見出し画像

「である」ことと「する」こと でお悩みの皆様へ (解説のようなもの)

【高校の「現代文」の授業用に作ったプリントです。】

「権利の上に眠る者」


〈債権の時効〉

民法に次のような規定があります。

1 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
 一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
 二 権利を行使することができる時から十年間行使しないとき。

 「債権」とは「貸したお金を返してもらえる権利」のことで、「債権者」というのは、「借金の貸し手」(銀行とかローン会社とか)ですね。
 逆に、「借り手」は「債務者」と言って、「債務」=「借りたお金を返す義務」のことでして、法律用語では「借金」のことは「債務」と言います。皆さんが将来奨学金とか住宅資金を借りる時も、契約書には「債務」と書いてあって、「借金」という言葉は登場しませんから、よく覚えておいて下さい。

 それで、「債権にも時効がある」という話ですが、ちょっとびっくりしますね。借りた金は返すのが当たり前なのに。
 ただし、この規定は、「あなたに貸してるから、ちゃんと返してね」ということを全く言わないでほおっておいたら、もし裁判なんかになった時に負けますよ、という話で、借金は当然返しましょう。
 で、なぜ時効なんかがあるのか?という理由が、

自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック(論理)

なのだ、という話です。
 つまり、「当然返してもらえるはず」なんて思ってたらダメ。ちゃんと返してもらう努力をしなさい、ということです。
 「なんで貸してる人間が努力しないといけないの?」と思ってしまうのですが、そこで、丸山さんは憲法の話を持ち出します。なんかややこしいので、簡単に言ってしまうと、

自由や権利は昔の人がフランス革命とかでがんばって、人がいっぱい死んだりして獲得したんだから、それを守り、維持する人間も、がんばって努力しなくてはならないのだ

という話です。
 でも、「まあ、昔の人はご苦労様だけど、もう自由や権利は獲得したんだから、いいんじゃないの?」と思いますよね? すると、丸山さんは、こう言います。
 「自由や権利はもう手に入ったし、国民が主権者だって憲法にも書いてある。そうやって安心してボーッとしてると、自由や権利は突然なくなったりするんたぞ」って。
 それで、ナポレオン三世やヒトラーの例が書いてあります。

 ナポレオン三世の例は、フランスの話で、さっき書いたように、フランスは、フランス革命で、ルイ王朝を倒して、初めて民主主義を実現した国です。ところが、それからしばらくして、有名なナポレオンが皇帝になりました。その後、ナポレオンがいなくなって再び民主主義になったのですが、またまた甥っ子のナポレオン三世が王様になりました。
 つまり、一度民主主義になっても、結構簡単に壊れちゃうという話。

 ヒトラーはドイツの人。ドイツも第一次大戦で負けて革命が起きて民主主義になりました。そして、当時世界一民主的と言われる「ワイマール憲法」ができました。これは、日本国憲法のモデルと言われています。ところが、ヒトラーという野心家が、ナチスという政党を作り、一度軍事クーデターを起こす(ミュンヘン一揆と言います)のですが、失敗して、刑務所に入ります。その刑務所でヒトラーは「銃ではなかなか国家には勝てない。よし、選挙で勝とう」と考えて、その後、ゲッペルスという宣伝の天才を仲間にして、ものすごく上手な選挙をして、とうとう第一党になります。(現代の世界の選挙戦術のお手本はナチスだと言われています)それで、ヒトラーが首相になります。で、次の年、「全権委任法」という法律を国会に提案します。これは「国会というのは、いつもケンカばっかりしていて何も決められない。今、ドイツはピンチなのだから、そういうくだらないことをやってる余裕はない。この際、ヒトラーとナチスに一度全部任せてくれないか? ガンガンやっちゃうからさ」という法律で、かなりもめたのですが、結局可決してしまって、それでヒトラーは早速全ての政党を廃止して、独裁を始めてしまったのです。
 つまり、この教訓は、ヒトラーは民主的な憲法の下で、民主的なやり方で、民主的に民主主義を破壊した。‥‥ウソみたいですが、そういうことができちゃうんですね。

 だから「ボーっとしてないで、ちゃんと民主主義がうまく動いてるかどうかチェックしなくては=努力しなくてはだめだよ」と言ってるわけです。
 次に書いてある「自由を市民が日々行使することは一番困難だ」というのも、同じ話です。
 「自由を行使する=自由を使う」? なんかよくわかんないですが、この「自由の行使」というのは、「ちゃんと自由に生きよう」とか「ほんとに自由なのかチェックしよう」という、やっぱり「がんばって努力して自由であり続けよう」ということなんですね。そうしないと、たとえ憲法に「日本国民は自由です」と書いてあっても、ヒトラーみたいなずる賢い人に破壊されちゃいますよ、というお話です。
 その「がんばって努力する」なんですが、まあ、いろいろあって、たとえば選挙で自由や権利を守ってくれそうな人を選ぶとか、「ここのところは自由になってないゾ」と話し合ってみるとか、裁判するとか(最近の例で言うと「夫婦別姓を認めないのは違憲だ」という裁判がありましたね)、結構大変でして、確かに「甚だもって荷やっかいなしろ物」=「自由や権利や民主主義を守るのはとってもめんどくさい」のでした。


近代社会における制度の考え方


自分は自由であると信じている人間はかえって、自分自身の中に巣食う偏見から最も自由でない

 これはとても大切な考え方です。
 「無知の知」というソクラテス(有名な古代哲学者)の言葉がありますが、それと同じような考え方です。

 たいていの人は、自分は「ふつう」だと思っていますし、「自分は偏った考え方の人間だ」と思う人はめったにいないでしょう。でも、そこが落とし穴。実は、全ての人は偏っていて、偏見を持っているのです。
 納得が行かないと思うので、たとえ話をします。
 高校生のほとんどはスマホを持っていますし、かなりの人はiPhoneですよね? それが「ふつう」ですよね?
 でもね、たとえばソマリアという国を知っていますか? アフリカにある小さな国で、ずっと戦争を続けています。そのソマリアの国民の何人がiPhoneを持っているでしょうか? 確かにこれは、ちょっと極端な例かもしれません。でも、少なくとも、高校生のほとんどが10万円以上もするスマホを持っている国は日本だけです。「君たちはぜいたくだ」と非難してるんじゃないんです。ただ、私たちの「ふつう」はそういう「ふつう」だったりする、という話です。
 そういう、立場なり、経済状況なり、文化なり、宗教なり、いろんなことによって、それぞれの人の「ふつう」や「あたりまえ」や「常識」や「正義」なんかもかなり違っているのです。丸山さんが「自分自身の中に巣食う偏見(偏向性)」と言っているのは、そういう「違い」です。
 私たちはどんな偏り、偏見、偏向性を持っているのでしょうか?

男という偏り、女という偏り、日本人という偏り、親という偏り、子供という偏り、金持ちという偏り、貧乏という偏り、勉強ができるという偏り、できないという偏り、健常者という偏り、障害者という偏り‥‥。

 数えだしたらきりがありません。そして、その偏り(偏向性)を無くすことはできません。できませんが、それを意識することはできます。少なくとも「自分の『ふつう』や『あたりまえ』は、全ての人に共通の『ふつう』や『あたりまえ』じゃないんだな」と気づいた人は、自分の「ふつう」を他人に押しつけたりはしないだろうし、自分の考えと違うからといって他人をディスったりはしないでしょう。それを丸山さんは「相対的に自由になりうるチャンスに恵まれている」と言っているのです。この「自由」というのは、「自分の考えに縛られない」という意味ですね。
 ちょっと難しいですか? 要するに「一歩下がって冷静に物事を考えられるようになる」ということです。「iPhoneを持っている私は、恵まれているんだな」と自覚するということです。別に持っていたらいけないということではありません。念のため。

 次は、これは言葉が難しいですね。

民主主義というものは、制度の自己目的化-物神化-を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうるのです

 何じゃこれ?
 「制度の自己目的化」「物神化」とは何でしょう?
 「制度」とは、例えば、法律とか規則です。そして、全ての制度には目的があります。
 たとえば交通ルール。あれは「交通安全のため」という目的があります。信号を無視する人だらけだととても危ないですよね。
 だったら、皆さんにおなじみの「校則」の目的は何でしょう?
 はっきりとはわからないのですが、たぶん「生徒の健全育成のため」なんじゃないか?と思います。集団生活をうまくやったり、ちゃんと勉強できる環境を整える、という感じでしょうか?
 ところが、最近は「ブラック校則」とか言われてて、評判が悪いですね。つい先日も、寒い日でもコートでの登校を禁止してる学校があって、ニュースになってました。それで、記者の人が、「なんで禁止なんですか?」と聞いたら、「理由はよくわかりませんが、ずっと前からそうなってますから」と先生が答えてました。
 これが、「制度の自己目的化、物神化」というヤツです。
 わかりませんか? つまり、「校則を守らせること自体が目的になってしまっている」「校則という物(文章)を神様のようにありがたがっている」ということです。
 昔は、校門に立っている先生が「規則は規則だ。守れ!」とどなっている風景なんかがよくあって、これが典型ですね。もう「何のための校則」でもないし、「理由なんかない」んです。そうなると、「この校則は変だ」と思っても、「だったら校則の方を変えよう」という発想は出てこない。
 と、校則の悪口みたいになってしまいましたが、校則に限らず、全ての「制度」は、ほうっておいたら「自己目的化」「物神化」するのです。「それは民主主義という名の制度自体について何よりあてはまる」と丸山さんも言っています。つまり、ヒトラーの話で「ワイマール憲法」という民主的な憲法が「形だけ」になって死んでしまったように、日本国憲法もそうなる危険性がある。それを防ぐには「憲法はちゃんと生きてる? 形だけになってない?」と常にチェック(監視)し、おかしくなってたら批判することが大事なのです。それが「不断の民主化」=「民主主義をずっと中身のある民主主義であり続けさせること」なのです。これも、やっぱりかなりめんどくさいですけどね。

 ということで、やっとこさ「『である』ことと『する』こと」の話の登場です。
 これは、超簡単に言ってしまうと、

 「である」こと=「形」‥‥前近代の価値
 「する」こと=「中身」‥‥近代の価値

で、「形より中身が大事だ」というのが、近代の考え方です。
 江戸時代までの「前近代」は、基本的に「である」=「形」重視の時代でした。たとえば、

殿様はなぜ偉いのか? (答)殿様であるから

 つまり、「理由なんかない」のです。身分というのはそういうものなのです。その人が立派であろうが、愚かであろうが、そんなのは関係ない。初めからそう決まっているんです。「殿様の子に生まれた人が殿様になる」それが身分という「形」の社会なのです。 それが、明治になって、西洋の「近代」の考えが入ってきました。「近代」というのは「合理主義」の時代です。「理由のないもの」には価値を認めない。だから、殿様のような「偉いから偉い」という理由、根拠のない身分は打破されました。そして、あらゆるドグマ(宗教の教義のようなもの・決まり切ったあたりまえな考え=(例)「男は女より偉い」「年上は年下より偉い」)に対して「それは本当なのか?」と実験のふるいにかけ、そういう「先天的」(初めから決まり切っている)権威に対して、「本当に偉いのか? 値打ちがあるのか? 役に立つのか?」と「機能と効用(役に立つかどうか)」を問いかけて行ったのです。

× 社長は社長であるから偉い
       ↓
○ 社長は仕事をする能力があるから偉い
  する能力のある人が社長になる

 これが、「である」論理・価値から「する」論理・価値への変化=「近代化」なのです。

業績本位という意味


 「業績」というのは、先に書いた「中身」のことです。つまり近代社会では、「上役や社長やリーダーがえらい」のは、その人の「仕事をする能力、これまでしてきた実績」がすぐれているから、と考えるのです。

 このように、近代になって、「業績本位」=「形より中身」に変わったのは、産業や交通が発達して、人間の活動範囲、規模が大きくなったから、と丸山さんは説明しています。

 江戸時代までは、農業にしろ、商業にしろ、だいたい家族と親戚ぐらいでやってました。だから、顔も名前も性格もわかる範囲での人間関係しかなかったのです。行動範囲にしても、京都の人なら、せいぜい大阪ぐらいまでだったでしょうし、村から一生出たことのない人もいました。
 ところが、明治になると、産業革命で、大きな工場や会社なんかが作られて、東京や札幌に支店が作られたりしました。そうなると、あたりまえの話ですが、家族や親類だけでは仕事ができません。社員を募集して雇うようになりました。この社員というのは、もちろん家族や親類ではない「あかの他人」です。「これだけの仕事をしてくれたら、これだけの給料をあげます」という約束(契約)で集まって来た人たちです。
 こういう人間関係を「職能関係(仕事をする目的の人間関係)」と言い、このような組織や会社を「職能集団(仕事をする目的で集まった集団)」と言います。言葉は難しいですが、みなさんの「学校」もそうです。このクラスにいるみなさんは、家族でも親戚でもないはずです。「勉強をするという目的で集まったあかの他人の集団」なのです。これは、勉強が嫌いな人も含めてです。何が何でも勉強したくなかったら、そもそも入学しなかったはずですからね。「教師と生徒」の関係も、同じように「職能関係」ということになります。
 ここから考えると、このような集団の中の人間関係は、当然、「目的(仕事や勉強)に限った関係」になるはずです。たとえば会社の場合だったら、9時~5時という「勤務時間内での関係」であるはずです。
 ところが、実際は、夜の飲み会でも社長が部下にいばってたりします。休みの日に、河原町で出会った生徒さんが「せんせー」と呼びかけたりします。これは何でしょう? 仕事上の関係が、まるで親子関係や身分関係みたいになってるわけです。こういう割り切った人付き合いは日本人はどうも苦手みたいですね。
 また、「お茶くみは若い女性社員がする」という会社があったりもします。昔はほとんどの会社がそうでした。「仕事をする能力=中身」だけで考えるなら、そういう男女の区別はおかしいわけですが、これも昔の身分社会の文化が残っているのですね。


 というように、会社組織の「タテマエ」と、社員の人間関係の「中身」がずれていたりして、「近代化」の進み方には、さまざまなヴァリエーション(バラツキ)がある、という現実があるのです。
 この文章が書かれたのは60年以上も前なのですが、その点があまり変わっていないというのは、ちょっと悲しいですね。


日本の急激な近代化


 ここは、思いっきりサラッと行きます。ここで言っているのは、

西欧が300年かけて行ってきた近代化を、日本は明治の約50年間で行った。これはすごいことだが、当然、無理をした分、そこには「ひずみ」がたくさん生じてしまった

という話です。
 「ひずみ」というのは、さっき書いた、会社組織の「タテマエ」と「中身」の矛盾とかです。これを本文では「『する』原理をたてまえとする組織が、しばしば『である』社会のモラル(道徳)によってセメント化されてきた」と言っています。「セメント化」とは、セメントでガチガチに固められている、という意味でしょうか?


「する」価値と「である」価値との倒錯


 ここから話が大きく変わります。
 今までは、「日本社会は十分に近代化されていない」という話でした。これはかなり前から言われ続けている問題です。
 ところが、最近は、別のことが問題になって来ています。
 これを整理してみると、

「非近代的な日本の問題」=近代化が不十分だ=20世紀の課題
「過近代的な日本の問題」=近代化しすぎている=20世紀後半~21世紀                         の課題                                                         

ということになります。

 さて、「近代化しすぎている」とは、どういうことなのでしょうか?
 前に「近代」とは「合理主義の時代だ」と書きましたね。これを本文では「効用と能率原理」と呼んでいます。つまり「どれだけ役に立つのか、で価値、値打ちが決まる」ということですが、これを逆に言うと「役に立たないものには価値、値打ちがない」ということになります。そして、この考え方に大きな問題があるのです。


 本文に3つ例が書いてあります。「客間」と「日本式宿屋」の例は古すぎてピンと来ないので、「休日、閑暇」の話。
 休日や閑暇(ヒマ)は、一見すると何の役にも立ちません。「時間のムダだ。もったいない」という人もいます。だから、「空いてる日程は、とにかくつめる」という人は、みなさんの中にもいるでしょう。だから、ゴールデンウイークとかになると、みんなレジャーに出かけて、ヘトヘトになって帰って来る、という風景が毎年見られます。そこで問題です。「休むこと」は、「ムダ」「無意味」なのでしょうか?


 次の「学芸のあり方」の話はわかりにくいと思います。
 「学芸」とは「学問・芸術」のことです。そこに「卑近な『実用』の基準が押しよせてきている」とはどういうことでしょう?
 これをひと言で言うと、「役に立たない=金にならない学問、芸術なんか意味がないし、必要ない」ということです。
 ここでアメリカの大学の話が出て来ますが、現在では日本でも同じことになっています。大学教授は研究して論文を書くのが仕事ですが、その研究の「質」や「内容」より、「数」だけが評価されている、と丸山さんはなげいています。知らない人が多いと思いますが、例えば、科学の学術雑誌に「サイエンス」とか「ネイチャー」という世界的に権威のある雑誌があって、その雑誌にいくつ論文が載ったか?ということで学者さんの値打ちが決められたり、大学のランキングが作られたりします。
 これは、一見すると悪いことではなさそうですが、学問というのはいろいろあって、すぐに研究成果を発表できるものはいいのですが、中にはすごく時間をかけないとできない研究もあります。確か、以前、日本の学者さんで、20年以上、毎日毎日コケを拾って来て調べ続けた人がいて、その人は幸いノーベル賞を受賞したのてすが、そういう地味、地道な研究はなかなか評価されないようになっているのです。
 また、「役に立つ」ということで言うと、コンピューターやAIの研究のような実用化、産業化できて、お金になる研究にはたくさん予算が与えられますが、同じ理系でも「宇宙とは何なのか?」の研究みたいな「何の役に立つの?」という研究にはあまり予算がつかないシステムになって来ています。もっと言えば、文学の研究なんかは、「何の役にも立たない」と見なされて、どんどん研究費が減っているのだそうです。
 ノーベル賞というのは、地味な基礎研究に与えられることが多いので、「今のようなやり方をしていたら、将来、日本人はノーベル賞をとれなくなるだろう」と予想する人も少なくありません。

学問や芸術における価値の意味


 まずアンドレ・シーグフリードさんの話。
 これは激ムズですね。でも、がんばって解説します。
 これは「人はなぜ学ぶのか? 学ぶことの意味とは何か?」ということが書いてあるのです。
 まず「教養=内面的な精神生活」というのがわかりにくいのですが、これは、「教養というのは、それを使って何かに役立てよう(果たすべき機能)=大学に合格するとか、本を書くとか、学者になるとか、社会的に成功するとか、というものではなくて、自分自身の世界を広げて豊かにするものなのだ」ということですね。そして「自分について知ること」というのは「人文科学=哲学・文学など」で、「自分と社会との関係について自覚をもつこと」というのは「社会科学」、「自分と自然にとの関係について自覚をもつこと」というのは「自然科学」のことを言っているのだと思います。
 「教養のかけがえのない個体性が、彼のすることではなくて、彼があるところに、あるという自覚をもとうとするところに軸をおいている」というのも、ほぼ同じ話で、「教養とは、『何かをするため』のものではなくて、『その人のあり方=生き方』に繋がる問題、その人の人生を豊かにするためのものなのだ」ということです。うーん。わかんないかな?

 何か理想主義過ぎて着いて行けませんか? とにかく、この人の意見によれば、「教養は、何の役にも立たない」のです。でも、それでいいのだ、とアンドレさんは言います。なぜなら「芸術や教養は『果実より花』なのであり、そのもたらす結果よりもそれ自体に価値がある」のですから。
 「果実より花」はわかりますよね? 「花よりだんご」の反対です。つまり、「花なんか見てても腹がふくれない。花見だんごを食べていた方がいい」という考え方に対して、「腹がふくれなかったら意味がないの?花を見たら、感動したり、心が豊かになったりするじゃない? それは値打ちのあることだと思うけどな」というご意見ですね。

 でも、現代では、そういう目に見えない値打ち、価値はなかなか評価されなくなっています。だから、「文化」の価値も「大衆の嗜好や多数決」で決められてしまっています。例えば、オリコンやビルボードのランキングで音楽の価値が語られるし、映画の観客動員数、テレビの視聴率、本の売り上げランキングなんかがしょっちゅうネットニュースに出てますよね。
 でも、それで言ったら、ベートーヴェンやシューベルトは絶対オリコンチャートには出てこないし、本の売り上げの上位は、毎年必ず実用書やハウツー本です。「絶対失敗しないダイエット作戦」「専業主婦が1000万円稼げる投資術」より「源氏物語」や「羅生門」は価値がないのでしょうか?


 次は「無為」の話。「無為」というのは「何もしないこと」です。
 政治家や会社の社長が「何もしない」のはダメだ。それは「無能」だ。これはわかりますね。
 でも、「文化的創造にとっては‥‥休止(何もしないで休むこと)は必ずしも怠惰ではない」「そこでは休止が、それ自体生きた意味を持っています」と言っています。これはどういう意味でしょうか?
 これは、ミュージシャンの例で言うとわかりやすいかもしれません。宇多田ヒカルが「人間活動」をすると言って6年間活動休止したことを覚えていますか? また、いきものがかりも「放牧」と言って、2年間活動休止しました。こういう例は、実は少なくなくて、ちょっと古いのですが、サザンオールスターズも5年間活動休止したことがあります。
 音楽やらイラストやらを作った経験がある人ならわかると思いますが、こういう活動には「スランプ」やら「マンネリ」やら「ネタ切れ」がつきものです。どんなに才能があっても、10年もやっていたら、そういう状態におちいります。それでもプロですから、「どんなのでもいいから作品を出し続ける」ことは可能だと思います。でも、彼らはそれがイヤだったのです。これは微妙な問題ですが、彼らは職業人としての音楽家であると同時にアーティストでもあります。職業人として「商品としての作品」を作るのは可能でも、アーティストとして「自分の納得のいかない作品」を出すことはイヤだったのです。それで「このままでは自分たちはすり減って枯れてしまう。一度、走り続けるのをやめよう。リセットしよう。」と決断したのですね。
 それで、活動休止して何をしていたかというと、まあ、人それぞれです。でも、それが「リフレッシュ」だったという点では共通です。

 この「リフレッシュ」というのが、「価値の蓄積」であり、「生きた意味」ということになるわけです。
 前に「休日、閑暇は、意味のないムダな時間なのでしょうか?」と書きましたが、「休み」や「休止」の目に見えない「価値」や「意味」が見直され始めているのが現代(21世紀)なのです。


価値倒錯を再転倒するために


 「価値倒錯」「再転倒」について説明します。

「する」価値が大切なところに「である」価値がしぶとく残っている=非近代的な問題
「である」価値が大切なところに「する」価値(=効用と能率原理)が入り込んでいる=過近代的な問題

「する」価値が大切なところ=政治・経済活動など
「である」価値が大切なところ=学問・文化、芸術、精神的な創造活動       

再転倒する=おかしくなっている点を正常化する=「する」が大切なところは「する」に、「である」が大切なところは「である」に

 「現代のような政治化の時代」とあります。これはどういう意味かと言うと、実は、昔は、「政治は政治家」「学問、芸術は学者、芸術家」と分業されていて、お互いに関心も持っていなかったし、干渉もしませんでした。学者や芸術家は「政治のようなドロドロとした汚い世界には関わりたくない」とさえ思っていました。
 ところが、第一次大戦の頃から、国民全部を巻き込むような戦争が始まり、「オレたちには関係ない」と言っていられなくなりました。そして、第二次世界大戦で核兵器が登場して、一度核戦争が起こったら、学問も芸術も一瞬に消滅する世の中になりました。これには文化人も驚いて「核時代」と呼ぶようになりました。この文章が書かれたのは、そんな時代です。
 だから、今までは政治的な発言をしなかった学者や文化人が、新聞や雑誌などで政治的な発言を積極的に行うようになりました。「おまえたちの勝手で世界をつぶされてたまるか」という政治への「異議申し立て」だったのです。そして、当時、それを一番積極的に行ったのが、本文の著者である丸山真男さんです。
 つまり「政治化の時代」とは、「政治が全ての人間に深く関わっている時代」という意味です。だから、「政治の好き勝手をさせないために、政治的な発言をする」=「文化の立場からする政治への発言」という、ちょっとややこしいことになっています。


 「深く内に蓄えられたものへの確信に支えられて」というのは、「文化や教養や芸術の価値=『である』価値の大切さをしっかり理解して」ということで、これが「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義」になります。
 そして、「ラディカルな民主主義」というのが、「政治の価値=『する』価値」ということになります。
 それで、丸山さんの未来への提言は、この2つを結びつけることなのです。つまり、

学問、文化、芸術の「である」価値の大切さをしっかりわきまえた上で、「する」価値である民主主義をしっかりと徹底するということ。


これが結論ですね。

 学問、文化、芸術というとピンと来ないかもしれませんが、「である」価値は他にもたくさんあります。
 たとえば「自然」。自然は、何かの役に立つから大切なのでしょうか?「森はCO2を減らすから役に立つ」という人もいるかもしれませんが、やっぱり、自然は、自然であること自体に価値があるのではないでしょうか? また、たとえば、「ふるさと」とか「景色」とか「思い出」なんかもそうでしょう。「観光やリゾート開発に役に立つ」というのとは違うでしょう。


 20世紀は、「近代化」の時代でした。とにかく「役に立つ」「お金になる」ことが第一で、「役に立たない自然」は乱開発されて、いっぱい家が建てられました。また、公害問題なんかも起こりました。人間が自分たちの「する能力」を過信していた時代、と言えるかもしれません。
 そして、そのことへの危うさは、第二次世界大戦の終わった頃から、世界的に一部の知識人によって指摘され始めました。この「『である』ことと『する』こと」は、日本ではそういう発言のかなり初期のものだったと思います。
 1960年の昔に、今のSDGsに繋がるような発言があったことは、ちょっと驚きではあります。
                             おしまい

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?