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胸躍るままにブルースを_09

五、チョコレート

 ライブの次の日、成田にある馴染みのレストランでランチ反省会を催している時にボンゾーは脱退宣言をした。美優は寂しさからか泣いていたが、川畑と猿楽はあまり驚いた様子もなく、静かに受け止めていた。

 その後も変わらずに毎週水曜日のスタジオでの練習をこなし、月一回の土曜日のライブを三回やり、季節はすっかり冬にさしかかろうとしていた。街では来月の本番に向けて着々とクリスマスの装飾の始まり、早い所ではイルミネーションが灯り、優しいオルゴールの様なメロディが流れ始めていた。

 僕は先月の初めに故郷に戻り、例の“わずらい”が発症してから学校を抜け出してよく行くようになった川原へ行った。葉は緑を落ち着かせ始め、澄んだ青空から秋らしい陽が照りつける川原はとても美しく、ひ弱な僕自身では解決できない問題をいとも容易く解決してくれそうな魔法の景色の様だった。薄手のシャツを引っ掛けて川を眺めたあの日からたった一ヶ月と数日で世の中は雪が降るかのようにジングルベルが流れ始めるのだから、世間の移り変わりには気苦労が絶えない。

 アンチャイド・メロディを聴きながら愛に勤しんだあの夜以来、麻里とは抱きしめ合っていない。というのも、最近麻里は掛け持ちしている二つのアルバイト両方で重要なポジションに任命されたらしく、かなり無理な働き方をしていて疲れていた。夜遅く帰ることも多くなり、僕がパスタやオムライスを用意して待っていても、お風呂から出るなり「もうアカン・・・」となぜか関西弁を発しそのまま寝てしまうなんてこともよくあった。

 それ程麻里が頑張っている一方で僕はアルバイトをクビになった。思い当たる原因を考えてみても、デスクに足を乗っけて電話で謝っていたり、週刊誌を読みながら謝っていたり、仕事用のパソコンで歌詞を書きながら謝っていたという程度しか思い付かないので、クビになった本当の理由は分からない。しかし理由はどうであれ、アルバイト先の管理者から孫を見るお爺ちゃんの様な優しい顔で、「いい加減もう来ないでほしい」と言われ、あっぱれ無職になっていた。ただ、アパレルショップの店長を務める友人からの誘いで来月からの新しいアルバイト先は決まっていて、時給マイナス二百五十円を代償に「バンドを最優先にしていい」という好環境を約束されていた。

 ボンゾーの脱退宣言を受けて以降、まるで暗黙の了解の様にバンドの「その後」の話は話題にあがらない。おそらく去る者がいる場でその先の話はしずらいといった事が理由だと思うが、皆うすうす感じているのではないだろうか、もう継続は難しいということを。そして僕はその蔓延している終幕感を断ち切るとあの夜麻里に約束した訳だが、どうも自信が持てず、それは恐らくバンドで一番必要無いのは自分という劣等感と、どうしても可能性を見つけられない緊張感が欠落したバンドの空気にいつも呑まれてしまうからだろう。

 バンドのリーダーであり、ライブ時やスタジオ練習時のドライバーでもある川畑の家からもっとも近所にアパートを借りていた僕は、五人揃った場では上手く言えないことを、いつも迎えに来てもらった車内の、次に家が近い猿楽を迎えに行くまでの途中、もしくは他の三人を送り届けた帰り道の車内で相談していた。

バンドの今後について話そうと決断をしてから、蝉が鳴き終わり、葉が散り、このままだといよいよサンタクロースが来てしまいそうなので少々焦っていた。そこでスタジオの帰り道、二人だけになってからコンビニに寄ろうと提案した。珈琲が飲みたいという要望に応えてくれた川畑は、僕と同じ百円のアイス珈琲にミルクとガムシロップをいれながら「なになになに~、どうしたの~?」と僕の心中を見透かして笑っていた。

 「分かっているだろうけど、バンドの今後のことさ」

 僕も川畑の笑いに誘われて、いくらか綻んだ表情で話を切り出した。川畑はいつだって、誰だって周囲を和やかに出来る魅力を持つ。あえて車には乗らずに、コンビニ脇の赤いポストの前で珈琲を飲み始めた。

 「やっぱりね、ボン君の脱退の穴は大き過ぎるよね~。俺は正直もう無いかなって思ってる。」

 「残った4人だけで継続してみないかい?」

 「えぇ?ドラム無しじゃバンドじゃないじゃ~ん」

 「そんなこともないさ。リズムトラックをバックで流して、ジャンルに拘らなければダンスっぽい曲調や、テクノみたいな曲も出来る。」

 「そりゃそうだよね、うん。分かるよ、うん」

 川畑は煙草に火をつけてからまるでフィルターを噛むように咥え、スパスパスパと細かく吸っては吐いてを繰り返している。身長が一八五cmを超える彼は脚も長く、煙草を咥える姿もサマになっているかと思えば、猫背でかなり俯きがちに、そして焦るように煙草をふかす姿はなんともコミカルで、まるで“ちょっとイかれてるけど一番人気の洋画の脇役”の様だ。

 「ボンゾーの脱退を逆にチャンスに変えて、新しいスタイルを築いていったらどうかと思うんだ。」

 僕はそれまで言えなかったじれったさが故、必要以上に熱く少し大きめのトーンで語った。川畑はその間も「うん、分かるよ、だよね」と食い気味に相槌を打ち、すごい勢いで煙草と珈琲を吸収していた。二十一時半を回るコンビニの駐車場には、近隣の家々からただようお風呂のシャンプーの香りが優しく漂っていた。

 川畑は短くなったぐにゃぐにゃの煙草を灰皿スタンドに擦り当て火を消した。そして「あのさ仁君・・・」と珍しく神妙で低いトーンで僕に向き直った途端、今度は僕を見越して見つけた何かに目を見開いた。

 「あ~あ、美優ちゃん、忘れてるよ~」

 川畑の目線を追った先には、前方駐車した僕らのミニバンがコンビニの看板の明かりに照らされ、後部座席の暗がりに濃いピンク色の長財布がまるでスポットライトにでも当てられたかの様に浮いていた。

 「これは美優ちゃん困ってしまうだろう・・・、一週間後のスタジオ練習まで持っている訳にはいかないよ」

 「いや~、これは夜中に長いドライブだね~」

僕ら二人は言葉にせずとも片道一時間半かかる美優の自宅まで財布を届けることに合意した。

 かくして僕と川畑はもう一杯ずつ(今度はひとつ大きいサイズの)珈琲をこしらえ、鼻を抜ける冷たい空気の星の夜を時速八十キロで走り出した。助手席に腰を下ろした直後麻里のことが胸を過ぎったが、今日も遅くなると聞いていたので、もしかしたら同じ頃に帰るかもしれない、そうしたらこの喜劇を話そうなんて気楽に片付けた。

 僕らは練習の疲れと、眠気と、思わぬハプニングでハイになっていた。世界一可愛いロックバンドのボーカルに、馬鹿でどうしようもない男二人は喜んで踊らされる。

 二十二時になろうとする国道はさすがに空いていて、川畑は常時ハイライトでどんどんミニバンを飛ばした。信号はまるで僕らを迎え入れるように青が続き、眠りに就こうとネオンを消してゆく町、大きな川沿いの田舎町、駅前の小さな町をビュンビュン抜けた。その間車内には先程のスタジオの帰り道で聴いていたTHE 1975のファーストアルバムが引き続きリピートで流れていて、こんなに夜のドライブに合うアルバムは他にないんじゃないのかと、幻の様に見えては消えてゆく街灯を眺めていた。

 その道中、僕らは久々に思い切り音楽の話をした。アルバイト先で出会った頃は飽きることなくずっと音楽の話をしては、タイムカードを切った後も従業員休憩所を占拠していた。当時僕は川畑を「川っち」と呼んでいたが、バンドを次々と潰してゆくうちに何故か「川畑さん」と余所余所しい呼び方になった。三つも年上なので正解と言えば正解なのだが。

 僕らの出会いは五年と半年前の春だった。寒さが大分和らぎ、これからとびきり明るい季節を迎えようと空気や花々がソワソワ身震いしだす季節。川畑に出会った当初、僕の心境はそんな世間の前向きな雰囲気とは真逆だった。

 十九の時からプロになろうと音楽活動を本格化してゆき、バンドを結成し、借金を抱えてまでライブをした。昼間はセレブでごった返すイタリアンレストランの厨房でシェフに怒鳴られながらせっせと小銭を稼ぎ、夜はスタジオに入り三時間の練習。そして二百九十円のドリアをゆっくり突き、ドリンクバーの甘ったるいジュースと、当時ほとんどの銘柄が三百円だった煙草を齧りながら仲間と夢を語る日々。

 しかし、同じ夢を持ち、同じプロ意識を持ち、同じ情熱を持つもの同志であっても、元は違う人間同士。ましてや違う楽器を持ち、違うパートを演奏する者同士、どうしても生まれてしまう意見の食い違いや些細な衝突で、ステージで一緒に汗をかき、笑顔を交わし、同じスポットライトを睨んだ仲間達は、そんな日々がまるで幻だったかのように次々と僕の元から離れて行った。

 そんなくたびれて仕様が無い日々にうんざりした僕は、二十一の時にバンド活動を停止した。当時付き合っていた金持ちの家のお嬢様だった彼女とも別れ、怒鳴られながらもなんだかんだ居心地が良くなっていたアルバイト先のイタリアンレストランも退職し、それまで自分がどっぷり浸かっていた音楽活動を媒体にして存在したありとあらゆる生活の一部を一旦捨てた。そして新たに見つけたアルバイト先のレストランで、同じオープニングスタッフとして入社した川畑に出会った。

 オープンの前に行う店舗研修の初日、スタッフ全員の挨拶を順に終えた後、スタッフ同志の親睦を深める為と談話会が催された。僕が座っていたテーブルには二十代初めの男女がそれぞれ四、五人程集められ、卒業間近の大学生、フリーター、シングルマザー、手首にリストカットの痕が目立つ女の子、その子をずっと見ている両耳ピアスの男の子など幅広いジャンルの若者が照れくさそうに(一人だけべらべら喋る者もいたが)身の上話を交わしていた。そして僕がそれまで音楽をやっていたという話をしたところ、「えー、カッコイイ!」というありがちな反応ではなく「なぬ?」と眼光を光らせたのが川畑だった。

 川畑はその時猿楽と在籍していたロックバンド『エレクトリック・ゴート』のギタリストとして毎週馴染みのライブハウスに出演していた。大柄の男性4人で鳴らされる重量感のあるリズムに骨太のロックサウンドは、一定の常連に対し一定の盛り上がりを約束はするが、その「一定」を超えることが出来ないまま結成から10年を迎えようとしていた。周囲の会話の流れを完全に無視して「どんな音楽やってるの?」と目をギラギラさせて訪ねてきたのは、マンネリ化を否定できない音楽活動に何かしらの突破口を見出したいという気持ちの為だろう。その時の会話の詳細をよく覚えていないが、バンド活動に対して抱いてた不満、見出していた課題がほとんど一致していたことにお互いに驚き、会話が弾んでゆくうちに「この人とバンドが出来たらいいのに」と思い始めていたことは覚えている。約1年後、念願叶って僕は彼とバンドを組むことになるが、その活動の果てに今の僕が願うのは、気軽に何でも音楽を語り合ったその頃への回帰だった。

 そうしてあっという間に美優の家に着き、夜遅いので若干躊躇したが仕方なくインターホンを鳴らした。すぐに玄関のポーチに灯りが点き、ふわふわした温かそうなルームウエアを着た美優が慌てるように扉を開けてすぐ「本当にごめんなさい!」と頭を下げた。僕らが財布を届けに来ることを分かっていて、謝罪する準備をしていたかのようだった。

 「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ない、こんな夜だというのに、私が財布なんかを忘れるばっかりに・・・」

 美優は何度も頭を下げて謝っていたが、最初から何も怒っていなかったので二人で宥めた。美優が頭を下げる度にほのかにシャンプーの香りがしたので、おそらくお風呂上りなのだろう、湯冷めが心配になった。

 「おかげで仁君とも久々にたくさん話せたしさ、全然気にしないでよ、それより早く休んでくれたまえ」

 川畑がエンジンをかけ早めに切り上げようとすると、美優がお詫びに俯きながらお菓子をどっさりくれた。いい加減顔を上げてほしいなと思ったが、なるほど、化粧を落としているから恥ずかしいのだと分かり微笑ましかった。

 ありがとうと手を振り続ける美優をサイドミラーで見ながらまた来た道へ走り出した。一時間半前に買ったアイス珈琲はまだ氷が残っていて冷たく、美優からもらった甘いビスケットとの相性が最高だった。

 行きの興奮が落ち着くと、ふと先程川畑が何を言いかけていたことを思い出してそれを尋ねた。川畑は煙草を燻らせ「忘れちゃったなぁ、また思い出したら話すよ~」と穏やかに笑っていた。

 結局帰りの道中もなんとなくバンドの今後については話せず、気ままな話をしながらアパートすぐそばの曲がり角に到着した。川畑に労いの言葉とお礼を伝えて車を降り、さすがによろよろとキーボードを背負ってアパートまで歩いた。

 アパートの敷地内に入ろうとするところで、こんな夜遅くだというのに駐車場から男女の話し声が聞えることに気が付き不意に足を止めた。駐車場を通らないと自分の部屋には辿り着けないので少々気まずかった。

 「クリスマスはどうやって過ごすん?」

 低く貫禄を漂わせながら、それでいて労わるような関西弁の男の声が優しく問いかける。

 「わからないよ、どうせまたつまらないクリスマスだと思うわ・・・、出来れば一緒にいたいのだけど。」

 寂しさ、侘しさ、切なさが込み上げるかのように、少女の様な哀しい声が救いを求める。2人の会話の雰囲気はまるで、粗末な扱いと、満たされない日常にくたびれたシンデレラのもとに、舞踏会を待てずに王子様が迎えに来てしまったかのようだ。

 「このまま君が寂しい想いをするって言うんなら、僕が無理矢理でも素敵なクリスマスをプレゼントしたるで。せやさかい、耐え切れなくなったらまた呼んでな。いつだっって駆け付けたるから。」

 男が王子様としての台詞を関西弁で完璧に言い終えると、少しの静寂の後にエンジンがかかる音がしてヘッドライトが点いた。車はアパートから出て僕とは逆の方向へ去っていった。車に興味が無い僕でも知っている高級車のエンブレムが微かに見えた。そのすぐ後に駐車場から出て手を振らずに車を見送るシンデレラの後ろ姿は、午前0時を迎える寂しさが滲む瞬間を留めた美しい絵画の様だった。

 エンジンの音が聞えなくなった静寂の中で、人気に気がついたシンデレラが僕に振り向いた。

 「仁・・・、今日は遅かったのね。」

 少女の様な声は、聞き慣れた大人っぽい麻里の声に変わっていた。






 ―「ブルースマンもいいご身分だなまったく、おかげで俺が駆り出されるなんてほんとう最悪よ・・・」

 「まぁそれはもう仕様がないさ、何かあった時に急に呼び出しをくらうのが俺達の仕事だろう」

 「なんだって今日なのさ!、いつも何も来やしねぇ田舎道で警棒と盾持ってつっ立てるだけの仕事だってのに・・・」

 今日に限って何か特別な用事があったようで、若い警官は同僚の前で顔を膨らませていた。

 「でも俺達、私服捜査員に特命されたおかげで、あの暑苦しくて重い、その上少々臭い制服を脱げたから良かったじゃないか」

 「そもそも俺は今日有給でお休みをいただいていたので、制服も着ることもなく、こんな騒々しい空港になんて居ない筈だったのです!」

 若い警官は同僚に吠えてから煙草を灰皿スタンドの中に指で弾き入れた。それから若い警官とその同僚は喫煙所の自動ドアを抜け、スーツケースを転がす客でごった返す喧騒を縫って外に出た。屋内は色んな国の言語を飛び交わせる人間で一杯だが、外はリムジンバス、迎えの車、ホテルの送迎の車で一杯だった。

 「じゃぁまた後で」と挨拶を交わし、お互いそれぞれの定位置へ歩いてゆく。若い警官は「く」の字に建つターミナルの、「く」の腹部分にある駐車場の巡回、および警備を任されていた。

 昨夜発生した警官が銃を奪われる事件がこの空港近くで発生した為、空港内の警察に特別警備が命ぜられた。過去に空港の建設に反対した過激派による犯行という仮説が立てられたりするなど、テロへ繋がる重大な事件として警戒が強化されたのだ。

目撃者の証言により、事件当初ギターを弾いて歌を唄っていたという事から、犯人は隠語で“ブルースマン”と言われ茶化されており、それがなんだか少々洒落た響きに感じた若い警官はより一層不満を募らせ、明日からの2連休に有給休暇を重ねて恋人と旅行へ行くはずだった予定が潰される程の緊急事態という思わぬ不運に肩を落とし、任された駐車場付近をとぼとぼと歩いていた。

 十月になった空には薄い鱗雲が彼方まで続いているようで、真昼だというのにまるで夕陽のようなオレンジがかった陽の光がそれらをぼんやり滲ませていた。

 「嗚呼、綺麗だなぁ」と、若い警官が感動と落胆が入り混じる溜め息を吐くと、何処からともなく赤蜻蛉が目の前をふわふわと過ぎった。涼しくなったと感じるようになった最近でも、今日はいつもより少々暖かい。こんな日に旅行に行けたらなんと良かっただろうか!と、よりいっそう気持ちが沈む若い警官の前を、また一匹、もう一匹と赤蜻蛉が優雅に飛んでゆく。

 ふとその赤蜻蛉を追った目線の先に、何か馴染みのない音が聴こえることに気がついた。

駐車場から直接ターミナルの二階へ続くエスカレーター辺りから聴こえてくる。まるでノイズ混じりの、古いが故哀愁漂うような、しかし時々悪魔の囁きの如く身震いを制せない響きの音、声、いや、これは歌だ。誰かが歌っている。

若い警官はスーツの下、腰に携えた銃を意識し、その音が鳴る方へ導かれるように歩き出した。―



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