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死ぬことは引っ越すことだと思った話

人が死ぬのは”悪い”ことだ。そう思い込むようになったのは何才ごろからだろうか。絵本やアニメ、映画などで、生き物はいつか死ぬという事実を知り、そして死=あってはならないこととして描かれている数々の作品に触れ、大人になった。

私も小学生の頃家族の死を経験し、ものすごく辛くて悲しい思いをした。こんなの最悪だ!と心が悲鳴をあげた。それでも世界では1日に何千人という人が死を迎えてゆく。多感な時期はそれだけで気が狂いそうだった。

ただ、今になって少し思うことがある。もし死が”多くの人を悲しみの底に突き落とす悪いもの”だという自分の認識が、少し違うものだったら、受け止め方もまた変わったのだろうか。

現在放映しているTVドラマで、気に入って観ている作品が1つある。

ストーリーの半ばで主人公の親友というそこそこ重要な登場人物が突然死に、視聴者はみな驚かされた。

何が驚いたかって死んだことそのものもそうだが、あまりにもあっさりとその死が描かれたことだ。

死を聞かされた主人公が病院で呆然とする姿こそ描かれたものの、お決まりといってもいい狂ったように取り乱す姿とか後悔して泣き叫ぶ姿とか、そういう描写は一切なく、葬式のシーンに至ってもBGMはジャジーで軽快な音楽が流れているという、新世界。

でもそれを見たときに思ったのだ。この脚本家の人は、そういうことが言いたいのかもなあと。


たまにSNSなどで身近な人を亡くしたという投稿に対し、「慌てて先に向こうの世界へ行ってしまったんですね」「また会える日まで生きましょう」といったコメントを見ることがある。私はそういう声掛けを目の当たりにしたとき、とても優しいなと、自分が家族を亡くした時に言われていたら少しは心が癒えただろうと感じた。

死ぬということは、天国への引越しなのかもしれない。

もちろん、大切な人の死は悲しい。何が悲しいって、同じ世界ではもうしばらく会えなくなること、声が聞けないこと、身体に触れられないことだ。カップルが遠距離恋愛になる時ですらみなおいおい泣くのだから、その遠距離がいつ終わるかは分からないと聞かされれば、寂しくて悲しくなるのは当然だ。

けれど、引っ越しをしていく相手に対して「引越しを止めてあげられなくてごめんね」なんて謝って泣く人はいない。「なんで引っ越したの!」と怒るのもおかしな話だ。それはいつかまた会えるということを知っているからだ。

愛する人が逝ってしまったとき、「どうして昨日喧嘩してしまったんだろう」とか、「もっと感謝しておけば良かった」とか、大抵の人は思う。例外なく当時の私も。でも今の私に言わせれば、きっとそれがどんなに予め分かっていた死だったとしても、同じように思っていたのだろう。「もっと◯◯しておけば」って。それはもう会えない、取り戻せない、償えないという気持ちが強くあるからだ。

その後悔の気持ちが過度になると、今度は自分の心を蝕んでいく。「前の向き方」が分からなくなってしまうのだ。悲しんだら良い、ひとしきり悲しんだら良いと思うのだが、その人が死んだことを否定して生きるのはきっといつまでたっても楽しくはなれない。

「天国は存在しない」という人もいるだろうが、私の考えでは天国は一人ひとりの心の中で存在する場所だ。自分があると言うなら、必ずある。

住む世界は変わってしまったけれど、私たちは一緒に生きている。




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