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ジャズと映画の自由と即興「映画館」

今まで巡ってきた中で最もファンキーなジャズ喫茶「映画館」。1978年にオープン、文京区白山という閑静な住宅街、映画とジャズに魅了されたマスターの吉田さんとその奥さんが経営している。時間と順序に縛られない自由な発想で知られる映画監督、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』やアラン・レネ監督の『ヒロシマモナムール』などフランス映画のポスターが壁に貼ってある。ジャズの音楽が止まると、店内は突然神秘的な機器と時計によって生み出される機械的な音に包まれ、その度にダイヤル式黒電話のクラシックな着信音に驚かされる。

1978年、吉田さんは一日3万円の貸し出し料金で日本ヌーベルバーグの16ミリフィルムを借り、店内で上映していた。初回は映画は戦後日本のチンピラを鋭く描いた今村昌平監督によるモノクロの『豚と軍艦』(1961)だった。吉田さんは人々社会意識を高めるため、現在起こっていることに関連する映画を上映している。例えば、東日本大震災においては、放射能汚染の恐怖とロマンチックな話が詰まった1959年のアメリカ映画『渚にて』と、チェルノブイリ原発事故がスカンジナビア半島北部の少数民族サーミの生活を襲った話を描いた1987年のスウェーデン・ドキュメンタリー映画『脅威』を取り上げ、討論会を行った。吉田さんは、「(米ソ冷戦下の真っ直中で)本当に核戦争が起こるという危機感を持った時期でした」「原発事故は人の力では制御できない」と熱く語った。映画と社会的な問題について語り始めると、彼の目は輝き、声のトーンも上がり、熱を帯びている。

「映画館」を訪れるたび、いつも新しい発見がある。岩手県の「カフェ・ロイス」では、音を吸収する素材の存在を知った。私にとって大事な瞬間である。その後、「映画館」を訪れると、天井にランダムに張ってあるクッションと布、そして音との関係性に気づいた。森の中にいるような雰囲気を醸成するため、スピーカーの後ろにある木の棒は音を四方八方に分散するような構造になっているのだ。

お店の中をより意識するようになったので、これまで目に入らなかったものが見えるようになった。大きな手がピンクのヒルの上に塩を振りかけている鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』以前見たことを思い出した。

「オーディオに興味がある?」と聞かれた。吉田さんに「初心者向け」の本を薦められ、
音楽本より分かりやすいと話していた。本を捲ると、難解なシンボルと電子回路がほとんど。

「自分の手で作ること」と「実験」は吉田さんにとって極めて重要な要素である。幼い頃はオーディオ製品を買う余裕がなかったので、自分でラジオを作り始めた。大学生の時にスピーカーを作り、より良い音を探求する旅に出た。吉田さんは「買うより、作る方が楽しい」と言った。写真のように、北海道産タモ木のスピーカーホーンは吉田さんが構築し、彼もその時に使っていたカートボードをみせてくれた。ホーンの上、解釈できない難解なシステムである超高音域のスーパーツイッターが置いてある。吉田さんは「我々はスーパーツイッターが出している音が聞こえないが、人間は20kHz以上の高周波数を聞き取れる。肌から音を感じられ、雰囲気も変わる」と説明した。

その後、1995年の夏と冬に宮城県の仙台育児園で撮影した映画の経験を共有してくれた。明治39年、戦争の時にアメリカの宣教師が設立した。ある夏に、農作物の収穫はうまくいかなかったため、家族は子供を見送った。吉田さんは「スキンシップ」の大切さを強調し、「肌と肌が触れあっているとき、愛情は通じる」と語った。お風呂に入る時、介護者は子供たちと裸で一緒に入る。深い繋がりと安全と信用の感情を得るため、子供の健全な成長に欠かせないことである。映画監督として、吉田さんが最も感動した瞬間は「子供たちがしっかりと頑張っている姿を見た時」という。  

もう一つ制作したドキュメンタリーは『絹の道』という映画で賞をもらい、
吉田さんは江戸時代の人の「知識に対する欲」に感銘を受けたという。

この時、黄色の帽子を被っていた吉田さんの奥さんが 店に入ってきた。「ここの場所どう思う?」と私に聞かれた。「今まで訪問してきたところの中で最もDIYな場所で、特にお手洗いは面白い」と私は答えた。奥さんは笑い出して、私の答えに対してやや満足したような顔つきだった。「映画館」のお手洗いに入ると、ロックのスイッチは電球と換気機のシステムに繋がっているため、扉を閉める瞬間に明るくなる。外の赤いライトもシステムの一部であると今まで気づかなかったことを教えてもらった。その後、彼女は熱心に、実際にやってみせるため、お手洗いの中に入って、ドアを閉めた。外の赤いライトは確かに光っていた。 

いつも吉田ご夫婦から溢れるほどの映画、写真、ステレオについての情報をいただいている。彼らには、侯孝賢監督が台湾の歴史を濃厚に描いた
『悲情城市』を5回ぐらいすすめられた。

お店から出た時、奥さんは高いスツールに座り、吉田さんはすぐ後ろに立って、お二人は同じような集中力で昔ながらのパソコンのモニターに目を注いでいた。「映画館」はジャズと映画の親密な関係性を巡る場所であり、マスターたちは共通して自由さと即興性に魅了されている。吉田さんはこの場所で生演奏しているかのような音を再現するため、リアルで暖かい、豊かな音を探し続けていた。今に至って、吉田さんのもとには多岐にわたる文化の団体、インディペンデントな監督と友人から映画とジャズのパンフレットが各地から送られてきている。30年以上続いた土曜の夜のレコード鑑賞会では、皆さんはピアノの形のテーブルに集まる。

吉田さんに「音を描いてください」と正方形の紙を渡したら、彼はとても困った様子だった。

一時間後「鉛筆ですけど」正方形の紙をテーブルに置いて、去って行った。
今日いただけるなんて、少し驚いた。私は紙を眺めた。

彼はバーの裏側に、いつも立っている所に戻り、用意した封筒と切手を指差して「それ、もう1回使えるよ」と言った。

それを聴いて、彼の微笑みを見たとたん、彼の優しさと暖かさをじんわり感じられた。

少しして、彼はまた私の席まで歩いてきた。「絵も足した方がいい?」


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