小説『水蜜桃の涙』
「第3章 水蜜桃の香り」
まだ陽は昇っていないが、朝早い女たちが朝餉の準備をしているのだろう、いい匂いが台所の方からしている。
昨日膳を持ってきてくれた女中がうろうろしている僕に気づき、
「あらあら、起きなすったな。おはようございます。お疲れだったんでしょう、よおく眠っておいででしたからそのまま横になっていただきました。
安心してください。村長さんや先生も書生さんが寝ておられるのを見て、旦那様もお許しになって、いっしょに客間でお泊りですから。まだ朝餉には早いですけんど…」
と言いながらお茶を入れてくれる。
「あ、はあ、そうですか…。すみません、ご迷惑をおかけして」
恥ずかしくてかなり恐縮しながらお茶をもらう。
「そういえば、こちらの奥方様にはまだご挨拶も差し上げていないので、大変失礼しているのではと思うのですが、こちらにはおられないのですか?」
と、急に思い出して尋ねてみた。
すると女中は少し顔色を変えて、
「奥様は…ですね、ここの坊ちゃんがまだ小さい頃に肺病で亡くなられたんです。坊ちゃんはもう中学生におなりですが、ほんの数年前までは乳母とねえやがおりましたんで。
あ…まあ、私としたことが。あんまりべらべらとお客様に話すことではないですな」
と、あわててかまどの方へ火の様子を見に行った。
「いや、こちらこそ失礼しました。では外の井戸で顔を洗ったら、ちょっとその辺りを散歩してきます」
女中から手拭いを受け取り、井戸へと向かった。
冷たい水で顔を洗うとやっと目も頭もはっきりしてきた。
なんとも恥ずかしい。
教授たちの話を全く聞けないどころか、さっさと横になるなんていう醜態を晒してしまった。どう言い訳をしようか…。
もうすぐ陽が昇りそうだ。
東に見える山の稜線を、光が照らし始めていた。
夏だが朝早いから空気がとても清々しい。
いつもなら、寮の部屋でできるだけ寝ていたいとぐずぐずしている頃合いなのだが、早起きも気持ちがいいものだな。もう少し足を延ばしてみるとする。
邸からやや歩くと、すぐに鬱蒼とした茂みがあり、下草に笹がおおいに茂っている。
一枚摘んで、唇に当てて草笛にして吹いてみた。
しかし上手く音が出ない。高等小学校の頃は悪友たちとよく草笛競争をして、大きな音が出せて優位に立っていたのに。
悔しいからもう一枚摘んで、今度は力いっぱい吹いてみた。
すると、ピィ~~~!と思いのほか大きな音が出た。
と思ったら、「ヒャッ!」と驚いたような声が茂みの奥から聞こえた。
「だ、誰かおられるのか?」
尋ねるが、返事がない。なので、こちらから奥の方へ歩みを進めてみた。
肩ほどの高さの茂みを除けると、その奥に背を向けて座り込んでいる少女がいた。
「いやあ、すまない。人がいるとは思わなかったものだから、目いっぱい吹いて音を出してしまった。驚かせるつもりなどなかった」
少女を安心させようと、必死になだめる。
少しは安心してくれたのか、ゆっくりとこちらを振り向いたその顔を見ると、今度はこちらが驚く番だった。
昨日池の畔で見かけたあの少女だった。
見間違えるはずはない。
これまでに出会ったことがないほどの美貌だった。
「あ…その…大丈夫、かい?」
自分でもわかるが、きっと顔が赤らんでいるに違いない。
胸の動悸も早くなっている。彼女の全体を見た感じでは、やはりまだ少女の域を出ていないのがわかる。
しかし、顔だけを見ると一人前の女性のようにも思えるから不思議である。
気がつけば先ほどから少し甘い香りがほんのりしている。よく見ると、何も答えない彼女の手からは、一口ほど齧りかけの水蜜桃が果汁のしずくを垂らしていたのだ。
どうやら奥の方に野生の水蜜桃の木が1本植わっているのが目にとまった。
なるほど美味しそうに色づいた水蜜桃がたわわに実っている。
僕の視線に気づいたのか、彼女はさっと水蜜桃を持つ手を後ろに隠す。
「いや、すまない。どうか食べてくれ。邪魔をしに来たわけではないのだから」
と言う僕を訝しむように見つめる。
そんな彼女に見つめられて、馬鹿みたいに気おくれしてしまった。
「すみません、すみません!これ1個だけですから。どうか…後生ですから…」
と今にも泣きだしそうになりながら謝ってくる少女に、なぜそんなにおろおろしているのか不審に思うが、これはもうなだめないと可哀そうなくらい手が震えている。
しかしその声音は涼やかで、玲瓏たる美しい声であった。
「大丈夫だよ。僕はこの村の者ではないし、何も知らないから。
どうしてそんなに震えているんだい?この辺りに普通に生っている実だろう?どうぞお食べよ」
と精一杯の優しい声で話しかけた。
「あ…で、でも、書生さんはお邸のお客様ですよね?私が食べてしまったと、旦那様に言いつけるのでは?」
そんなことを心配しているのか?
そうか、ここは邸の敷地内になるのか…。他人様のものを盗ったと思われるのが怖いのだろう。
「聞き捨てならないな。僕がそんな嫌な男に見えるのかい?
約束するよ。食べたことなど話すもんか。しかし、たった1個の水蜜桃じゃないか。そんなに怖がるほど叱られるのかい?あの旦那さんに」
「いえ、旦那様は叱ったりはしないと思うのですけど、うちのお父ちゃんが怒るんです。旦那様のもんを黙って食べやがって!…って、ひどく怒るんです」
話を聞いていろいろと頭の中を巡らせた。
きっと彼女の家はあまり裕福とは言えないようだ。恐らくあの伊ケ谷氏には頭が上がらない関係なのだろう。
可哀そうに、こんな少女にまで要らぬ心配をかけるような立場なのか。
そうか…地主と小作農家の上下関係に違いない。
「それだったら、尚更黙っててあげないとね。僕は成沢清之助と言うが、君の名前を教えてはもらえないかい?」
と言い、道からもっと奥へ移動しながら、下草の朝露で濡れていないところへ座るよう手招きをする。
「私…輝子。本当に黙っててくれるんですか?」
「お輝ちゃんか。僕を信じてよ。ほら、それより食べないと、水蜜桃」
輝子の水蜜桃を持っていた手の力が入りすぎてしまったのか、やや潰れかけようとしており果汁がずっと滴っていた。
あわてて齧る彼女の横顔は、やはりとても美しくつい見とれてしまった。
だが話しぶりを見ていると、うんと幼い。
「お輝ちゃん、今日僕は東京に帰るんだ。午後帰る前に、また会えないかな。もっと君と話がしたい」
そう言った僕の顔を驚いたように見つめる彼女は、急に思い出したように立ち上がり、
「私、朝餉の準備をしなきゃいけなかったのに!遅れちゃった!もう、お父ちゃんたち、畑から帰って来ちゃう」
か弱い声音で言うなり少女は僕の方を見ることなく、慌てて走っていってしまった。
なんてあっけない。
もっと話せると思ったのに…。ここで会えたのも奇跡のようなのに。
約束も出来なかった。
もう少し上手く事を運べなかったかと思案するが、時すでに遅し。
自分の不甲斐なさばかりが頭の中を満たしてしまい、もう会えないのかと気落ちしてしまった。
そろそろ僕も帰らないと、あの女中が探しに来るかもしれないなと思いなおし、邸へと足を向けたのだった。
第4章へ続く
第1章はコチラ。
第2章はコチラ。
今回もお読みくださりありがとうございました。
次回もまたご訪問いただければ幸いです。
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