声。~乙武さんの記事を受けて思うこと
ひとまずこれを読んでいただきたい。
私はLGBTで発達障害者だ。
Wマイノリティ、社会的にも性的にも大衆派ではないという人間だ。
記事は“年齢で差別されて良いのか、もっと怒っていい”というような内容だが。
なるほど、怒りを露わにできる年齢でもあるのだろう。
僕はといえば、第一次成長期にはとっくのとうに声をあげるという事への諦めを学んでしまっている。
先日、放課後児童施設にお邪魔した。
現在もなお生きづらさを抱えた子供たちは、当時の僕と同じ顔をしていた。
正直、とてもショックだった。
LGBTであれ障害であれ、グレーゾーンと呼ばれる生きづらさであれ、マジョリティに対して何か変化を求めているわけではないのが根幹だと私は思う。
多様性。マジョリティには理解しがたい人間が、マジョリティと同じような当たり前を得たい。
それを、マジョリティにお伺いを立てて、同意や賛同を得なければ叶えられない。
というおかしな状況ではあるのだが、事実として現実はそうであるからお伺いを立てている。
それだけのことなのだ。
僕の一番の願いは、とある方のマネジメントやサポートの仕事につくことなのだが、どうにも現状でそれは叶わないらしい。
であればと、鬱や社会不適合性を緩和する養生と訓練をしながらでも可能な“自分が働き・似たような人間も働ける事業を”と思っても、結局はマジョリティに理解を求めなければならない壁が今まさに私の目の前にある。
過激な思想家たちの中にはネオナチなどと表現をする方も居られると噂には聞く。
さすがにその表現は私は受け入れ難い気持ちではあるが、その根底にある怒りや懸念なのだろう感情を察するに強く否定もしきれないのかもしれない。
今更声をあげるという事をして、あぁそうだこんな気持ちだったと幼少期を思い出す時間も増えた。
あの極上の楽しさと、筆舌に尽くし難い孤独。
それらが、今の私の毎日を彩っている。
今一度声をあげようとしなければ、私は「すみません」と謝ることで相手の好意にも軽率な扱いをしている事に気付きもしなかっただろう。
今もそれを知らずに肩身の狭い思いで生きている人に、私は何が出来るできるだろうか。
好きな人たち、大切にしたい人たちの、願いを叶えるにはどうすれば良いだろう。
毎日、そういう事を考える。
まずは自分、と。すみませんではなくありがとうを言える自分で居られる時間やメンタリティを増やす努力をしつつ、今日も1杯のコーヒーひとつにさえ幸いを感じる幸福な生を味わっている。
せめてもと、こうして思いを綴っている。
覚悟なんて、あるわけがない。
ひとりきりで抱えられるものなんてちっぽけだ。
だから助けや仲間が必要なのだ。
声が、愛が、差し伸べられる手が、施しの金が、あげればきりがないほどの様々が必要なのだ。
助けや仲間がいて感謝するからこそ、彼らのためにと彼らに応えようと奮起できるのではないだろうか。
彼らとて、私とて。
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