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侵され、混ざり合う恐怖 ―「インスマウスの影」読後メモ―

今回の作品
『インスマウスの影』(The Shadow Over Innsmouth,1931)
(収録ーH・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集1』、大西尹明訳、東京創元社、1974年)

 (本書から引用するときはページのみを付す)

 実はラヴクラフトを読んだことがない。さらに言えば、きちんと手順を踏むのであればポーなどから入るべきなのかもしれないがそれすらも未読。
 ウエルベックの『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』とTRPGとしてのクトゥルフだけを前知識としていざ。

信心深く生まれてみたかった

まもなくこの秘密教団は、インスマウス全体にこのうえもない影響を与えるようになり、全面的にフリーメイスンにとって代わり、ニュー・チャーチ・グリーンの旧フリーメイスン会館のなかにある本部を乗っ取ってしまった。

p.29

 無神論者を名乗るつもりはないが、少なくとも僕自身のアイデンティティを構成する要素に信仰は含まれていない。そのため改宗の衝撃をいまひとつ理解できずにいる。
 改宗は自身のアイデンティティを根底から揺るがし、生まれ変わる行為といえるのだろうか。そうであるならば、それは少しマゾヒスティックなもの?これまでの自分に唾を吐き、異質なもの(劣ったものとも言えるか)を受け入れ、それに跪くこと?NTR報告ビデオレター?
 この乗っ取られたかつての会館の描写は強く印象に残った。どこぞの島国から流れ着いた野蛮人どもの程度の低い宗教によって侵略され、その身体は外見はそのままに中身がすっかり入れ替えられてしまう。かつての神は打ち捨てられ、醜い偶像が据えられる。信心深い者がそれを目の当たりにしたときの感覚とはどのようなものであろうか?そしてそれを受け入れた者の感覚は?
 それまでの絶対を捨てる自己否定と異物に征服されることをもって改宗と呼ぶのか?改宗の衝撃とは敗北の衝撃か?改宗の快感とは屈服の快感か?
 僕は何によってこの感覚を味わうことができるだろうか?去勢?

混じり合うこと、やがてそれになること

セイラムの男が支那人を妻にして帰ってきたという話をお聞きになったことがあるでしょう。それに、ほら、どこかコッド岬の近くには、フィジー諸島の住民がいまでも大ぜいいるそうじゃありませんか。

p.19

この怪物どもは、カナカイ族に向かって、もしも自分たちと混血すれば、最初のうちは人間によく似た子供ができるだろうが、そのうちだんだん怪物に似た子ができるようになって、しまいには、すっかり水に馴染めるようになったうえ、海の底でその怪物と同じ生活ができるようになるだろう、と教えたのです。

p.64-65

マーシュという名が自分の系図に属するものであるという知らせを受けても、それを歓迎する気にはなれなかったし、またピーボディ氏が、わたしもあのマーシュ家の眼を持っているといったことばにはうんざりしてしまった。

p.124

 曰くラヴクラフト作品全体を通してその根底にあるものらしいが、血統に対する恐怖を強く感じた。
 異国の"穢れた"血と混じり合うこと、その結果として醜く変形することへの生理的恐怖。この感覚はラヴクラフトの出自(アングロサクソンのプロテスタントで旧ブルジョワ階級、つまりは"最も優れた人種")からすれば自然のものであったのだろうが、単なる人種主義とは異なる印象を受ける。
 それというのも、自身の血統の秘密を知った主人公は、それを拒んだ叔父とは違い、ピストルを否定し、その血を受け入れるのだ。そして"新しい見かた"が示される。

つまり、どんな生き物も、みんな元をただせば水のなかから出てきたもので――ほんの少し体が変化しただけで、もとの水に帰れるわけだとしてみれば、人間というのも、この水の中に棲む怪物と多少は関係があるにちがいない、というわけです。

p.64

 これは何も人類皆兄弟などと言いたいわけではないだろう。ラヴクラフトは"最悪なことに"自分もあの忌々しい異人種どもと同じ人間であると気づいてしまった。ジェントルマンたる自分が野蛮人どもに打ち砕かれ、自分の占めている場所が侵略されていく絶望がこの血統の恐怖として表れているのではないか。

人種的憎悪こそが、ラヴクラフトにおいて、狂おしく繰り返される呪われた文の脈動において彼がみずからの限界を踏み越えてしまう、あの詩的トランス状態を引き起こしている。これこそが、彼の晩年の傑作群を照らす、醜悪で壊滅的な光だ。

ミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』、星埜守之訳、国書刊行会、2017年、p.177

覆い隠されたもの

 最高峰のホラー作家の手腕について感じたこと。覆い隠されているその奥にあるものの存在がほのめかされるごとに、少しずつ恐怖が忍びより、いざそれが最高潮に達したときに覆いは破裂し、"それ"があらわになる。このホラーの基本の見事な手本であるように思う。
 物語の舞台であるインスマウス自体、その実態が謎に包まれた町である。その町については、誰もよりつかないがためにあれこれと噂が流れ、その噂がまた人を遠ざける。主人公は町にかかったそんな覆いを割こうとバスに乗り込む。町の中心にバスが進むに連れて主人公はその覆いの隙間から、さまざまな奇妙のものを見る。そうした小さな積み重ねが不穏な空気を充満させていく中で、ザドック・アレンの語りへと物語は移る。
 この酔っ払いはあれこれと荒唐無稽な昔話を語り、主人公は話半分でそれに耳を傾ける。しかしその鬼気迫る口調で語られるこのインスマウスの秘密はあたりに充満していた不穏な空気をよりいっそう強めていき、ついにザドック老人の悲鳴によって臨界点に達する。これが第一の破裂である。

「とっととここから逃げてくれ!とっとと行け!あいつらに見られてしまった――命がけで逃げろ!一刻もぐずぐずするな――奴らはもう気が付いた――とっとと逃げろ――この町から逃げるんだ」

p.83

 このとき主人公の背後に"何か"が確かに現れた。しかしその姿を捉えることはできず、物語はさらに続く。宿に泊まった主人公はその夜、何者かが侵入を試みていることに気がつく。しのびやかな足音や静かに錠を回す音に始まり、それはやがてノックの音や合鍵を差し込む音に変わり、ついにはドアを破ろうとする音に変わっていく。そしてこの間、この侵入者たちの姿は見えず、音だけが不安を掻き立て、危険が差し迫っていることを知らせてくるのだ。なんとか宿から脱出した主人公は暗闇の中追手からの逃走を図る。そして時折追手たちの異様な姿形の断片を垣間見る。こうして追われる恐怖と覆いから覗く恐ろしい軍勢の影が最高潮に達した瞬間に、目の前を横切る追手たちの姿が月明りに照らされる。これが第二の破裂である。

その次の瞬間に起こったことが忌まわしい現実なのか、それとも単に悪夢のような幻想なのか、この点については、いまだにわたしは、そのいずれとも申し上げる気になれないのだ。

p.117

 そしてなんとか追手をかわした主人公は物語冒頭のとおり政府にこの真実を訴え、物語は幕を閉じるかに思われる。しかしここでもうひとつ覆いが提示されるのだ。主人公は旅行の当初の計画のひとつとして自身の血統についての資料を手に入れる。そしてそれを調べるうちに自身の血統とあのインスマウスの関係が示唆されていく。こうして新たな恐怖の足音が聞こえ始めたとき、極めて象徴的な小道具が登場する。その奇妙な装飾品の包みがほどかれたとき、主人公は恐怖に触れ気を失う。これが第三の破裂である。

というのは、その宝物がどんなものであるかということについては、あらかじめ充分に心得ていたからだ。ただわたしはそのとき、一年前にあの灌木の密生した鉄道線路でそうなったように、ことばもなく気を失ってしまったのである。

p.128

 隠されてるものを暴くという目的によって物語が駆動し、隠されていたものが姿を現す瞬間に恐怖が頂点に達するというオーソドックスな作りでありながらその恐怖は並大抵のものではない。
 物語、音、系図と異なる手法で恐怖が迫り、物語冒頭に登場した冠によって3層の最後の恐怖が訪れるという構造がこの作品を骨組みの段階から傑作足りうるものにしているといえるのだろうか。
 そしてなにより引用では省略したが第二の破裂の描写はぜひ読んでいただきたい。熱に浮かされたような、とめどない、恐怖の語り口。ラヴクラフトの真髄のその一端を垣間見たように思う。

ラヴクラフトの「傑作群」の押しなべて精妙で充分に練り上げられた構成は、文体が爆発するこうしたくだりを準備すること以外に存在理由がないとさえ言える。

ミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト 世界と人生に抗って』、星埜守之訳、国書刊行会、2017年、p.143

おわりに

 一作読み終えただけであるが、ラヴクラフトにあれほどの熱狂的なファンがいる理由が少しわかったように思う。そしてこの作品を全集の一作目に据えたことも大いに納得できる。
 これから全集を順に読み進めていこうと思うが、人種への恐怖と文体の爆発する瞬間という2点は注目しながら読み進めたい。
 最後にnoteはじめたての、不慣れな文章にここまでお付き合いいただきありがとうございました。ぜひあなたの感想、そして熱いラヴクラフトトークを聞かせてください。
 ではまた。


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