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もういい加減24時間テレビを変えてくれ

「もういい加減24時間テレビを変えてくれ…」

これはわたしがもう何年も思っていること。今年も24時間テレビが終わった。少しでもなにか変わっていたらいいなと思って見てみたけれど、やっぱりアップデートされていなかったな、という印象。

わたし自身「双極性障害」という障害を持っている立場であり、大学時代から障害者の権利について学び、考えてきた立場から、24時間テレビについて思うところを書いていく。


がんばらなくても生きていける社会に

一番に思うのは、障害者にがんばらせるのではなくて、「障害者ががんばらなくても生きていける社会にどうやったらできるか」を考える番組にしてほしい、ということ。

そして「それを考えるのは障害者ではなく健常者である」ということ。

どのコーナーでも「努力を惜しまなかった」というセリフがよくでてくる。障害があると努力を惜しまないといけないのか?むしろ努力をしなくても、障壁を感じずに生きていけるためにはなにができるのか?を考える番組でなければ、

単に「障害者というひとが社会にいるんだなぁ」ということしか視聴者に伝わらない。

そして、なぜか「障害者に対して健常者ができることをできるようにさせる」意図が強いと感じる。耳が聞こえないのにダンスさせるなど、健常者ができることをできるようにさせる必要はないはず。(もちろん本人たちがやりたいと思うことを否定するのは違うけれど。)

そして、生まれつき足が動かず、切断し、車いす生活を送っている中学生の男の子が「障害は、自分をなんとか、なにかできるようにさせてくれるもの(だと思っている)」と言っていた。

障害者自身が「障害はがんばって乗り越えるもの」と言っていたのがかなり酷だと思ったし、それを否定せずに流してしまうのも酷い話で、多くの障害者がそう思っているのだとしたら…と胸が痛くなった。

がんばるコンテンツだけでは、障害者みんなががんばれるわけじゃないのに、こんな風に自分も何かできるようにならなきゃいけないのか…と多くの障害者が思うに決まっている。

双極性障害を抱えるわたし自身も思うことだけれど、いつだって"闘病"できるわけじゃない。闘病なんてしてられっか!と思うことだってたくさんある。障害があるからってそれを乗り越えなきゃいけないわけじゃない。できないことがあったっていいのに…。

そして、障害やインクルーシブの専門家は関わっているのかどうか?についても疑問に思った。(関わっていたら「がんばる」ことをテーマに障害を扱わないのではないかと思うのだけれど…)


なにを伝えたい番組なのかわからない

毎回テーマみたいなものはあるけれど、そもそも視聴者になにを考えさせたい番組なのか、よくわからない。人を走らせたり、障害者にパフォーマンスをさせたり、かと思えば深夜帯はバラエティだったり。

全体を通して学びや気づきもあるし、楽しいと思ってみてはいるし、統一感がないとはいえ「全体を通して楽しんでもらった結果募金が集まる」なら、それは意義のあることと思いつつ、

とはいえ、全体を通してなにを伝えたいのか?

・「人のあたたかさ」みたいなものを伝えたい?だったら障害や難病に寄った内容にする必要はないのでは?そして、障害者差別や障害者のしんどさは、人のあたたかさや思いやりだけでは解決しない。法律やしくみが整わなければいけないし、障害者ではなく健常者が、障害者が生きやすい社会にするために、

障害者に比べて生きやすい立場から、マジョリティーだからこそ声をあげられることもあるからこそ、健常者が変えていかなければならない。

・そして、ひとを走らせることにどんな意味がある?24時間起きて司会をしているひとたちは大変ではないのか?

それらはむしろ「がんばる」ということを強要し、障害者の辛さや人の生きづらさをむしろ助長するものになってはいないか?

・障害について考えてもらいたい?だったら他のいろんな障害にも触れるべき。 目に見える障害者だけじゃないのに、目に見える身体障害者や難病患者だけが障害者のように語られる。

なぜか難病であったり、事故による障害など、これは偏見かもしれないが「よりかわいそう」と思われそうな障害、テレビとして「映えそう」な障害を選んでいるように見える。

わたしのような「双極性障害」や「発達障害」など一見「障害者には見えない」人や、精神疾患にはフォーカスがあたらない。もっと沢山たくさん当事者がいて困っていいる発達障害や双極性障害などについても扱ってもよいのでは?と思う。障害者だと思われないこその辛さもあるのに。

・24時間ぶっ通しでやることにどんな意味がある?

たしかに1年のビッグイベント的にやるほうが募金は集めやすいのかもしれないけれど、もし少しでも障害者差別や社会課題の解決を目的としているのならば、日常的にそのようなことを考えられる番組をやることも大切なのではないか。

(そういう意味でやっぱり、ポップさも兼ね備えながら社会について伝えているNHKやEテレはすごい。)

そんな風に、毎回サブテーマ(今回なら「会いたい」)みたいなものはあるものの、それも含めた全体のコンセプトがよくわからない。


障害者の「ハレの日」ではなく「ケの日」を伝えてほしい

仮に少しでも障害や社会課題について知ることを目的にしているのであれば、

例えば下半身が不自由な人であれば、日常生活では排尿がだったり、健常者には想像できない不自由さがあるのに、そういうことは全く放送しない。

365日のうちの立った数日の、しかもがんばっている状態しか見せないけれど、それ以外の360日近くには障害者の日常がある。

障害者が、ハレの日ではなくてケの日、つまり「日常」で何に困っているのかは、車椅子ダンスをさせても見えては来ない。

もちろん障害者がやってみたいと思うことをサポートするのも大事だけど、日頃からチャレンジが出来てないのはなぜなのかを考えなければいけないし、 このままでは視聴者も他人事のままで、障害者のいる社会について自分事として考えられる人は増えない。

ただパフォーマンスするだけじゃなくて解決のための具体策などを、それこそEテレのようなポップさを持ちながら伝えてもいいのではないかと思う。

聴覚障害のある子どもたちのコーナーでは、「聴覚障害がある子たちが通っている学校」と普通に紹介されていたけれど、そもそも健常者と学校が分けられて普段健常者と友達になることもできないような状況が、そのままでいいのか問い直すでもなく、それが普通かのように放送されていたのも気になった。

そもそも分けられて教育されてきたから、助け合って生きていくことが難しくなって、障害者について知る番組をやらなければいけないような状況になっているのに。


車いすでダンスをさせても障害者の不安は解消しない

車いすの中学生が、番組のインタビューのなかで「車いすユーザーだから働けなかったらどうしようと思う」「(車いすでも働ける仕事として)医者になりたい」と言っていた。

そのインタビューを聞いて、自分がプロデューサーだったら、まず医者以外にも、というか多くの仕事が車いすでもできることをまず伝えるだろう。そして、車いすだから働けない職業があるのだとしたらそれをどうやってなくせるのか考えて、その子に教えてあげたいし、

そもそも今どきPCがあれば=手が動かせればある程度の仕事ができる時代。(手が動かせなくても使えるPCもある。)こんな仕事やあんな仕事だってあるよって伝えてあげたい。そして、車椅子でも楽しく働いてる人(たぶんめちゃくちゃたくさんいる)に会わせてあげたい。

それなのになぜか、なぜか車椅子ダンスをさせる。(彼がやりたいと言ったのかもしれないとはいえ。)車椅子ダンスができるようになっても彼の将来への不安は消えないはず。彼の不安は、健常者側が障害者を雇えるようにする、という課題からきているわけだから。

それを伝えなければ、彼の抱える、そしてすべての障害者の抱える問題は解決しない。

いくら愛があっても、健常者側が変わっていけるようになったり、知識を得て想像力を働かせられるようになったり、日常に活かせるための学びがあったりする番組でなければ、社会は変えられない。

そして、まずはパーソナリティー自身が障害を取り巻く問題やインクルーシブな社会とはなんなのかについて学ぶ必要があるのではないかと思う。(少しはやっているのかもしれないけれど。)

「ひとりひとりが想えば世界は変えられる」というセリフが番組のなかで出て来たけれど、思うだけじゃ社会は変えられない。

愛だけじゃ地球は救えないのだ。


100km走っても社会は変わらない

違和感だらけの24時間テレビ。でも唯一よかったのが、今回の24時間マラソンを走ったEXITの兼近さんが、「お涙頂戴とか苦手だし」と、番組の主役とも言える存在がある種今までの24時間テレビのあり方に疑問を呈するようなことを言っていたこと。

さらに、幼少期に貧困世帯で育ち「自分と同じような境遇にある子どもたちになにかできたら…」と思っている兼近さんが、100km走っておいて、「走ることが社会問題の解決にはならないとは思っている」と言っていたのも最高だった。

24時間テレビ後の特番でも兼近さんは「誰かを救いたいわけじゃなくて、発信しているなかでなにか気づいてもらうきっかけになれば(という感覚)。」「自分がどうにかしたいという、おこがましいことは考えていない。」とも言っていた。

ほんとにそうだと思う、なにかして簡単に社会課題が解決するならとっくに解決してる。それが難しいからそれぞれがちょっとずつ周りに小さな変化を与えていくしかない。

番組自体は変わらなくても、お笑い第7世代と言われる比較的若い世代の、社会課題の当事者でもあった彼がそう思っていること、そしてそれを意図してはいなかったかもしれないけれど、そんな彼をランナーに起用したことだけは、大正解だったなと思う。


いろいろ書いてきたけれど、24時間テレビを「なくしてほしい」ではなく「変えてほしい」と思うのは、やはりある種の期待があるからなんだろうなと自分で書いていて思った。

これだけ長く続いてきて、毎年多くの募金が集まり、障害や社会課題について考えることができる枠があるというのはとても重要なことだからこそ、変わってほしいと願うし、変えるために自分にできることはなにかないのかと考える。

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