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胸躍るままにブルースを_10

六 ユアソング


 「もう言い訳をするつもりはないわ、本当はずっと寂しかったの。すごく。毎日ではないけれど、バンドの練習がある時、絶対にそれが優先でしょう? 私がどんなに仕事で苦しい思いをして、耐え切れず泣き出してしまいそうな時だって、仁は遅くまで帰って来なくて、仲間と賑やかな時間を過ごしていると思うと、まるでこの世に一人ぼっちで置いていかれたような錯覚に陥るの、本当よ。しかも今のバンドになってからはあんなに可愛い女の子が一緒だなんて・・・、あなたを心底信用していても、気が気じゃないわ。ごめんね、ただ僻んでいたのでもなく、美優ちゃんを恨んでいるのではないの。美優ちゃんはあれだけの容姿を持っていながらとても素直で・・・、初めて私がライブを観に行った日の事を覚えてる?、正直あの時は私美優ちゃんを警戒していた。だって川畑さんも猿楽さんも皆可愛いって言うんですもの、歌の上手い下手のことなんてそっちのけで。でも挨拶をしてみたらすごく明るくて、美人なのに天真爛漫で可愛らしくて、すぐ好きになっちゃった。だから美優ちゃんに対して悪く思っているのではなくて、これは私の気持ちの問題。表面では夢見る恋人を健気に、そして強かに支える女ではありたかったけど、いざ一人にされるとそうではない、臆病で、性悪で、でもずる賢くも素直にもなれない莫迦な女の問題。美優ちゃんが加入してバンドが忙しくなってから失われた当たり前だった日々がね、なんだか急に恋しくなっちゃう時があるの。あなたは表面ではクールを気取っているクセに、活気付いたメンバーに負けないように努力をし続けていたわね。慣れない鍵盤を舞台で演奏する為に、寝る時間を削って夜中まで。音楽の経験が無い私でも解るわ、メトロノームに合わせて同じ音階を何度も弾くって基礎の練習でしょう?それを毎日繰り返してゆくうちに、あなたが音楽を楽しまなくなってゆくことが悲しかった。そして、そんな楽しくもない鍛錬の為に一緒に寄り添って寝てくれなくなったことが、一番辛かった。戻りたいって思っちゃうの、仁が好きなようにアコースティックギターを弾いて、急に曲が出来たと言って聴かせてくれたあの日々に。夕食をとって、お酒を飲みながら好きな映画を一緒に観て泣いたり笑ったりしてた頃、本当に楽しかった。ねぇ仁、初めて出会った頃を覚えてる?、どうしようもない家出娘で、疑い深くて、いつも俯きがちな私を一生懸命色んなところに連れて行ってくれたね。初めてのドライブ、あのボロボロの色馳せた軽自動車で地図を見ないで走って、何処かもわからない海へ辿り着いて登った岬から見た風景は、本当に美しくて、広大な青空も、息吹く山も、きらめく海も、ちょっと冷たい空気も全部二人だけの物のようで、信じられない程の幸せを感じたの。あなたはそのドライブデートを歌にして聴かせてくれた。私、あの時泣くつもりなんてなかったのに、気がついたら自然とポロポロ涙が零れ落ちてしまっていたわ。あんな風にごく自然に日々を、皆が見ている何でもない風景を、まるで奇跡かの様に音にしてしまうあなたは素敵だったわ。でも今はいつからなの?ほとんど曲を書かなくなってしまったのは。この前聴かせてくれた曲も、分かるわよ、あれはあなたが過去に一人で歌っていた頃の曲にちょっと手を加えたものでしょう?今まで聴かせてくれたあなたの曲を、私が覚えていないとでも? 近頃のあなたは全然音楽を楽しんでいない、むしろ少々憎んでいる様・・・。そんなものの為に二人の時間が奪われてゆく近頃が本当に悔しいの。無責任なのは重々承知よ。勝手でわがままなのも。ボン君が辞めて、バンドが終わるだろうと話してくれた時、私は嬉しかった。あの日仁にバンドを続けてって言った時、私は否定してほしかった。それから、大好きだった日々にはもう戻れないんだと確信して、ホテルから帰った朝、私はベッドでずっと泣いていた。そしてあなた達のライブが始まる頃、いつのまにか暗くなっていたアパートの部屋で静かにその現実を受け止めたわ。そんな時にアルバイト先で口説かれたの、彼は常連客。私がいつもと違う様子にすぐ気がついてとても心配してくれた。そういう時の女って、本当に弱いものよね。お話を聞いてくれるなんていう誘い文句にすぐノっちゃったわ。それからは仕事が終わった後にちょっと食事をしたり、彼の車で走りながらお話したり、・・・ごめんなさい、聞きたくないわね。・・・ねぇ仁?、こんな私でも、あなたがずっと優しくいてくれたことを知っているのよ。いつも帰りを待ってくれていたこと。スタジオ練習の日も、ライブの日も、心の底からはその場に身を置けず、私がどうしているのかをずっと気にかけてくれていたことも、全部よ。そして、先に寝ちゃった私をいつも後ろから抱きしめて寝ていることも。嬉しいの。でも、それを嬉しく思ってしまうことが、どうしても哀しいの、切ないの、辛いの。ねぇ仁、今、改めてちゃんと伝えるわ。あなたは音楽を続けて。バンドが続いても続かなくても、あなたは、あなたがとにかく愛している音楽を止めないで。そして出来ればまた唄って?私のことはもう気に掛けないで。こう言ったら無責任だけど、バンドのことだって気にしなくていいわ。あなたはあなたの心に描くものを書いて、唄って。人それぞれ何を幸せと捉えるかは違う。幸福も不幸も定義なんてないわ。もしかしたら実体も実感もないのかもしれない。それらは自分ではない誰かの偏見上にしか成立せず、対自分においては何をどう思うかの選択肢が用意されているだけで、例えお金も家も家族も失ったとしても、その人が幸福だと思えば幸福、余る程のお金と豪邸と素敵な家族があっても、それを不幸だと思えば誰がどう羨んだってそれは不幸なのかも。そうして実は起伏なくただ過ぎてゆく時の中で、あなたがやりたいと思うことは何?あなたの心を満たすものは何?私の偏見上でのあなたの幸福は、ただ音楽と共にあること。策略で手にする成功ではなくて、名が知れて富を得ることよりも、導かれるその時に裡に沸き起こる喜びや悲しみ、葛藤、苦悩、怒り、羞恥、あなたにしか見えていない目の前の風景を、鼻歌のように奏でること、唄うこと。それが出来ればあなたは例え脚を失っても幸福でいる気がするの。・・・そんな唄をまた聴かせて? 仁、私達、別れましょう。」


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