会話するには翻訳が必要って話し。
どうも、最近英語の勉強をせずに日常の中や音楽・映画で聞こえてくる英語をヒアリングして勝手に英語を学ぶ姿勢でいるクエッショニングの葵井柳宇です。そんな僕には、日本語で同じ日本人と会話するのにも幼い頃から『翻訳』を必要としてきましたよってお話しです。
僕は言語(単語)の持つ意味というものに縛られがちです。
幼少期…小学生になると増えた気がしますが、他人に簡単に死ねという人は、本当に死んで欲しいわけでもないのに何故「死ね」というのか全くわからずに苦しみました。
死が何かという理解、死んで欲しいという強い思い、それが同世代から感じ取ることが出来なくて……つまり、本気じゃないのだろう。と判断します。
すると今度は、本気じゃないのにそのワードを選ぶ理由がわからない。となるのです。
僕の頭はパニックです。
大混乱です。
大乱闘スマッシュブラザーズぐらいハテナと単語が脳内を飛び回ってます。
当然ながら「ほんとに死んでほしいの?」なんて聞いたら逆ギレか「は?バカじゃねーの?」って冷めた目がかえってきます。
まぁ、未だに『死ね』は強いワードすぎて理解できずにいたりはしますが。
で、そんなこんなな僕は相手の言うキーワードは僕にとってどのコトバを指しているのか?をまず『翻訳』する作業が必要だ、となったのです。
記憶にはないくらいずっとしてきたことなので、きっと物心つく頃にはやり始めた作業なんでしょう。
具体的には、一言で言うと
日本語を聞きながら、脳内で別の日本語にリライト
をしていくのです。
そうして仕上がった仮原稿を元にまた、今度は僕の感じたことを脳内で一度仮組みします。
それをリライト原稿と照らし合わせて、今度はなるべく『相手の言語に近いだろう日本語』にリライトしたものを口に出します。
順番に並べるとこんなん。
聞く(Aさんの日本語)
↓
リライト(僕の日本語)
↓
感じる(僕の日本語)
↓
Aさんの日本語を予測してリライト
↓
発言する
これが、幼少期からずっと続いている世の中でいう『日常会話』の最中の僕です。
海外経験のない僕が、国内で『日本語同士で』会話する際の作業です。
人と話したくない、接したくない、疲れる……そう感じて疲弊してしまっても当然だよなぁなんて今なら思います。
僕は最近の活動を『ゆっくり』だとか『歩く』だとかと表現しているのですが、これは僕が僕の日本語を『翻訳しないで』発言しているからです。
わりと最近の僕は、詩に昇華することや伝わる努力はしても『無理に翻訳しよう』とはしなくなってるなぁと感じています。
例えば僕がしていることをもっと上手く伝えようとしたら『病気をきっかけに本来の自分を取り戻し、夢に向かって邁進しているとこです!』とか『毎日一生懸命頑張ってます!』とか言えちゃうかもしれません。
でも、そう発言すると僕は自分の発言した単語に縛られてしまいます。
『もっと邁進しなきゃ』とか『お前ホントに一生懸命か?』とか。
そういったコトバって『走り続ける』と表現もできるけど、僕にとってはそれは文字の通りに『走り』『続け』なきゃいけないことになる。
休憩も余暇も挟むことが出来なくなって、例えるならば僕はそういったコトバを自分に課してしまうと50m走の全力ダッシュのままで42.195kmを走りきらなくちゃいけなくなる。景色を楽しむ余裕も与えず、ただ全力でゴールを目指し、過呼吸になっても酸素ボンベ咥えて走り続けるんです。身体のどっかがぶっ壊れてリタイアするかゴールするまで止まりません。
それは、誰もが想像つくでしょうけども、僕が潰れる道でしかない。
だから僕は、僕に言い聞かせることも含めて『ゆっくり』と『歩く』ように活動していると表現することが適切で、それが僕自身や僕を応援してくれる人のためでもあるのだと信じています。
僕の進度や速度は、他人からしたら様々な具合に見えると思います。
それはその人の尺度や感性だし、他者が扱う日本語なので、どんな速度に見えていてもどんな単語を使っていても良いと思っています。
ただ、僕がやっていることを頑張ってねぇなーって誤解してイライラしちゃう方には『こういうことしてるよ』って活動内容を開くことで和解を試みたりはしています。
代表的なのは同居の母で、いつもゴロゴロしてスマホ弄ってるようにしか見えない私ですが、日中にスマホの中でどんな活動を今日は行ったのかをホワイトボードに書き出していったら、徐々にイライラは収まってくれたようでした。
今では、詩をアップしているサイトのランキングを今日の成果がわりに報告しています。(ちなみに昨日はジャンル別でデイリー20位/月間15位でした)
少し話しが逸れてしまいましたが、そんな感じで僕は『僕と周りに優しいコトバ』を選ぶようになってきた気がするのです。
勝手に英語を勉強中な字幕映画も、既に翻訳済の文字とネイティブを比べながら見られるので、ヒアリングと予測(ライティング)とワードの意味に意識を向けて見られるので翻訳版よりも好きだったりします。
翻訳版は、疲れないし楽しいんだけど結局字幕版見ないと落ち着かない…ってこともあったりして。最悪の場合、映画を見るって趣味で自己嫌悪にまで落下するんです。本末転倒すぎる。笑
洋楽はひたすらヒアリングに集中出来るし、気にしなければ単語の意味に頭を使わずに作業に集中出来るので、音楽もとっても大事にしています。
そんなこんなで、ぐったりしてしまう日本語の翻訳は程々にして、新しい言語を翻訳することに頭を使ってる最近の僕なのでした。
んではまたー。
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