは良いことだ。ただ、それが盲目的なものでなく再帰的に内省されていることは、少なくとも余裕を持った人になるためには必要だろう。
一方、抽象視点だけでもうまくいかない。悟りを開いた人もご飯を食べなくては生きられない。人との関係がなければ死ぬだけだ。たった一人一度きりの実存を生きるパワーを、抽象的な視点を突き詰めた先に、得なければならない。仏教的に言えば、空観だけでは生きられない。仮であっても仮であるという感覚を持ちながら、真剣かつ真摯に、しかし依存することなく生きていく。
そういう人に私はなりたい。